第7話 新たな同胞
西方の預言者が誕生して七百五十六年の刻が経った六月未明。
思超堂の館長の部屋に、足音が近づく。李光は戸を見る。
戸を開けて、孫操備が入室した。
「どうだい? 具合は。少しは動けるようになったかな」
孫操備が布団の上に横たわる司馬章と李光に語りかけた。
二人は左手を挙げて応答する。
「……どちらも、軽い火傷だ。もう痛みも引いているし、動けるよ」
司馬章が、確かな元気を取り戻したような声で答えた。隣にいた李光も、包帯の巻かれた腕をゆっくりと動かしながら、無言で、しかし力強く頷いた。
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「……さて。傷も癒えたところで、お前たちには今から語らなければならないことがある」
それまで穏やかな顔を見せていた李光の表情が、一転して険しさを帯びる。
彼は姿勢を正し、蝋燭の火が揺れる机を囲んで、真剣な眼差しで語り始めた。
「……現在、巷で『安史の乱』という名で騒がれ、国中を恐怖に陥れている、この未曾有の反乱についてだ」
李光は司馬章と孫操備…二人の表情を見つめる。
操備は、信頼の目で李光を見る。
司馬章は、理解の目で李光を見る。
___変に言い回さなくても、いいよな。李光は確信した。
そして、こう言った。
「はっきりと言おう。この反乱の真の首謀者は…楊国忠だ」
「なっ!?」
司馬章に戦慄が走る。
「よ…楊国忠って…あの…国の…宰相さまだよな…!?国政の二番手…大臣中の大臣の!!」
「あぁ…それに、皇帝からの信頼も厚い…」
「そんな人が…どうして!?」
「司馬章…今は李光の話を聞こう。ゆっくり飲み込めば、いくらでも納得はいくはずだ」
操備になだめられ、司馬章はしゅんと肩を落とす。
李光はその間沈黙し、司馬章が肩を落とすと、続きを話し始めた。
「……すべての始まりは、五年前のことだった。俺の恩師であり、文官としても名を馳せていた思超家・袁忠という男がいた。先生は、宮中の奥深くで、時の権力者・楊国忠がある思超家と密かに会談している現場を、偶然目撃してしまったんだ」
李光の声が震える。
「楊国忠という奴は、己の野心にまみれた浅はかな莫迦野郎だったんだ…!奴はあろうことかソイツに対し、『皇帝陛下を洗脳せよ』という指示を下した。……その思超家の名前こそ……天上王真理公子。司馬章、お前が仇を討ちたがっているあの天理だ」
冗談か何かだろうか。そんな勘違いは「天理」の一言が現れただけで晴れた。
___奴なら…やりかねない。
彼は、天理がどんな人間なのかは知らない。だが、祖父を殺した人間が、無実の…一人の民衆を殺した人間が、正義を掲げて戦っていただけの高尚な兵士であるはずがない。
「私に復讐を誓え」と、復讐を煽った人間が、正しいはずがないのだ。
「天上王真理公子…天理だな。天理は、翌年には命令を完遂し、皇帝・玄宗の脳内を掌握した。奴の思超は、玄宗が抱いていた安禄山に対する不信感を肥大化させ、同時に、楊国忠を崇拝すべき存在であると誤認させた。」
「洗脳された皇帝は、徐々に楊国忠を贔屓するようになり、政治の全権を奴に委ねてしまった。その一方で、かつての忠臣であった安禄山を遠ざけ、理不尽な圧力をかけ始めたんだ」
司馬章は、燃え上がるような怒りと衝撃に駆られた。民を守るべき立場にある者が、自らの権力誇示のために国を血の海に沈めたという事実は、正義感の強い彼を激しく揺さぶる。
だが、たとえ直接の手を下していなくとも、楊国忠がこの乱を引き起こした諸悪の根源であることに、もはや疑いの余地はなかった。
「楊国忠のジジィは、天理を間者として安禄山の下へ送り込み、天理を“悪魔の囁き”として使ったんだ。安禄山の不安を煽り、反乱を起こさなければ危険だと仕向け、この大乱を引き起こさせた」
現在、安禄山は「君側の奸である楊国忠を討伐する」という大義名分を掲げて軍を進めている。彼は決して、皇帝の命や、国の崩壊そのものを望んでいたわけではないのだ。
だが、楊国忠は違った。彼は皇帝も、安禄山も、そして数多の兵士や民の命さえも、掌の上の駒として弄んだ。反乱を起こされる側の被害者という面を被りながら、混乱する国の有り様を愉快そうに眺め、その混乱の先に、自らが中華の唯一無二の支配者として君臨する機会を虎視眈々と狙っていた。
李光は大きく、重いため息を吐き出すと、吐き捨てるように言い放った。
「結局、俺ら…この国の人間は、全員……! あの楊国忠の手のひらの上で!!踊らされまくってたんだよ!!!!」
李光悔しさのあまり、掛け布団を蹴り上げる。埃が舞い上がり、彼の全身が曝け出す。
「それで……李光の恩師は……どうなったんだ」
「それは、僕から話そう。僕もまた、袁忠先生の弟子だったんだから」
隣にいた孫操備が重苦しく口を開き、李光の代わりに言葉を続ける。
「先生は……死んだよ。楊国忠の密談を目撃したことで目をつけられ、全く身に覚えのない反逆の濡れ衣を着せられて……あいつの命令で無残に処刑されたんだ。死ぬ前に、僕らに真実を教えてくれたことだけが救いだったね……」
彼は小さく付け加えた。
「まぁ、こんな遺産…貰ったところで…ね」
その言葉を聞いた瞬間、李光の足元からバリバリと青白い稲妻が漏れ出した。
踏む足先から、怒りが雷へと変換されて皮膚の上を走る。
「落ち着け、李光。今ここで暴れても、事態は何も変わらない」
操備がなだめるが、李光の瞳に宿った雷鳴は消えるどころか、益々激しく唸る。
「落ち着いてられるか! ……操備!お前もそうだろう!!!」
「!!!」
雷鳴のような李光の叫びに、操備はビクッとした。
李光は寝台から立ち上がり、左手を振り払って言い放つ。
「師匠の残したものは、決して無価値にしねぇ!!!
俺たち、長安の若き思超家は、反乱軍の手がここに届くまでに、楊国忠の首を獲る!!!!」
司馬章の視線が止まる。李光の宣言…操備も強く頷き、同意していた。
この二人は本気だ。
それと、もう一つ。司馬章は大きなことに気づいてしまった。
「反乱軍の手がここに届くまで」…去年の年末に、東の洛陽はあっけなく陥落している。
そして、今は唐の正規軍が、洛陽と長安の間で反乱軍と苛烈な戦を繰り返している。それも、劣勢気味に。
つまり、反乱軍が長安に到達するのは時間の問題であった。
司馬章はおそるおそる訊く。
「その… 反乱軍の手がここに届くまでに…って」
「六月」
「え?」
「つまり、今月中に…だ」
李光は堂々と答える。
司馬章の顎が驚きで外れそうになった。天理の復讐。そんな個人的な目的を果たす過程として寄ったはずが、いつのまにか国の運命を賭けて戦うことになってしまった。思わず右手で口を押さえる。
李光も孫操備も、覚悟の目をしていた。失敗したら国賊。斬首どころの話ではない。
司馬章の目だけが揺らいでいる。彼らは、それを咎める表情も見せない。それがむしろ決断を急かす。
ふとその時、司馬章の脳裏に、燃え落ちる洛陽の光景が浮かび上がる。
燃え盛る民家。破壊される貴族の家。略奪に遭う市場。蹴り飛ばされて絶命する犬。無理矢理服を脱がされる若い女性。兵士と見境なく、肉塊になるまで斬りつけられた男性。髪を掴まれ、台車に詰められる子どもたち。
これらは、意識して見ずとも、勝手に映り込んできた景色の数々だ。
___俺は…。
「……政治の揉め事になんて、本当は関わりたくはなかった。俺はただ、じぃちゃんの仇を討ちたいだけだったんだ」
司馬章は静かに語り始めると、懐に忍ばせていた祖父の形見である【世炎論】を強く握りしめた。そして、その拳を天に向かって高く突き上げた。
「……だが、分かった。この司馬章が、仲間の抱える底なしの苦悩も、この理不尽な世の闇も、すべてまとめて焼き払って見せる!」
司馬章の決意の咆哮が響き渡る。三人の意志は今、決定された。




