第111話:二人の経営計画書
部屋の壁に掛けられた時計の秒針が、まるで心臓の鼓動のように冷徹な音を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ……。
深夜二時。リビングの明かりを落とした室内で、俺の目の前にはモニターの青白い光だけが不気味に浮き上がっていた。
俺は、キーボードを叩く指を止めた。
一度大きく息を吐き出し、乱れかけた呼吸を整える。喉が渇いていることに気づき、コップに注いだ水を一気に飲み干した。それでも、胸の奥で暴れている動悸は治まらない。
明日は、合格発表だ。
俺と詩織の、これからの人生を左右する、ただ一つの数字が突きつけられる日。
かつての俺なら、今の状況を「合格率」という単一のデータに集約し、冷徹に期待値を計算していただろう。過去の合格最低点、倍率、受験者層のレベル。それらを集めてグラフにすれば、ある程度の「予測」は立つ。
だが、今の俺にとって、そのデータは何の慰めにもならない。もし不合格だった場合、その事実はただの「数値」ではなく、俺たち二人の生活基盤を根底から揺るがす「崩壊」に直結するからだ。
パソコンの画面には、完成したばかりのExcelシートが表示されている。
タイトルは、『共同生活維持・発展計画書』。
俺がこの一週間、寝食を忘れて組み上げた、俺たちの数十年分を先取りした未来の設計図だ。
学費、家賃、光熱費、国民健康保険、国民年金。社会人として生きるために必要な全てのコストを、国立大学の経済学部へ通う想定と、詩織が医療系の学校へ通う想定で算出した。
これは、ただの生存戦略ではない。
二人が、これからも変わらず、この屋根の下で温かい飯を食い、同じ布団に入り、他愛のない話をして笑い続けるための――愛の証明書だ。
ふと、背後の気配に気づく。
いつの間にか、詩織がキッチンから戻ってきていた。手には、湯気の立つマグカップが二つ。
「湊くん、休憩しましょう? もう三時ですよ」
詩織の声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。彼女は俺の背後に立ち、心配そうに俺の肩に手を置く。彼女の指先から伝わる体温が、張り詰めていた俺の思考を少しだけ解いていく。
「……ああ、すまない。あと少しで終わる」
「そんなに詰め込まなくても……。明日、ちゃんと起きられないですよ」
詩織は俺の隣に座り、マグカップをテーブルに置いた。
彼女はモニターに映し出された緻密な数字の羅列を、興味深そうに眺める。彼女の視線が、リストの下の方へと流れていく。
「……えっと、家賃に、食費、通信費……」
彼女が一つずつ、丁寧に指でなぞっていく。そのたびに、俺は少しだけ誇らしいような、恥ずかしいような気分になる。
やがて、詩織の指が、俺が最もこだわって入力した箇所で止まった。
「……ここ、ですね」
「ああ」
「記念日予算、旅行積立、コーヒー代……それに、お出かけ用の服飾費?」
詩織が、ふふっと小さく笑った。その笑い声は、俺の不安を少しだけ溶かしてくれる。
「湊くん、これ……共同生活なんですか?」
「そうだが? 何か抜けがあるか? 数値の整合性は完璧なはずだ」
「いえ、そうじゃなくて……。これ、なんていうか」
詩織は頬を少しだけ染めて、照れくさそうに首を傾げた。
「結婚計画書、みたいだなって」
心臓が、変な音を立てた。
俺は一瞬、言葉に詰まる。結婚。その単語は、俺のリストの中には明確には存在しなかった。法的な制約、年齢的な問題、親権の解消。俺はそれら全てを「ハードル」として認識しており、その先にある「結婚」という形に意識を向ける余裕などなかったからだ。
「……違うのか?」
「えっ?」
俺は真顔で問い返した。詩織が目を丸くして固まる。
「俺は、お前とこの先ずっと一緒にいたいと思っている。生活を共にし、家計を管理し、お前が困った時には俺が守り、俺が困った時にはお前に助けてもらう。法的な手続きがどうであれ、実態としてはそれこそが俺たちの目指すべき形だろう。もしこれに名前をつけるなら、それは結婚以外に何がある?」
自分の言葉を反芻して、ようやく俺は詩織が何を言いたいのかを理解した。
彼女は、俺が何の気なしに作った資金計画表を、俺からのプロポーズだと受け取ったのだ。
顔から火が出るかと思った。違う。俺はただ、効率的なリスク管理をしたかっただけだ。……いや、本当にそうか? 本当は、何十年先もお前とコーヒーを飲みたかったから、コーヒー代の項目を何よりも優先して確保したんじゃないのか?
「湊くん、それ……実質プロポーズですよ……」
詩織が、顔を覆って小さくしゃくり上げる。それは泣いているのではなく、あまりの衝撃に言葉を失っている時の反応だ。
「……いや、これはただの資金計画だ。誤解を招くつもりはなかった」
「もう……湊くんのそういうところ、本当にズルいです」
詩織は顔を覆ったまま、肩を震わせて笑っている。その姿を見ているだけで、俺の胸の中にあった冷たい塊が、少しずつ熱を持って溶けていくのを感じる。
俺は、彼女に嫌われたわけではないらしい。むしろ、俺の計算が、彼女の心を少しだけ温めたようだった。
「……コーヒー代を削る計算だけは、一生しない」
「……はい。私も、湊くんの分も、ちゃんと淹れますから」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。
だが、俺の心の中にある「不確定要素」は消えてはくれない。
俺は一度深呼吸をして、震える指でマウスを動かした。PCの画面を、もう一つのタブへと切り替える。
『プランB:不合格時(浪人・再受験ルート)の再計算表』
タブを切り替えた瞬間、詩織の表情から笑みが消えた。
そこには、俺が意地になって書き込んだ、残酷なまでの「もしもの未来」が並んでいる。
浪人予備校の費用、一年間のアルバイト代、生活の縮小化。そして、合格発表という「エラー」が発生した際に、いかにしてこの共同生活を維持するかという、狂気じみた計算式。
「湊くん……」
「合格率という確率は計算できる。……だが、不合格の瞬間に、お前と『離れ離れになる確率』だけは、どうしても計算したくない」
俺は、詩織から視線を逸らした。
自分の弱さをさらけ出すようで、直視できなかった。
もし落ちたら、俺は耐えられるだろうか。詩織のいない家で、一人でコーヒーを飲みながら、この計画書を見返す自分の姿を想像するだけで、吐き気がする。
「……俺は、お前との生活が崩れることを、何よりも恐れているんだ。もし不合格なら、俺はどんな手段を使ってでも、この計画を維持する。お前に、どんな苦労をかけてでも」
情けない告白だった。俺は、詩織の未来を自由にするために戦ってきたはずなのに、心の奥底では、彼女を俺の支配下に、俺の計画の中に繋ぎ止めておきたいという、独占的な本能が渦巻いている。
俺の独白を聞き終えると、詩織は静かに、俺のPCの画面を見つめた。
そして、そっとマウスに自分の手を重ね、タブを切り替えた。
プランA、プランB、プランC。
全てのルートに、彼女の名前が刻まれている。
詩織は、俺に向き直り、小さく微笑んだ。
「湊くん。私、難しい計算は分かりません。……でも」
彼女の指先が、プランBの項目を指す。そこには、俺が書き込んだ「詩織のアルバイト収入」と「湊の奨学金」の複雑な合算値があった。
「どの表の未来にも、私がいるんですね。……どのページをめくっても、湊くんと一緒にいる未来が書いてある」
彼女の瞳に、俺の姿が映り込んでいる。
そこには、俺のような怯えはない。ただ、静かな、深い愛だけがあった。
「それだけで、ちょっと安心しました」
その言葉は、俺のどんな計算式よりも強力だった。
彼女は、俺がどれだけ論理で武装してもたどり着けない場所から、俺を救い上げようとしている。
俺はゆっくりと、彼女の手を握った。
冷たかった彼女の手が、俺の体温でじんわりと温まっていく。
「……明日の結果で、この表の数字は大きく変わるだろう。誤差が出る。今の計算なんて、明日にはゴミになるかもしれない」
俺は自嘲気味に笑った。
「……修正できるかどうかは分からない。明日という日が、俺たちの計画をどこまで破壊するか、予想もつかない」
だが。
俺は、詩織の手をもう一度、強く握り直した。
「だが、修正しようとすることはできる。……お前がいれば、俺は何度でも計算し直す。何度でも、やり直す」
「はい。……私も、お手伝いします」
詩織は、強く頷いた。
俺たちは、パソコンを閉じた。
画面から発せられていた青白い光が消え、部屋の中が夜の闇に包まれる。
明日は、十時間後。
俺たちの人生の、最初の大きな分岐点。
窓の外では、冬の夜空がどこまでも深く、冷たく広がっている。
合格か、不合格か。
そんな単純な二択で、これからの俺たちの運命が決まる。
不安は、まだここにある。
俺の心臓は、まだうるさいほどに脈打っている。
計算をどれだけ積み上げても、未来という変数は、俺たちの手からこぼれ落ちていく。
それでも。
俺たちは、静かにソファに腰を下ろし、手を繋いだまま、夜明けを待つことにした。
祈るような気持ちで。
ただ、隣にいる相手の体温だけを頼りに。
未来を恐れるのは、それだけ、今この場所が大切だということだ。
俺は、その恐怖すらも、彼女と共に抱きしめて生きていく覚悟を決めた。
やがて、遠くの空が、ほんのりと白み始める。
俺たちの運命を分ける数字が出るまで、あと数時間。
俺はもう、その結果を恐れるだけの人間ではなかった。
どんな結果が出ようとも、その先にある、お前との日常という「答え」を、俺は必ず導き出す。
そう心に誓い、俺は詩織の手を、より強く握りしめた。
静かな夜明けが、俺たちの新しい一日を迎え入れようとしていた。
それが、合格発表という名の試練の朝だとしても。
俺たちは、二人で歩き出す。
その確信だけが、今の俺の、唯一の正解だった。




