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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第34話:最適化された優しさ

 朝の空気は、少しだけ湿っていた。

 カーテンを叩く雨の音も、遠くで鳴るカラスの声も、すべてが磨りガラス越しのように遠い。


 白く、不透明に、視界が熱で滲んでいく。

 かつて独りきりの台所で、俺が最も嫌ったノイズの一つ。換気扇の吸い込みが追いつかないほどの熱気、視界を奪う白濁。だが、今の俺は、その澱みの中でしか正しく呼吸ができないのではないかという、奇妙な錯覚に囚われていた。


 台所では、いつもより早く沸かした湯の音が、コトコトと低いリズムを刻んでいる。

 俺は、詩織が起きる数分前にティーポットを温め、彼女が好む、甘い香りの茶葉を落とした。


 かつての俺なら、こんな手間は時間の浪費だと切り捨てていただろう。

 一人で生きるためには、自分を機械のように律する必要があった。余計な感傷も、余計な手間も、自立という名の防壁を脆くする不純物でしかなかったからだ。


 だが、今は違う。


(……この匂いなら、あいつは顔を綻ばせる)


 昨日、詩織がふと漏らした「イチゴの匂い、好きです」という呟き。それを俺の脳内のデータベースが拾い上げ、今朝の献立を決定させた。

 これはもう、思考を介するまでもない。

 この生活を、この凪のような時間を、一秒でも長く維持するための……そう、当然の処置だ。


「……あ、湊くん。おはようございます」


 寝ぼけ眼の詩織が、リビングに現れる。

 少しだけはねた髪、まだ夢の残り香を纏ったような、緩みきった表情。


「おはよう。……まだ眠いなら、あと十分は座っていろ。紅茶、淹れてあるから」


 俺の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

 わざとらしいわけじゃない。ただ、今の俺には「正解」が見えているのだ。


「わぁ……いい匂い。私の好きなやつ、覚えててくれたんですか?」


「……偶然だ。安売りしてたから買っただけだ」


 嘘だ。

 俺の買い物メモに、そんな特売品の文字はない。

 だが、詩織は「ふふっ」と嬉しそうに笑い、湯気の向こうで頬を染めた。


 その笑顔を見た瞬間、俺の胃のあたりにあった、得体の知れない「きりきりとした焦燥」が、すっと引いていくのを感じた。


(よし。……これでいい)


 あいつが笑えば、俺の平穏は守られる。

 あいつが満足していれば、大人が介入する隙を完全に封じ込めることができる。


 俺は、あいつを救っている。

 そして俺自身も、この「完璧に制御された幸福」の中に、安住している。


 *


 学校への道すがらも、俺は詩織の歩幅を、彼女が最も疲れを感じない一定のピッチに合わせていた。


「……湊くん、今日はなんだか、すごく優しいですね」


 詩織が、不意に俺の顔を覗き込んできた。

 その真っ直ぐな視線に、俺の喉が一瞬だけ、硬くつかえる。


「……何だ。俺はいつも通りだ」


「ううん、違います。……なんていうか、言葉が、ふわふわしてます」


「ふわふわ?」


「はい。……前は、もっと、こう……石ころみたいに硬い言葉だったのに。今は、私が欲しいって思ってる言葉を、全部知ってるみたいで」


 心拍が、わずかに跳ねた。

 嫌な汗が、背中を伝う。


(……気づかれたか?)


 いや、違う。あいつにそんな鋭さはない。

 これは俺の「最適化」が成功しすぎているだけだ。

 俺は、詩織が怯えないように、詩織が安心するように、自分の言葉の角を一つずつ、丁寧に、無機質に削り取ってきた。


 不快な言葉を、俺はもう口にしない。


 ただ、「お前はそのままでいい」「無理はするな」という、毒にも薬にもならない、けれど彼女の乾いた心に染み渡る言葉だけを選び、配給している。


「……気のせいだ。お前が、この生活に慣れすぎて、俺の毒に耐性がついただけだろ」


「そうなのかな……。でも、嬉しいです。湊くんに大切にされてるんだなって、すごく伝わってくるから」


 詩織は、俺の腕に自分の細い指先を絡めてきた。


 ……大切。


 その言葉が、俺の胸の奥で、鉛のような重みを持って居座る。

 大切にしている。確かに。


 だが、俺が大切にしているのは、詩織という人格なのか?

 それとも、俺が作り上げた、この「美しく静止した箱庭」の一部としての彼女なのか?


 ……考えたら負けだ。今はただ、この柔らかい体温を繋ぎ止めておけばいい。


 *


 放課後の図書室。

 西日が差し込む窓際で、春奈奈々が、開いた本から一度も目を離さずに呟いた。


「……ねえ、阿久津くん」


 俺は、詩織に頼まれた課題の参考書を探す手を止めず、鼻を鳴らす。


「なんだ」


「あんた、最近……気持ち悪いほど『いい男』になってるよね」


 春奈が、ゆっくりと本を閉じた。

 その瞳には、いつものふざけた光がない。ただ、標本を観察する学者のような、冷徹な理性が宿っていた。


「……褒め言葉として受け取っておこう」


「ううん。警告。……あんたの言葉、全部『正解』すぎて。……冬馬さんの心が、あんたの用意した型に、無理やり流し込まれて固まってるみたいに見えるんだよね。まるでお菓子のゼリーみたいにさ」


 指先が、本棚の背表紙の上で凍りついた。


「……何が言いたい」


「あんた、冬馬さんのこと、本当に見てる? ……あんたが見てるのは、自分が『こうあってほしい』って思ってる、冬馬さんの幻影なんじゃないの? ……ねえ、それ“優しさ”って名前をつけてるだけで、やってること、整形と同じだよ」


 春奈の声が、静かな図書室に、不快な波紋を広げていく。


「……勝手な推測を垂れ流すな。俺とあいつの間には、積み上げてきた時間が――」


「――そうだね。積み上げたね。……崩れないように、一ミリの誤差もないように。……でもね、阿久津くん。人間って、そんなに綺麗に積み上がらないんだよ。いつか、あんたの計算できない場所から、ヒビが入る」


 彼女は再び本を開き、それ以上の追及を放棄した。


 俺は、何も言えなかった。

 握りしめた参考書の角が手の平に食い込む痛みを感じながら、逃げるようにその場を後にした。


(ヒビ? ……入らせるわけがない)


 俺は完璧だ。

 俺の言葉は、俺の行動は、すべてが彼女を救うために最適化されている。


 ……そうでなければ、困るんだ。


 *


 夜。

 夕食の後、詩織はリビングのソファで、俺の貸した参考書を抱えたまま、船を漕ぎ始めた。


 俺は、無音で立ち上がり、クローゼットから毛布を持ってきた。


 彼女の肩に、そっとそれをかける。

 指先が、彼女のうなじの柔らかな産毛に触れそうになる。


 俺は、その手を引っ込めた。


 今は、この距離が、この安定が、すべてなのだ。


「……ありが……とう、湊くん……。私……幸せ、です……」


 詩織が、夢の中で小さく呟いた。


 その言葉を聞いた瞬間。

 俺の心臓は、歓喜の悲鳴を上げた。


 幸せだと言わせた。

 幸せだと思い込ませた。


 ——違う。

 それは「与えた」んじゃない。


 不安も、迷いも、選択肢も。

 削いでいった結果、残ったものだ。

 その末に残った、この濁り一つない「幸福」。


 ……それを、本当に幸福と呼んでいいのか。


(……いや)


 俺は、思考を切り捨てる。

 考えるな。意味はない。


 あいつは笑っている。

 それがすべてだ。それでいいはずだ。


 俺は、自室に戻り、デスクに座った。

 ノートを開き、鉛筆の先を真っ白な紙に押し付ける。


『151』


 今日、ペン先が紙に触れた回数。


 意味なんて、ない。

 ただ、これだけは記録しておかなければならない気がした。


 その数字が、暗闇の中で呪いのように光を放っている。


 俺は、自分の右手を見つめた。


 この手で、何かを少しずつ変えている。


 ……そうでなければ、困る。


 窓の外、夜の闇が白く濁り始めている。

 それは、春の霧か。

 それとも、俺たちの視界を奪おうとする、静かな崩壊の兆しなのか。


 俺は、答えを求めることを放棄し、ただ、静まり返った家の中の、あまりにも「正解」すぎる静寂に、深く耳を澄ませていた。


 その静寂こそが、俺が最も心血を注いで作り上げた、最強の防壁だったのだから。

 たとえその中にあるのが、呼吸を忘れた、美しすぎる静物画だとしても。

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