第112話:存在の刻印
その掲示板は、ひどく静かだった。
広場には多くの受験生が集まっているはずなのに、俺の耳には何も聞こえない。周囲の歓声も、絶望の溜息も、風が校舎を吹き抜ける音すらも、すべて遮断されていた。ただ、掲示板に並んだ黒い数字だけが、世界のすべてのようにそこに鎮座している。
俺は、震える指を伸ばした。
自分の運命を確認するための、儀式。
3705。3706。3707。
指先が、冷たい掲示板の表面をなぞっていく。
3708。
3709。
俺の心臓が、きゅっと冷たい氷の塊に握りつぶされるような錯覚に陥る。
次にくるはずの数字がない。
俺は視線を左右に走らせた。
3711。
3712。
その間にあるはずの、3710だけが存在しなかった。
番号が消えたのではない。最初から、この掲示板に俺という人間が存在しなかったかのように、空白が広がっている。
指先が、震えた。掲示板の白い余白をなぞる。そこには何も記されていない。エラーもなければ、訂正の跡もない。ただ世界という巨大なシステムから、俺というデータだけが認識されていない。
エラー表示すら出ない。修正も、救済もない。ただ最初から、存在しなかったことになっている。
俺は、世界から認識されていない。
そんな馬鹿げた考えが、理性では否定できないほどの現実感を持って迫ってきた。
これまでどれだけ偏差値を積み上げ、どれだけ志望校の傾向を分析し、どれだけ詩織との未来を計算し続けても、俺という存在そのものが、この世界から弾き出されているのだ。
視界が急速に狭まる。吐き気が込み上げる。
自分の肺が、空気を求めて必死に鳴っているはずなのに、酸素が足りない。周囲の景色が、まるで水彩画のインクが雨に濡れたように、ぐにゃりと歪んで溶け出していく。
◇
「――っ!」
弾かれたように、俺は跳ね起きた。
全身が、冷たい脂汗でぐっしょりと濡れている。心臓が胸郭を内側から叩き壊さんばかりの勢いで暴れていた。
ここは、どこだ。
寝室の闇が、重い毛布のように俺を取り囲んでいる。
暗い室内で、俺は自分の胸に手を当てた。脈動が、異常なほど速い。自分がまだ生きていることを確認するように、深く、深く息を吸い込む。
「湊くん……湊くん!」
詩織の声だ。
彼女の温かさが、現実を引き戻す錨のように、俺の意識を闇の底から引きずり上げる。
隣では、不安げな表情を浮かべた詩織が、俺の肩を掴んでいた。彼女の指先から伝わる体温が、張り詰めていた俺の思考を少しだけ解いていく。
ベッドサイドのランプが、カチリと音を立てて点灯した。柔らかな光が部屋を照らし、俺の網膜を焼き付ける。
「大丈夫ですか? ずっと、うなされていて……。ひどい汗です」
詩織は手近にあったタオルを手に取り、俺の額の汗を丁寧に拭い始めた。
彼女の仕草は、あまりにも優しく、そしてあまりにも現実的だ。夢の中の「削除された世界」という抽象的な恐怖と、今目の前で俺を看病している彼女という具体的な存在の対比に、俺は自分がまだこの世界というシステムの中に留まっているのだという事実に、安堵を通り越した眩暈を覚える。
「……怖い夢でも見たんですか?」
詩織が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は、大きく息を吐き出して、乱れた呼吸を整える。自分がどう答えるべきか、脳内が回転する。論理的に考えれば、これはただのストレスによる入眠障害だ。あるいは、直前の過剰なシミュレーションによる脳のオーバーヒート。生物学的な反応に過ぎない。
けれど、あの「自分が世界から消える」という感覚の残滓が、まだ胸の奥でどろりと重く居座っている。
「……落ちる夢を見た」
俺は正直に告げた。強がる必要も、分析して誤魔化す必要もない。今の俺には、彼女に今の心境を伝えること以外の選択肢はなかった。
「合格発表の掲示板を探す夢だ。3708、3709があって……その次にくるべき3710が、なかったんだよ」
詩織の指が、タオルを動かす手を止めた。
「不合格という結果じゃない。俺の番号だけが、最初からそこに存在しなかった。俺というデータだけが認識されていないような……そんな夢だった」
口に出すと、夢の恐怖は嘘のように色褪せていく。それでも、詩織は俺の言葉を否定せず、ただじっと俺の目を見ていた。彼女は、俺が論理的に説明しようとするこの悪夢の、その奥底にある「自分が消失する恐怖」を、言葉以上の密度で受け止めてくれているようだった。
「夢でよかったですね」
詩織は、静かにそう言った。
彼女は、俺の手をぎゅっと握りしめた。その温かさが、今の俺を構成する唯一の確実な要素だった。
「……そうだな。夢でよかった」
俺は、彼女の手を握り返す。だが、心の奥底で、冷たい氷のような不安は消えていない。
「夢でよかった」という言葉は、安堵を意味するのではない。それは、これから始まる「現実」という名の、もう一つの悪夢を予感させる呪文に過ぎなかった。
時計の針は、午前六時を指そうとしていた。
あと数時間で、俺たちの未来が決定する。
***
朝の空気は、痛いほどに澄んでいた。
二月の空は、まるで俺たちの神経を切り裂く刃物のように鋭い。
俺たちは、味のしない朝食を済ませ、家を出た。
昨夜の計画書を、俺はコートのポケットに忍ばせている。その硬い感触が、俺の存在証明のようになっていた。
スマホを取り出せば、指先一つで結果は分かる。この時代に、わざわざ現地へ向かうことは効率的ではない。だが、今の俺たちにとって、これは必要な儀式だった。
自分の目で確かめること。自分の足で、その場所に立つこと。そうしなければ、この「不安」というパラメータを、自分の中で処理しきれない気がしたのだ。
駅までの道すがら、街は普段と変わらない様子で動き出していた。
通勤する会社員たち、急いで登校する小学生たち。彼らにとっては、何てことのない金曜日の朝だ。けれど俺にとっては、世界が分岐する特異点だ。
この何気ない日常の中に、自分が属していられるのか。それとも、今日を境に、俺は別の場所へ放り出されるのか。
「湊くん、そんなに歩くの速くて大丈夫ですか?」
詩織が、小走りで俺の横に並ぶ。
彼女の手が、俺の袖をそっと掴んでいる。その些細な重みが、俺の思考を現実に繋ぎ止めてくれる。
「ああ、すまない。……ただ、少し早く現地に着いておきたくて」
俺は歩調を緩めた。彼女を振り回すつもりはない。
だが、この焦燥感は、自分の足で歩いていても消えそうになかった。
キャンパスの正門が見えてくる。
すでに多くの受験生たちが集まっていた。それぞれが、それぞれの人生を賭けた結果を待っている。周囲の顔つきは、俺たちと同じように強張っているか、あるいは過剰なほど明るく振る舞うかの二択だった。
保護者の姿も多い。その横を通り過ぎるたびに、俺は自分が背負っているものの重さを再確認する。俺には、親という後ろ盾はない。だが、その代わりに詩織がいる。そして、昨日二人で作り上げた未来がある。
正門をくぐると、キャンパスの空気が一変した。
石畳を踏みしめる靴音が、どこか厳かに響く。
俺たちは、掲示板が設置されている広場へと歩を進めた。
人混みの熱気が、肌を刺す。ざわめきが、波のように俺たちを飲み込む。
発表の時間は、刻一刻と迫っていた。
俺たちの前には、すでに人垣ができている。
皆、同じ一点を見つめている。
あの掲示板。
その向こう側にある、自分たちの未来。
俺は、深く呼吸をした。
肺の中まで冬の冷気が満ちていく。
夢の中で見た光景が、フラッシュバックする。
3708……3709……そして、空白。
自分が自分でなくなる瞬間。
自分の努力や、詩織との思い出や、この数年間のすべてが、数字一つの欠落によって否定される世界。
その恐怖が、理屈を超えて俺の身体を支配しようとする。足がすくむ。心臓が痛い。
もし、ここに番号がなかったら。
俺は、詩織に何と言えばいい?
「次は頑張ろう」などという言葉は、俺には言えない。次のチャンスを得るための資金を、俺はもう使い果たしているのだから。
この一撃が、すべてだ。
俺という存在の、全か無か。
その時。
「湊くん」
隣にいた詩織が、俺の方を向いた。
彼女は、まっすぐに俺の瞳を覗き込んでいる。泣きそうなのに、どこか笑っているような、不思議な表情だった。
「何があっても、一緒にいようね」
彼女は、俺が計画書に書き込んだどの確率論よりも、確かな言葉をくれた。
俺たちの未来は、試験の合否だけで決まるんじゃない。
どんな結果が出ようとも、俺たちがどう生きるかで、その価値は決まる。
そうだ。俺は、一人じゃない。
掲示板に番号があろうとなかろうと、俺たちの関係性というデータは、誰にも消去できない。
「……ああ。そうだな」
俺は、一度大きく頷いた。
視界が、クリアになる。
周囲のノイズが、すっと遠のいていく。
この大学の受験番号は、学部を跨いだ通し番号になっている。
俺は人垣の隙間を見つけ、そこへと一歩、足を踏み出した。
発表の瞬間、という合図はなかった。
ただ、周囲が一斉に静まり返り、次の瞬間、歓声と悲鳴が入り乱れる。
掲示板に、数字の羅列が映し出される。
俺は、視線を走らせた。
3706。
3707。
3708。
3709。
そこから先を見るのが怖い。
心臓が、耳元で鐘を鳴らしているようだ。
世界が止まる。
指先が、冷たくなる。
掲示板の白い表面。黒いインクの数字。
俺の心臓は、この瞬間のために鼓動を打っていたと言っても過言ではない。
昨日までの俺、そして明日からの俺。
そのすべてが、この一枚の板の上にある。
俺の視線が、その次へ落ちる。
――3710。
視界に入った瞬間、俺の思考が停止した。
夢の中では存在しなかった数字。
何度見ても、そこには確かに黒い文字が刻まれている。
俺の番号だった。
俺は口を開こうとした。
次は入学金の振込期日を確認し、詩織に労いの言葉をかけ、それから……。
いつものように状況を整理して、次の行動を決めなければと思った。
でも、声が出ない。喉の奥が熱く、胸の鼓動が耳元でうるさいほど鳴り響いている。
思考が、うまく繋がらない。
俺が構築してきたどんな高度な計算式にも、この「溢れ出る感情」を表すための項目など、最初から存在していなかったのだ。
俺は無意識に、ポケットの中の計画書を強く握りしめた。
紙の硬い感触が、今はひどく愛おしい。この計画は、夢の中の砂上の楼閣ではなく、確かに俺たちの未来として形を成したのだ。
「……湊くん?」
隣から、震える声が聞こえた。
振り返る。
詩織が、泣いていた。
大粒の涙を零しながら、それでも笑っていた。
「あった……」
その一言だけで、胸の奥に張り付いていた何かが、ガラガラと崩れ落ちる音がした。
合格した。
俺たちが描いた未来へ、最初の一歩を踏み出した。
気付けば、俺も笑っていた。笑いすぎて、肺が痛い。
「帰ったら、計画書の修正版を作らないとな」
「ふふっ。まずは喜びましょうよ」
そう言って笑う詩織の手を、俺は強く、二度と離さないように握り返した。
未来はまだ分からない。
社会の理不尽さはこれからも続くし、俺たちの前にはまた新しい地雷が埋まっているかもしれない。
けれど今日だけは。
『3710』
それは、ただの合格番号ではなかった。
俺がこの世界に確かに立っていること。そして、詩織とこれからの未来を描いていけること。その二つを示す、確かな証明だった。




