第108話:攻略対象、流行歌
リビングの空気は、ひどく穏やかだった。
つい先日まで部屋の中央を占拠していた参考書の山や、壁に貼られた過密なスケジュール表はすでにない。共通テストという巨大な防衛戦を終えた俺たちの部屋には、ただ、静かで規則正しい時計の針の音と、冬の柔らかい日差しだけが落ちていた。
「……詩織、試験も終わったし、少し出かけるか」
俺がそう告げると、ソファーで本を読んでいた詩織は目を丸くし、花が綻ぶような笑顔を見せた。
目的地は隣町。以前訪れた『猫とひだまり』という猫カフェだ。
今回、俺はもうスマートフォンで最短ルートの計算をしたりはしなかった。詩織の歩幅に合わせて歩き、店に入れば、あの時の三毛猫や黒猫と穏やかな時間を過ごす。
何もしない時間。かつてはそれに焦りを感じていた俺も、今はただ、詩織が猫を撫でて笑う姿を眺めているだけで、十分に満たされていた。
一時間半の滞在時間はあっという間に過ぎた。
店を出ると、冬の短い日はすでに傾きかけ、空は薄いオレンジ色に染まり始めていた。
駅へ向かう帰り道。
俺は、商店街の入り口にある、けばけばしいネオン看板の前で足を止めた。
カラオケボックス。
「……詩織」
「はい?」
「行くぞ」
「えっ……カラオケ、ですか?」
詩織が驚いたように看板を見上げる。
俺はコホンと一つ咳払いをして、理論武装を開始した。
「……前回のデータは不完全だった」
「データ?」
「ああ。以前ここに来た時、俺たちは世間一般の流行歌というものを一切知らず、消臭剤のCM曲や校歌を歌うという、極めて非合理的な行動をとった。あれは、普通の高校生としての擬態システムに重大な欠陥があることを示している」
俺の言葉に、詩織が思い出し笑いをして口元を押さえた。
「あはは……ありましたね。湊くん、真顔で『シュッとひと吹き』ってすごいエコー響かせて歌うから……」
「……笑うな。あれは緊急避難的な選曲だ。だが、今回は違う」
俺はスマートフォンを取り出し、画面に表示されたリストを詩織に見せた。
「試験終了後、四日間、暇さえあれば。家の中では最新ヒットチャートだけを流し続けた。再生回数上位百曲。世代別人気ランキング。SNSで流行したサビ。さらにはカラオケ採点AIの評価項目まで分析した。抑揚係数、しゃくり、こぶし、ビブラート、ロングトーン……採点アルゴリズムまで完全に逆算済みだ」
「よ、四日間も……?」
「今日は、あの日のリベンジを果たす」
俺が真剣な顔で告げると、詩織は呆れたように、けれどひどく嬉しそうに微笑んだ。
「……ふふっ。湊くんらしいですね。じゃあ、お手並み拝見、ですね」
*
重い防音扉を閉め、俺たちは二度目となる密室へと足を踏み入れた。
前回とは違う。入店前の準備からして完璧だった。
受付での店員の対応、機種の選定、デンモクの操作。前回俺たちをパニックに陥れたトラップも、今回は事前のシミュレーション通り、一切の無駄なくクリアした。
ドリンクバーで持ってきた飲み物をテーブルに置き、俺は姿勢を正してタブレット端末を操作した。
「……いくぞ。まずは、現在の市場調査で最も評価の高いラブソングだ」
画面に美しい夜景が流れ、切なくもキャッチーなメロディラインがスピーカーから流れ出す。
俺は立ち上がり、マイクを握った。
呼吸を整え、横隔膜を意識し、音程を正確に拾う。
感情を込めるのではない。感情を『再現』するのだ。
サビでは声量をきっちり十二パーセント増加。二番のAメロでは、原曲通りに語尾にわずかな掠れを意図的に付加。ビブラートの周期と波幅も、解析値と完全に一致させる。
一音のミスもなく、ただ冷徹に、完璧なデータを声帯から出力し続けた。
間奏に合わせて優雅にマイクを下ろし、最後の一音を完璧なピッチで着地させる。
画面には『98.4点』という高得点が表示された。
俺は、満足げにソファへ戻った。
「……どうだ」
俺は胸を張って、隣で端末を握りしめている詩織を見た。
「発声、音程、抑揚。すべて解析値通りだ。これぞ統計学的に導き出した、最も標準的で『普通の高校生』のカラオケだ。文句はないだろう」
だが、詩織の反応は、俺が予測していたものとは違った。
彼女は、少しだけ寂しそうな顔で端末を見つめ、それからゆっくりと俺を見た。
「……上手です。すごく……」
詩織は、呟くように言った。
「でも、今の湊くんは、ただ音を正確に出してるだけの、スピーカーみたいでした」
心臓が、わずかに跳ねた。
「……スピーカー?」
「……湊くんの声なのに、湊くんがいませんでした」
詩織は、テーブルの上のグラスの結露を指でなぞりながら、絞り出すように言葉を繋いだ。
「息遣いも、笑いそうになる癖も、全部なくなってました。……ただ、完璧なデータを見せられたみたいで」
俺は返事ができなかった。
初めて、画面に表示された『98.4点』という数字が、俺の中で完全に意味を失った。あれほど欲しかったはずの数字が、ただの記号にしか見えなかった。
俺は、彼女と同じ「普通の世界」に立つために、異常なまでのデータ収集を行った。彼女に「普通の青春」を見せてやりたくて、必死に流行歌をインプットしたのだ。
それなのに。
最適解を積み上げれば、正解に到達する。
それが、俺の知る世界の法則だった。
……違ったのか。
「湊くん、私たちはテストを受けに来たんじゃないですよ。……データなんて、今の私たちには必要ないのに」
防音室の重い空気が、肺を圧迫する。
沈黙。部屋を支配するのは、ただの無機質な重低音。
その時、横に座る詩織が、ふと履歴を開いた。
指先が、画面の上で迷うことなく、ある一箇所をタップする。
モニターの映像が、劇的に切り替わった。
前回二人で歌った、あの市場や鮮魚コーナーで流れていそうな、妙に耳に残るコミカルな伴奏。
魚の名前を連呼するだけの謎のBGMだった。
「……これ、もう一回歌いませんか?」
詩織が、少しだけいたずらっぽく笑った。
「湊くん。その、完璧な攻略データじゃなくて……湊くんの、ポンコツな声で」
俺は、その画面を睨みつけた。
「……チッ。せっかくの攻略データが……」
言いかけた言葉が、途中で消えた。
画面のテロップが流れ始める。軽快なイントロが響く。
俺は、端末を操作し、エコーの設定を『100』の最大値まで振り切った。
そしてマイクスタンドを部屋の中央に引きずり出し、無駄に仰々しいライブ仕様のセッティングにする。
「……ライブでは演出も重要らしいからな」
「そこまで調べたんですか……っ」
俺が真顔でそう告げると、詩織が堪えきれずに吹き出した。
「……チッ。結局、これかよ」
俺は、スタンドマイクを両手で握りしめ、前回よりもずっと大きな声で、魚の名前を叫んだ。
「『マグロォォォ!! カツオォォォ!!』」
「『サーモン!! サンマァァァ!!』」
詩織もソファの上に立ち上がり、マイクを握りしめて遥かに高いテンションで叫び返してくる。
俺は、もう「周囲の目」なんてどうでもよかった。
統計学も、標準的な娯楽も、完璧な高校生という仮面も。
そんなものは全部、過剰なエコーと魚の名前の連呼と共に、防音室の壁の向こうへ蹴り飛ばした。
肩を組み、リズムなど無視して飛び跳ねる。
俺たちの声は重なり合い、盛大に音程を外し、時に爆笑に変わる。
画面の採点機能が無慈悲にも『42点』という数字を弾き出した。
「……どうやらこの店の採点システムは故障しているらしいな」
「してません!」
俺たちは顔を見合わせて、さらに腹を抱えて笑った。
(……チッ。最適解よりも、今のこの呼吸の方が、どうやら俺のシステムには合っているらしい)
頭の中でそう独り言を呟きながら、俺は本気で叫び、本気で笑った。
曲が終わった。
息を切らし、互いに肩で息をしながら、ソファに崩れ落ちる。
「……ははっ! あははははっ!!」
詩織が笑う。
お腹を抱えて、呼吸ができなくなるほどの笑い。
この笑いの中には、かつて彼女が浮かべていた怯えも、強がりも、他人の顔色を窺う計算もない。
ただ、純粋な、底なしの幸福だけがある。
「やっと、湊くんの声が聞こえました」
詩織が、汗を拭いながら微笑む。
「今の湊くん、ちゃんと笑って歌ってましたよ。……私、こっちの方が百倍好きです」
その言葉は、どんな高得点よりも、俺の胸の一番奥に真っ直ぐに刺さった。
……これか。
これが、攻略ではない、関係性というものか。
俺が知るべきだったのは、流行りの曲のビブラートでも、採点アルゴリズムの逆算でもなかった。
ただ、隣で笑う彼女と同じ温度で、同じように馬鹿をやって息をすること。
それが、俺たちにとっての「普通」なのだ。
*
店を出ると、外はもうすっかり夜の闇に包まれていた。
街灯の明かりが、冷たいアスファルトをオレンジ色に照らしている。
二人とも、少しだけ喉が枯れていた。
だが、足取りは羽が生えたように軽く、心の中は信じられないほど晴れやかだった。
俺はもう、スマートフォンで「カラオケ 攻略法」なんて検索しない。
そんなものは、この冷たくて心地よい夜の空気には、何の意味もないノイズに過ぎないのだから。
「……なあ」
俺は、並んで歩く詩織の横顔を見ずに、真っ直ぐ前を見据えて言った。
「……次は、また別の『ポンコツ曲』を探しておく。……どうやら俺の攻略対象は、流行歌じゃないらしいからな」
俺の言葉に、詩織がぱっと顔を輝かせた。
冬の夜空の下、彼女の笑顔が、どんなネオンサインよりも明るく俺の視界を染める。
「はい! ……楽しみにしてますね、私の最高の相棒さん」
その言葉に、俺は少しだけ口角を上げた。
冷たい風が頬を撫でる中、ふいに俺は前を向いたまま呟いた。
「……マグロォォォ!」
「えっ……? ふふっ、まだ歌うんですか?」
「次回の予習だ。次はサンマから入る」
「そこだけ全力なんですね……ふふっ、本当にポンコツなんだから」
冷たい冬の夜道には、少しかすれた二人の笑い声だけが、いつまでも温かく響いていた。




