↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

112/118

第111話:二人の経営計画書

 部屋の壁に掛けられた時計の秒針が、まるで心臓の鼓動のように冷徹な音を刻んでいる。


 カチ、カチ、カチ……。


 深夜二時。リビングの明かりを落とした室内で、俺の目の前にはモニターの青白い光だけが不気味に浮き上がっていた。


 俺は、キーボードを叩く指を止めた。

 一度大きく息を吐き出し、乱れかけた呼吸を整える。喉が渇いていることに気づき、コップに注いだ水を一気に飲み干した。それでも、胸の奥で暴れている動悸は治まらない。


 明日は、合格発表だ。

 俺と詩織の、これからの人生を左右する、ただ一つの数字が突きつけられる日。


 かつての俺なら、今の状況を「合格率」という単一のデータに集約し、冷徹に期待値を計算していただろう。過去の合格最低点、倍率、受験者層のレベル。それらを集めてグラフにすれば、ある程度の「予測」は立つ。


 だが、今の俺にとって、そのデータは何の慰めにもならない。もし不合格だった場合、その事実はただの「数値」ではなく、俺たち二人の生活基盤を根底から揺るがす「崩壊」に直結するからだ。


 パソコンの画面には、完成したばかりのExcelシートが表示されている。

 タイトルは、『共同生活維持・発展計画書』。


 俺がこの一週間、寝食を忘れて組み上げた、俺たちの数十年分を先取りした未来の設計図だ。

 学費、家賃、光熱費、国民健康保険、国民年金。社会人として生きるために必要な全てのコストを、国立大学の経済学部へ通う想定と、詩織が医療系の学校へ通う想定で算出した。


 これは、ただの生存戦略ではない。

 二人が、これからも変わらず、この屋根の下で温かい飯を食い、同じ布団に入り、他愛のない話をして笑い続けるための――愛の証明書だ。


 ふと、背後の気配に気づく。

 いつの間にか、詩織がキッチンから戻ってきていた。手には、湯気の立つマグカップが二つ。


「湊くん、休憩しましょう? もう三時ですよ」


 詩織の声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。彼女は俺の背後に立ち、心配そうに俺の肩に手を置く。彼女の指先から伝わる体温が、張り詰めていた俺の思考を少しだけ解いていく。


「……ああ、すまない。あと少しで終わる」

「そんなに詰め込まなくても……。明日、ちゃんと起きられないですよ」


 詩織は俺の隣に座り、マグカップをテーブルに置いた。

 彼女はモニターに映し出された緻密な数字の羅列を、興味深そうに眺める。彼女の視線が、リストの下の方へと流れていく。


「……えっと、家賃に、食費、通信費……」


 彼女が一つずつ、丁寧に指でなぞっていく。そのたびに、俺は少しだけ誇らしいような、恥ずかしいような気分になる。

 やがて、詩織の指が、俺が最もこだわって入力した箇所で止まった。


「……ここ、ですね」

「ああ」

「記念日予算、旅行積立、コーヒー代……それに、お出かけ用の服飾費?」


 詩織が、ふふっと小さく笑った。その笑い声は、俺の不安を少しだけ溶かしてくれる。


「湊くん、これ……共同生活なんですか?」

「そうだが? 何か抜けがあるか? 数値の整合性は完璧なはずだ」

「いえ、そうじゃなくて……。これ、なんていうか」


 詩織は頬を少しだけ染めて、照れくさそうに首を傾げた。


「結婚計画書、みたいだなって」


 心臓が、変な音を立てた。

 俺は一瞬、言葉に詰まる。結婚。その単語は、俺のリストの中には明確には存在しなかった。法的な制約、年齢的な問題、親権の解消。俺はそれら全てを「ハードル」として認識しており、その先にある「結婚」という形に意識を向ける余裕などなかったからだ。


「……違うのか?」

「えっ?」


 俺は真顔で問い返した。詩織が目を丸くして固まる。


「俺は、お前とこの先ずっと一緒にいたいと思っている。生活を共にし、家計を管理し、お前が困った時には俺が守り、俺が困った時にはお前に助けてもらう。法的な手続きがどうであれ、実態としてはそれこそが俺たちの目指すべき形だろう。もしこれに名前をつけるなら、それは結婚以外に何がある?」


 自分の言葉を反芻して、ようやく俺は詩織が何を言いたいのかを理解した。

 彼女は、俺が何の気なしに作った資金計画表を、俺からのプロポーズだと受け取ったのだ。

 顔から火が出るかと思った。違う。俺はただ、効率的なリスク管理をしたかっただけだ。……いや、本当にそうか? 本当は、何十年先もお前とコーヒーを飲みたかったから、コーヒー代の項目を何よりも優先して確保したんじゃないのか?


「湊くん、それ……実質プロポーズですよ……」


 詩織が、顔を覆って小さくしゃくり上げる。それは泣いているのではなく、あまりの衝撃に言葉を失っている時の反応だ。


「……いや、これはただの資金計画だ。誤解を招くつもりはなかった」

「もう……湊くんのそういうところ、本当にズルいです」


 詩織は顔を覆ったまま、肩を震わせて笑っている。その姿を見ているだけで、俺の胸の中にあった冷たい塊が、少しずつ熱を持って溶けていくのを感じる。

 俺は、彼女に嫌われたわけではないらしい。むしろ、俺の計算が、彼女の心を少しだけ温めたようだった。


「……コーヒー代を削る計算だけは、一生しない」

「……はい。私も、湊くんの分も、ちゃんと淹れますから」


 二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。

 だが、俺の心の中にある「不確定要素」は消えてはくれない。

 俺は一度深呼吸をして、震える指でマウスを動かした。PCの画面を、もう一つのタブへと切り替える。


『プランB:不合格時(浪人・再受験ルート)の再計算表』


 タブを切り替えた瞬間、詩織の表情から笑みが消えた。

 そこには、俺が意地になって書き込んだ、残酷なまでの「もしもの未来」が並んでいる。

 浪人予備校の費用、一年間のアルバイト代、生活の縮小化。そして、合格発表という「エラー」が発生した際に、いかにしてこの共同生活を維持するかという、狂気じみた計算式。


「湊くん……」

「合格率という確率は計算できる。……だが、不合格の瞬間に、お前と『離れ離れになる確率』だけは、どうしても計算したくない」


 俺は、詩織から視線を逸らした。

 自分の弱さをさらけ出すようで、直視できなかった。

 もし落ちたら、俺は耐えられるだろうか。詩織のいない家で、一人でコーヒーを飲みながら、この計画書を見返す自分の姿を想像するだけで、吐き気がする。


「……俺は、お前との生活が崩れることを、何よりも恐れているんだ。もし不合格なら、俺はどんな手段を使ってでも、この計画を維持する。お前に、どんな苦労をかけてでも」


 情けない告白だった。俺は、詩織の未来を自由にするために戦ってきたはずなのに、心の奥底では、彼女を俺の支配下に、俺の計画の中に繋ぎ止めておきたいという、独占的な本能が渦巻いている。


 俺の独白を聞き終えると、詩織は静かに、俺のPCの画面を見つめた。

 そして、そっとマウスに自分の手を重ね、タブを切り替えた。

 プランA、プランB、プランC。

 全てのルートに、彼女の名前が刻まれている。


 詩織は、俺に向き直り、小さく微笑んだ。


「湊くん。私、難しい計算は分かりません。……でも」


 彼女の指先が、プランBの項目を指す。そこには、俺が書き込んだ「詩織のアルバイト収入」と「湊の奨学金」の複雑な合算値があった。


「どの表の未来にも、私がいるんですね。……どのページをめくっても、湊くんと一緒にいる未来が書いてある」


 彼女の瞳に、俺の姿が映り込んでいる。

 そこには、俺のような怯えはない。ただ、静かな、深い愛だけがあった。


「それだけで、ちょっと安心しました」


 その言葉は、俺のどんな計算式よりも強力だった。

 彼女は、俺がどれだけ論理で武装してもたどり着けない場所から、俺を救い上げようとしている。


 俺はゆっくりと、彼女の手を握った。

 冷たかった彼女の手が、俺の体温でじんわりと温まっていく。


「……明日の結果で、この表の数字は大きく変わるだろう。誤差が出る。今の計算なんて、明日にはゴミになるかもしれない」


 俺は自嘲気味に笑った。


「……修正できるかどうかは分からない。明日という日が、俺たちの計画をどこまで破壊するか、予想もつかない」


 だが。

 俺は、詩織の手をもう一度、強く握り直した。


「だが、修正しようとすることはできる。……お前がいれば、俺は何度でも計算し直す。何度でも、やり直す」


「はい。……私も、お手伝いします」


 詩織は、強く頷いた。

 俺たちは、パソコンを閉じた。

 画面から発せられていた青白い光が消え、部屋の中が夜の闇に包まれる。


 明日は、十時間後。

 俺たちの人生の、最初の大きな分岐点。


 窓の外では、冬の夜空がどこまでも深く、冷たく広がっている。

 合格か、不合格か。

 そんな単純な二択で、これからの俺たちの運命が決まる。


 不安は、まだここにある。

 俺の心臓は、まだうるさいほどに脈打っている。

 計算をどれだけ積み上げても、未来という変数は、俺たちの手からこぼれ落ちていく。


 それでも。

 俺たちは、静かにソファに腰を下ろし、手を繋いだまま、夜明けを待つことにした。


 祈るような気持ちで。

 ただ、隣にいる相手の体温だけを頼りに。


 未来を恐れるのは、それだけ、今この場所が大切だということだ。

 俺は、その恐怖すらも、彼女と共に抱きしめて生きていく覚悟を決めた。


 やがて、遠くの空が、ほんのりと白み始める。

 俺たちの運命を分ける数字が出るまで、あと数時間。

 俺はもう、その結果を恐れるだけの人間ではなかった。

 どんな結果が出ようとも、その先にある、お前との日常という「答え」を、俺は必ず導き出す。


 そう心に誓い、俺は詩織の手を、より強く握りしめた。

 静かな夜明けが、俺たちの新しい一日を迎え入れようとしていた。


 それが、合格発表という名の試練の朝だとしても。

 俺たちは、二人で歩き出す。

 その確信だけが、今の俺の、唯一の正解だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。