第109話:幸福の後遺症
「……詩織」
朝食の片付けを終え、俺がソファに向かって呼びかけた瞬間だった。
喉の奥から出力されたのは、自分のものとは思えないほど低く、粗い砂利をすり潰したような悪質なノイズだった。
「ひゃい、な、なんれすか……っ」
クッションを抱えていた詩織が跳ね起きて返した声もまた、完全にガス欠を起こした古い掃除機のような、スカスカの掠れ音だった。
俺たちは二人して、互いの顔を見合わせたまま完全にフリーズした。
静寂に包まれた朝のリビングに、ガラガラに枯れ果てた互いの不審な声だけが、ひどく間抜けな響きを残して消えていく。
原因は明白だった。俺の脳内のログをわずか十数時間遡るだけで、明確なエラーの原因が特定できる。
過度な声帯振動による一時的な機能低下――要するに昨日の夕方、駅前のカラオケボックスでエコーレベルを最大値の『100』に設定し、全力で魚の名前を叫びすぎたせいだ。
あの『42点』の無慈悲な代償は、翌朝の喉の完全崩壊という形で、正確に俺たちの身体に刻み込まれていた。
「……過度な声帯振動による、一時的な機能低下にすぎない」
俺が地を這うようなデスボイスで言い張ると、詩織は自分の喉を手で押さえながら、堪えきれなくなったようにお腹を抱えてクスクスと笑い出した。
「み、湊くん……っ、その極悪な声で、そんな難しいこと言わないでください。……っ、お腹痛い……っ」
「……笑うな。お前だって、音程が狂った壊れかけの笛みたいな音が出ているぞ。とても人間の発声とは思えない」
「だって……っ、昨日、湊くんが急に真顔でライブ演出とか言って、マイクスタンドまで持ち出して、そこだけ全力で、マグロって……っ」
詩織は涙を浮かべるほど笑っていた。
喉が痛いはずなのに、彼女の表情には微かな陰りもない。俺は小さくため息をつき、キッチンへ向かった。
冷蔵庫から取り出したレモンを、ペティナイフで手早く薄切りにしていく。二つのマグカップにスライスしたレモンを入れ、たっぷりのはちみつを落とし、電気ケトルで沸かしたお湯をゆっくりと注いだ。
立ち上る白い湯気とともに、柑橘の爽やかな香りと甘い匂いが、冬の冷たい空気を少しだけ柔らかくする。スプーンで底の方からかき混ぜると、カチャカチャという陶器の音が静かな部屋に響いた。
「……これを飲め。まずは喉を労るのが最優先だ。今日の朝食、トーストはやめとこう。硬いと喉に障るからな。……代わりに雑炊を作る」
温かいハチミツレモンをテーブルに置くと、詩織は嬉しそうに目を細めた。
「はい。……ありがとうございます、湊くん」
二人で並んでソファに座り、フーフーと息を吹きかけながら、ぬるいハチミツレモンをすする。喉を通り抜ける甘酸っぱい熱が、昨日の楽しかった時間の余韻をじんわりと呼び覚ましていく。
これまで俺たちは、常に『生存』のために動いてきた。栄養価を計算し、効率を優先し、常に何かに追われるように生き延びてきた。
だが、詩織の父親を巡る問題が完全に解決し、大人の理不尽な脅威から解放された今、俺たちを脅かす物理的なリスクは存在しない。昨日までの過酷な日々を経て、俺たちはようやく、こうした気の抜けた温かい日常を、本当の意味で分け合えるようになっていた。
*
朝食を終え、身支度を整えた俺たちは、並んで家の玄関扉を開けた。
一歩外に出ると、二月の鋭い冷気が容赦なくコートの襟元から入り込んでくる。吐く息は真っ白に染まり、空はどこまでも高く澄み切っていた。
門扉を閉め、駅へ向かう道中、俺たちは無言だった。物理的に声が出しづらいというのもあるが、冷たい空気を吸い込むと喉がチリチリと痛むため、自然と口数が減っていたのだ。
満員の通勤電車に揺られながら、俺たちは並んでつり革に捕まっていた。
普段なら、周囲のノイズに紛れて明日の小テストの範囲や、昼食の献立について小声で言葉を交わす時間だ。だが今日は、俺のコートのポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、隣に立つ詩織からのメッセージだった。
『湊くん、喉、痛くないですか?』
俺は片手でフリック入力を行い、素早く返信する。
『ハチミツレモンの効果で粘膜の保護はできている。だが、今日の授業での発言は極力避けるべきだな。当てられた場合は、お前が代わりに答えろ』
『ええっ!? 無理ですよ、私の声も笛みたいなんですから!』
すぐ隣にいるのに、画面越しに行われる無音のやり取り。
本気とも冗談ともつかない俺の無茶振りに、詩織が慌ててスマホを握り直し、マスク越しでも分かるほど目を丸くしてこちらを睨んできた。その小動物めいた反応が予想通りすぎて、俺の口元がわずかにニヤリと緩む。
以前の俺なら、隣にいる相手と端末越しに会話するなどという非効率極まりない真似は、絶対に許容できなかったはずだ。だが今は不思議と、この少しだけ意地悪で遠回りなコミュニケーションすら悪くないと感じていた。
だが、その「温かい日常」は、一歩外へ出て学校の教室に入れば、また別の意味を持って襲いかかってくる。
登校後の教室。
共通テストが終わり、多くの生徒の進路が事実上決まりかけている二月の教室は、どこか浮ついた独特の解放感に包まれていた。
教室内には卒業旅行のパンフレットを広げて騒ぐグループや、自動車学校の教習スケジュールの話題で盛り上がる者たちの声が響いている。黒板には誰かが描いた謎のキャラクターの落書きが放置され、チョークの粉の匂いが冬の乾燥した空気と混ざり合っていた。
俺と詩織は、いつものように『適切な距離』を保ち、席の近くで何気ないプリントの受け渡しを行っていた。
「……これ、次の、提出のやつだ」
「あ、ありがとうございます……」
いつも通りの事務的なやり取り。過不足のない距離感。
これで完璧なはずだった。だが、お互いに口を開いた瞬間にすべてが台無しになった。お互いの声が、揃いも揃って壊滅的なハスキーボイスのままだったからだ。
「ちょっと待って二人とも、その声どうしたの!?」
背後から、教室の喧騒を切り裂くような鋭い突っ込みと共に現れたのは、クラスメイトの春奈奈々だった。その隣には、やれやれと呆れた顔の矢島も当然のようについてきている。
「ハモってガラガラなんだけど! 朝から何やってんの!?」
「矢島……これは、空気感染による一時的な体調不良だ。大した問題ではない」
俺が努めて無表情を作り、重低音のガラガラ声で言い張ると、矢島はたまらず吹き出した。
「朝からそんなヤクザ映画みたいな声で、真顔で何言ってんだよ(笑)。おそろいの風邪か? まぁ、仲が良いのは結構だけどさ」
「そうそう! ほんと、そういう変なところのシンクロ率だけは無駄に高いよねー、この夫婦」
春奈がニヤニヤと笑いながら、いつものお決まりのフレーズを投下した。
――『この夫婦』。
クラス公認の呼び名だ。父親の問題が完全に解決し、大人の目を気にして隠し事をする必要がなくなった今となっては、既に恋人同士である俺たちのリアルな関係性を、周囲に悟らせないための格好の目隠しになっていた。
今までなら、俺だって「都合の良い呼び名だ」と冷徹に受け流し、詩織なら「もう、奈々ちゃんたら!」と適度に照れてみせる。それで終わるはずの冗談。
だが。
昨日のカラオケボックスでの光景がフラッシュバックする。
「やっと、湊くんの声が聞こえました」
あの時の詩織の笑顔が、妙に頭から離れなかった。
だからこそ。
『夫婦』といういつもの冗談が、今の俺たちには以前とは違う響きを持って聞こえた。
「っ……」
耳の裏が熱い。
たまらず隣を見ると、詩織は顔を真っ赤にして完全に俯いていた。昨日の何を思い出したのかは知らない。だが、いつもなら即座に奈々に言い返すはずの彼女が、言葉を失い、首の裏まで桜色に染めている。机の上の木目をなぞる彼女の指先が、微かに震えていた。
動揺をまったく隠せていない俺たちの様子を見て、春奈と矢島が怪訝そうに顔を見合わせ、さらに楽しそうに目を細めた。
「お? ちょっとちょっと、二人とも、今日はいつもより照れ度が一段と強くない? え、もしかしてマジでなんかあった? 風邪じゃなくて、叫びすぎたとか?」
「……矢島、こいつを早く連れて行け。自習の妨げになる」
「はいはい。ほら春奈、あんまり弄ると湊がショートするから行くぞ。じゃあな、お熱い二人さん」
矢島に苦笑交じりに首根っこを掴まれながらも、春奈は振り返って最後に爆弾を落としていった。
「あ、そういえばもう二月じゃん。今年も例の季節だねぇ。今年の仕込みも、楽しみにしてるよー、詩織!」
二月、十四日。バレンタインデー。
その単語が教室の空気に溶けた瞬間、隣に立つ詩織の肩がビクッと大きく跳ねるのが視界の端に映り込んだ。
*
放課後。
騒がしい友人たちと別れ、夕闇が迫る住宅街を、俺たちは並んで歩いていた。
冬の張り詰めた冷たい空気が、火照った頬を少しだけ冷ましてくれる。足元では、乾いたアスファルトの上で二人の影が静かに揺れている。
教室での動揺の余韻が、まだお互いの間に奇妙な沈黙を作っている。ただ、その沈黙は決して息苦しいものではなく、少しだけ照れくさくて温かい温度だった。
通り過ぎるコンビニの入り口には、すでに派手なピンク色や赤色のポップと共に、特設のチョコレートコーナーが設置されているのが見えた。街全体が、その日に向けてそわそわとした空気を醸し出している。
昨日までの俺だったなら。春奈の口から『バレンタイン』という単語が出た瞬間に、すでにポケットからスマートフォンを引き抜き、「最適なカカオ含有量」や「本命と義理の統計学的境界線」について調べ始めていただろう。検索画面をスクロールし、あらゆるレビューを読み漁り、最適解という名の正解を探し求めていたはずだ。
だが、面倒な分析はやめた。
俺はポケットの中で握りしめていたスマートフォンから手を離し、空っぽになった手をその奥に突っ込んだ。
「……詩織」
「はい、湊くん」
朝よりはマシになったものの、まだ少しだけかすれた声で彼女が俺を見上げる。
俺は真っ直ぐ前を向いたまま言葉を吐き出した。
「……バレンタインについての、カカオの含有量やブランドについてのデータは、もう調べない」
「え……?」
「市場調査もやめた。そういうのは……もう、必要ないらしいからな」
俺の言葉の意図を彼女が理解するまでに、ほんの数秒の空白があった。
住宅街の片隅。遠くで犬の鳴き声が聞こえる中、詩織は歩みを止め、俺の顔をじっと見つめた。
詩織は一瞬、驚いたように丸く目を見開き、それから――心の底から愛おしそうに、クスクスと笑い声を漏らした。
「はい。……ふふっ、知ってます。データなんて、調べなくて大丈夫ですよ」
彼女は俺の少し前へトトトッと歩み出ると、くるりと振り返り、冬の夜空の下で最高の笑顔を浮かべた。
街灯のオレンジ色の光が、彼女の柔らかい髪を淡く照らしている。
「湊くんには……データじゃないものを、ちゃんと用意しますね」
その言葉が妙に嬉しかった。
俺たちの前には、まだ合格発表という不確定な要素が残っている。けれど、今はそれでいい気がした。
「……そうか」
俺の口から出たのは、たったそれだけだった。
それ以上の言葉なんて、今の俺たちには必要なかった。
「ふふっ」
「……楽しみにしてる」
俺が短くそう告げると、詩織は花が綻ぶように笑って頷いた。
冷たい風が吹き抜ける二月の夜道を、俺たちは並んで歩いた。




