第13話 長安に差し掛かる闇
長安に夜が訪れた。人々は皆、それぞれの家に帰り、道を歩いているのは彼ら三人だけになった。本来、長安では夜の外出が禁じられているが、これから反乱軍がやって来るかもしれないという不安の中、細かいことに衛兵が口出しする余裕もなかった。
李光が一歩立ち止まり、二人に声を掛ける。
「この先、俺たちは国家を敵に回すことになる。楊国忠が善人だろうが悪人だろうが、或いは国賊だろうが、刃を向けた時点で、俺たちは大罪人だ。国中から命を狙われることになる」
「分かっている。その覚悟は既にある。国中を敵に回さなかったとしても、僕らは既に王明という怪物に、既に狙われているんだから…もとより命懸けだよ」
孫操備は迷いなく答えた。司馬章も、同様だと言うかのように首を一度縦に振る。
そして、操備の口から出た「王明」という言葉に、眉をひそめた。
(王明は、俺達より優先して倒すべき敵がいたとか言っていたな…。王明も手強いが、王明の敵は一体どんな奴なんだ?)
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長安上空の夜空を馬車が駆け抜けていく。馬が雲を蹴り上げて飛んでいるのではない。馬車が馬ごと浮いているのだ。
車両の中には、二人の男が上空の景色を眺めて座っていた。大柄で筋骨隆々な男と、整った髭に邪悪な笑みをする男。どちらも、燕の尾のような細い首巻きを巻いている。
「ついに来たか。長安!」
大柄な男が外を見下ろす。その肉体は安禄山並みに屈強である。
邪悪な笑みを浮かべている男は皿のような器に注がれた酒を飲む。こちらは人並みの体格だ。
邪悪な笑みを浮かべている男が、大柄な男に問う。
「お前はここで降りるのか、魏匠」
「あぁ!王宮の中のクソ役人どもも、クソ宦官どもも、俺を裏切ったクソ衛兵どもも皆殺しだァ!」
大柄な男は怒りながら応答した。
「そうしてくれ。我らは長安で人を殺しまくり、内部から崩すことが仕事だ」
大柄な男は言葉を止めた。憤怒のようで、悲哀のような、ぐにゃぐにゃにねじ曲がったまま、時が止まったような顔。
「…ッ!」
「そうか。お前は元、長安の近衛隊長だったそうだな。お前を慕った民を手にかけることを躊躇するとは、お前も人間らしい」
「うるせぇ!黙れ!孟寧!」
器を持った男の言葉をさえぎり、大柄な男は瓢箪 の中の酒をガツガツと飲んだ。彼の顔の二倍の大きさはある瓢箪の中の酒を飲み終えると、その瓢箪を馬車の外へ投げ捨てる。瓢箪は真っ白な酒の雫を僅かに撒きながら、夜空を舞った。
「…んじゃ、もう行くぜ。王宮の奴らは情なく殺せるからよォ」
こうして、大柄な男は馬車の扉を開け、上空千七百尺(約500メートル)はある高さから飛び降りた。
扉が空いても、上空の強風は何故か車内に立ち込めない。そもそも、馬車は完全に密封された空間ではないのだから、大柄な男が飛び降りる前から風が入り込んでもおかしくはない。だが、入らないのだ。
「はぁ、相変わらず派手に降りるなぁ。私はゆっくりと降りてゆくとしよう」
器を持った男は右手を前方へ伸ばす。すると、馬車全体に前向きの力が加わり、馬車は加速した。
この二人こそ、反乱軍の思超家組織・乱晶の右一席・魏匠、左二席・孟寧である。
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一方、王宮内は宦官たちが大慌てで走り回っていた。皇帝・玄宗と楊貴妃の逃亡支度をしなければならないのだ。
反乱軍の軍勢は、長安近くまで迫っている。唐軍は防戦一方。反乱軍の都入りも時間の問題だ。
だが、市民たちは城壁に囲まれたこの都に安堵を感じているのか、或いは、逃亡先で路頭に迷うことに不安を感じているのか、なかなか避難しようとはしない。
そこで、宰相・楊国忠の提案により、本日の夜、皇帝や貴妃、他皇族を先に長安から脱出させることにしたのだ。
なんとか、その日の夕方にはすべての準備を終え、二人は馬車に乗り、今にも脱出が可能な状態となっていた。
「それでは…皇帝陛下、楊貴妃様、蜀の地へご無事にお向かいになられますよう、心よりお祈り申し上げます」
馬車の横で楊国忠が深々と礼をとる。「国忠」の名に恥じぬ、如何にも忠臣らしい礼である。
「う、うむ…。楊国忠も、すぐにこちらへ向かうとよい」
「…有難き御言葉でございます、陛下」
楊国忠が顔を上げる。
そのまま左手をクイッと上へ動かす。それを合図に、馬車の操縦士が手綱を引き、馬車が南の城門へ向かって出発した。
馬車がガタガタと音を立てて南進する。揺れる車内で、怯える老人と、ただただ無心に外を眺める女がいた。
「貴妃や、やはり琵琶も取りに戻った方が良いのではないか…?」
「琵琶なら蜀の地でも得ることができます。今の私には、陛下がいてくだされば十分です」
「貴妃…!!」
皇帝は楊貴妃に寄りかかる。
楊貴妃は、右手で皇帝の背を優しく撫でる。
「それと…」
左手には、朱色が色褪せたような古い本が一冊。
馬車は瞬く間に城門を通過した。
街道を守っていた衛兵たちは、皇帝と楊貴妃の乗る馬車を城外の兵団まで送った後、楊国忠の護衛を勤めるため、王宮へ急ぐ。
その時だった。
ものすごい速度で王宮南門に"何か"が降り落ちてきた。土煙は大量に舞い、兵士たちの目を眩ませる。
土煙が晴れると顕れたのは、燕の尾のような白い首巻きをした、屈強な大男。
「うらぁぁあああ!」
雄叫びを上げし男は魏匠だった。
彼は着地後まもなく、近くにいた衛兵五名を殴り殺した。
「て、敵襲ゥゥー!!!」
それを見た他の衛兵が叫ぶ。その声は市内を巡り、他の兵団、住宅路の市民、司馬章たちにも聞こえた。
「急げ!南の城門から脱出しろ!」
住宅路にいる衛兵らが市民に避難を呼びかける。司馬章たちは、市民の進行方向と真逆の方向を見た。
市民も兵士たちも困惑している。敵…いや、それすらも分からない存在ではあるが、空から襲撃を喰らうのは前代未聞の事態である。これでは、堅固な城壁も意味を為さない。
「何だなんだ!?」
司馬章たちは左を向く。
李光は驚いた顔で、叫び声の先を見る。彼らの位置からは少し遠いが、走ればすぐに到着可能な距離だ。
李光は何も言わず、二人を置いて王宮へ走り出した。彼は雷の速度ほどではないが、常人の目では捕らえられない程に足が速く、二人の視界から即座に消えてしまった。
「あ…おい!」
孫操備が誰もいない、李光がいた場所に向かって、反射的に声を出す。
今度は悲鳴が響いた。兵士の悲鳴だ。断末魔も聞こえる。兵士の断末魔だ。既に、二十人以上の兵士が空から振ってきた何かに殺されているだろう。司馬章たちも、響く声で感じていた。
「司馬章…楊国忠を討つなら、今が…」
操備が彼に決断を迫る。
だが、洛陽の悲劇を彷彿とさせるような殺戮の音を、司馬章は放っておくことはできなかった。
「…………」
拳は震え、足の指が地を噛むように靴を曲げる。
司馬章は、軽く盛り上がった土を蹴り、声の鳴る方へ走り出した。
「あ!司馬章まで!」
操備は左足のつま先を、悲鳴の鳴る方へ、右足のつま先を王宮へ向けて葛藤するように立ち止まる。
「………!!!」
「やっぱりほっとけないよね…長安は、僕らの故郷なんだから…!」
孫操備も決断し、司馬章を追うように走り出した。
魏匠が腰を落とした一人の兵士に拳を振るう。その場にいた、彼以外の兵士は皆死んでいた。
兵士に鬼の金棒のような腕の影が差し込む。普段の勇ましい姿はそこにはない。怪物を前にして、子鼠同然に怯えている。
その時、一閃の光が魏匠の拳を受け止めた。
「……あ゛!?なんだテメェ…」
魏匠は彼の腕を振りほどき、首をゴキゴキと鳴らしながら李光を睨む。
李光が辺りを見渡すと、反吐が出るような怒りを露わにした。目に映る光景が正しければ、魏匠は既に二十六名の兵士を殺していた。
「派手にやってくれんじゃあねぇか。思超家気取りの罪人がよォ」
李光に纏わりつく雷がパチパチと広がる。彼の怒りと敵意が雷へと変換されるかのように。
魏匠はチッと舌打ちをすると、右手を強く左の平手に打ちつけた。太鼓のように衝撃が音となって、辺りの空気を震わせる。
「ここの兵士ってワケじゃあなさそうだな。かといって、庶民ってワケでもねぇ。まぁ、大体予想はついているが…」
「早く言えよオッサン。その何とも言えねぇ前置きを終わらせて、俺がアンタをブチのめしてやるからな」
「…まぁ、思超家だよなあ」
魏匠はもう一度、右手拳を左の平手に打ちつけた。振動は全身から地面へ伝わり、李光を威圧するように登る。
「前置きが長くて悪ぃな。 来いよ」
李光は拳を構え、纏う雷は強く発光した。




