ep.3 命の値段
目が覚めるたびに、ここがどこかわからなくなる。
石の天井。苔の匂い。焚き火の残り香。
——ああ、そうだ。
森の廃砦。あの錬金術師の女に拾われた場所。
アルヴィンは藁の寝床の上で身体を起こした。背中の傷が引き攣る痛みは、昨日よりいくらかマシになっている。あの少女の治療が効いているのだろう。禁忌の術だと言っていたが、腕は確かなようだ。
砦の大広間は、朝の光が壁の隙間から細く差し込んで、埃が金色に舞っていた。
広間の中央では、リーゼルが机に向かっていた。
いつからそこにいたのかわからない。もしかすると一晩中そうしていたのかもしれない。研究着の袖口がインクで汚れていて、銀灰色の髪はいつも以上にぼさぼさだ。目の下のクマが濃い。手元ではペンが動き続けており、傍らに積まれた羊皮紙の山が、彼女の夜通しの作業量を物語っている。
そして——あの子どもが、リーゼルの足元で丸くなって眠っていた。
ルゥ、と呼ばれていた。銀髪の、人形のような子ども。人工生命体だと聞いたが、眠っている姿は普通の子どもにしか見えない。
アルヴィンが身じろぎした音に、リーゼルが顔を上げた。
「あ、起きた。調子は」
「……悪くはない」
「そう。じゃあ質問していい?」
朝の挨拶もなく、前置きもなく。この女はいつもそうだ。会話に潤滑油というものがない。
「……何を聞きたい」
「あなたの過去」
直球だった。
アルヴィンは口を噤んだ。
リーゼルはペンを置いて、椅子ごとこちらに向き直った。薄い紫の瞳が、観察するようにこちらを見ている。
「首輪の封印術式を解析してるんだけど、術式の構造から推測できることがいくつかある。まず、これを施術したのはドラグノア帝国の宮廷魔術師。術式の中に帝国固有の魔力署名が残ってる。次に、六層封印という過剰な構造から、あなたの本来の魔力量が尋常じゃないことがわかる。普通の魔術師なら三層で十分。六層必要ってことは——」
リーゼルは一拍置いた。
「あなた、ただの奴隷じゃないよね」
否定する意味がなかった。
首輪の術式から、もう半分以上は読み解かれているのだろう。この女の目は——あの、術式を「見る」ことができるという異常な目は——隠しごとを許してくれそうにない。
アルヴィンは、乾いた唇を舐めた。
「……ドラグノア帝国の、第一王太子だった」
過去形。もう、過去の話だ。
「帝国第一王太子」
リーゼルが反復した。驚いた様子はない。むしろ、パズルのピースが嵌まったという顔だ。
「道理で封印が過剰なわけだ。帝国の王族は竜の血統だっけ。……それで? 王太子がなんで奴隷の首輪なんかつけてるの」
「……長い話になる」
「手短に」
容赦がない。
アルヴィンは目を伏せた。
語りたくない。思い出したくもない。だが——この女に隠し通せるとも思えなかった。何より、自分の状況を説明しなければ、この先どんな不利益があるかわからない。王太子の身分がなくなっても、帝王学で叩き込まれた「情報は最大の武器であり最大の弱点」という教訓は、骨に染みている。
であれば——自分から開示するほうが、まだ制御できる。
「……婚約破棄をした」
「ほう」
「政略で決められた婚約者を、舞踏会の場で——公衆の面前で、破棄した。一方的に」
声にすると、改めて最悪な行為だとわかる。あの時の自分は、それを「当然の権利」だと思っていた。王太子が望まない婚姻を拒否するのは、当然だと。相手の感情など、考えもしなかった。
リーゼルは特に何の反応も示さなかった。ただ聞いている。
「相手は帝国の実力者——ガルシュタイン公爵の一人娘だった。公爵は軍事と財政を握る帝国随一の権力者で……俺が、その娘を公然と侮辱した」
「侮辱。具体的には」
「『退屈な女と添い遂げる気はない』と」
「……なるほど。最悪だね」
淡々と言われた。批判でも同情でもない。ただの事実認定。
「公爵は報復を企てた。俺が父王——皇帝に対して抱いていた不満を利用された。帝国の腐敗に苛立って、一部の過激派と接触していた。それは……事実だ。公爵はそこに『国王暗殺の陰謀』を上乗せして、俺を反逆者に仕立て上げた」
リーゼルが口を挟んだ。
「で、国王暗殺は本当にやろうとしたの?」
心臓が、一拍跳ねた。
この質問を、こんなに真っ直ぐに投げてくる人間は初めてだった。裁判官ですら、もう少し回りくどく聞いた。
「……一部は」
正直に答えた。嘘をついても見抜かれると思った。
「暗殺までは考えていなかった。だが、父王を退位させることは——本気で画策していた。手段が過激だったことは否定しない」
「正直でよろしい」
リーゼルは頷いた。それだけだった。
軽蔑も、糾弾もない。「正直でよろしい」と言って、次の質問に移る準備をしている。
アルヴィンは、不思議な感覚に囚われた。
今まで、自分の過去を誰かに語ったことはなかった。語る相手がいなかった。奴隷に落ちてからは、誰もが自分を「処分すべき危険物」か「使い潰す道具」としか見なかった。過去を聞く者はいない。聞く価値がないからだ。
この女は——聞いている。だが、それは「あなたの痛みに寄り添いたいから」ではない。「研究対象の来歴を把握したいから」だ。
わかっている。わかっているのに——話してしまう。
「結果として、魔力を封じられ、王族の地位を剥奪され、国外追放。その後、エルディアの奴隷商人に売り渡された。何度か主人が替わって——最後の主人が、俺を森に放り出した。使い物にならないと判断されたんだろう。魔力がなければ、ただの手のかかる奴隷だ」
リーゼルが、首輪の方をちらりと見た。
「封印されてる魔力量を考えると、もったいない判断だね。あなたの封印を解ける術者がいなかったってことか」
「……たぶん、そうだろう。宮廷魔術師が施した封印を解ける民間の術者は、まずいない」
「うん。これはかなり高度な術式だもんね。——でも私なら解ける」
さらりと言った。
アルヴィンが顔を上げた。
リーゼルは当然のことのように続けた。
「時間はかかるけど。構造は読めてる。一層ずつ解除していけば、理論上は全層解放可能。あなたの身体が耐えられるかどうかは別問題だけど」
「……なぜ、そんなことを俺に」
「話が早くなるから。——本題に入るね」
リーゼルは椅子の上であぐらをかき直した。行儀が悪い。だがそんなことを気にする空気ではなかった。
「提案がある」
「提案」
「私はあなたの封印術式を研究したい。六層の古代ドラグノア式封印なんて、生きたサンプルは世界に一つしかない。これを解析できたら、私の研究は十年分進む」
「……それが、お前の目的か」
「目的の一つ。もう一つは——あなたの身体の異常な再生能力。あれは封印の下に眠ってる本来の力に関係してる。何が起きてるのか知りたい」
リーゼルは指を一本立てた。
「あなたには、行く当てがない。森に出れば魔獣に殺される。街に出れば奴隷として捕まるか、帝国の追手に見つかるか。——違う?」
否定できなかった。
「利害は一致する。私はあなたの封印術式と身体を研究させてもらう。あなたは私の助手として働く。衣食住は保証する。研究が進めば、封印も段階的に解いていく」
「……それは」
「契約だよ。対等な取引。——まあ、奴隷の首輪がある以上、法的にはあなたの所有権は私にあるから、対等っていうのは建前だけど」
リーゼルは、悪びれもせずに言った。
「でも私、人を鎖で縛いて言うことを聞かせるの、効率悪いと思ってるんだよね。恐怖で動かされる人間のパフォーマンスは低い。自発的に動く人間のほうが生産性が高い。——だから、契約」
合理的だ。
冷酷なほどに、合理的だ。
だが——その合理性の中に、かすかな誠実さがあることを、アルヴィンは感じ取っていた。「対等は建前」と正直に言うところに。嘘で飾らないところに。
奴隷になってから、何人もの「主人」を経験した。優しい言葉で飼い殺しにする者。最初から殴る者。利用価値がなくなれば捨てる者。
その誰もが、自分の行為を何かの正義で装っていた。
この女だけが——何も装っていない。「あなたは研究素材だから助ける」と、そのまま言っている。
(……最悪な提案だ)
だが、選択肢がない。
いや——選択肢がないことを理由にするのは、卑怯だろう。
本当のことを言えば、もうどうでもよかった。生きようが死のうが、奴隷だろうが助手だろうが。全てを失った人間にとって、新しい枷の形が変わることに、大した意味はない。
「……わかった」
声が出た。自分でも驚くほど、小さな声だった。
「好きにしろ。……条件がある」
「言ってみて」
「名前で呼べ。『研究素材』でも『被験体』でも『拾い物』でもなく」
リーゼルが一瞬、目を瞬かせた。
それから、ほんの微かに——笑った、ように見えた。
「了解。——アルヴィン」
初めて、名前を呼ばれた。
命令でも、嘲弄でもなく。ただ名前を確認するように。
それだけのことが、なぜか喉の奥を締め付けた。
「じゃあ、契約成立ってことで。明日から働いてね。まず砦の掃除——」
「待て。今日はまだ身体が」
「あ、そっか。じゃあ今日は安静。でも暇なら、私の研究ノートの整理でもしてくれると助かる。字は読める?」
「……帝国第一王太子を舐めるな。七カ国語を操れる」
「おお。有能。じゃあ翻訳もお願いするかも。古代ドラグノア語の文献が三冊あるんだけど」
「……俺は助手であって翻訳家ではないんだが」
「助手の仕事は多岐にわたるんだよ。——あ、あと被験体と家事係も兼任だから。よろしく」
「……聞いていたが、改めて聞くとひどい待遇だな」
「衣食住つきだよ? 贅沢言わないで」
この会話が「交渉」だったのか「押し切られた」のか、アルヴィンにはもうわからなかった。
ただ、ここ数ヶ月で初めて——誰かとまともに言葉を交わした気がした。
奴隷になってからの日々は、命令と服従しかなかった。「やれ」と言われ、「はい」と答える。それだけ。会話ではなく、指示伝達。人間同士のやりとりですらなかった。
今の——このやりとりは。
対等ではない。リーゼル自身がそう言った。建前だけの対等。
でも。
「被験体」だの「家事係」だの散々な肩書をつけられておきながら——こちらの条件を聞いて、名前で呼ぶことを了承した。
それだけで十分だと思ってしまう自分が、情けなくもあり——少しだけ、温かくもあった。
◇ ◇ ◇
初日の夜。
アルヴィンは藁の寝床の上で、天井を見つめていた。
リーゼルから渡されたのは、藁と毛布一枚。「ごめん、客用の寝具がない。そもそも客が来る予定がなかったから」と言われた。来る予定がないのではなく、来る人間がいないのだろう。
砦は静かだった。
リーゼルは研究に戻っている。大広間の隅で、焚き火の明かりを頼りに、羊皮紙に何かを書き続けている。ペンの走る音が、かすかに聞こえる。
ルゥは暖炉の前で丸くなっている。眠っているのか、停止しているのか。
暗い天井を見つめながら、アルヴィンは考える。
——ここに、いていいのか。
帝国を追われた。奴隷に落とされた。最後の主人にも捨てられた。魔獣に襲われて死にかけた。
死ねばよかったのだ。あのまま森の中で、誰にも知られず血を流して、静かに終われば——楽だった。
なのに、この女が余計なことをした。
「研究素材」として拾われ、「助手」として使われ、「契約」で縛られた。
——俺には、もう何の価値もないのに。
王太子だった頃の自分を思い出す。
金の装飾が施された剣。紅の外套。跪く臣下。——あの頃は、自分が世界の中心だと信じていた。いや、信じていたのではなく、そう教えられて育った。竜の血統を継ぐ者。帝国の未来。何をしても許される、特別な存在。
傲慢だった。
イレーネに向けた言葉を思い出すと、今でも胸の奥が軋む。あの時の自分は、彼女の顔すらまともに見ていなかった。目の前にいるのが「感情を持った一人の人間」だという認識が、完全に欠落していた。
(……自業自得だ)
奴隷に落ちたのは、陰謀の結果だ。だが、その陰謀の種を蒔いたのは自分の傲慢さだ。公爵に報復の大義名分を与えたのは、他ならぬ自分自身。
だから——罰を受けているのだ。これは当然の報い。
(それなのに——なぜ、まだ生きている)
涙が出そうになって、歯を食いしばった。
泣くな。泣いたら終わりだ。
——もう終わってるだろう、と、心のどこかが冷静に指摘する。
足音が聞こえた。
軽い足音。リーゼルだ。
アルヴィンは咄嗟に目を閉じた。寝たふりをした。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、今この顔を見られたくなかった。
足音が近づいてくる。
止まった。
自分のすぐ傍で。
衣擦れの音。何かが、身体の上にかけられた。——毛布だ。もう一枚。さっき渡された一枚に加えて、追加のもう一枚。
リーゼルの声が、小さく聞こえた。
「……寒いと体温が下がって、明日の実験データに影響するし」
誰に言い訳しているのだろう。自分に——いや、自分自身に、だろう。
足音が遠ざかる。
机に戻る音。椅子が軋む音。再びペンが走り始める音。
アルヴィンは薄目を開けた。
追加の毛布は、使い古されたものだった。端がほつれている。リーゼル自身が使っていたものかもしれない。微かに、薬品の匂いが染みついている。
身体の上にかけられた毛布の重みが——不思議と、温かかった。
温度ではない。布地の厚みでもない。
ただ、誰かが自分のために何かをした、という——その事実の重みが。
(……言い訳が下手な奴だ)
寒いと実験データに影響する。だから毛布を追加した。理屈としては通っている。
でも——本当にデータのことだけを考えるなら、暖炉の火を強くすればいいだけの話だ。わざわざ自分の毛布を一枚削って、寝ている人間の上にかける必要はない。
気づいていないのか。
それとも——気づいていて、認めたくないのか。
どちらにしても。
今、自分がこの砦にいることを。この毛布の下で息をしていることを。
許されている——とまでは思えない。
でも、拒絶はされていない。
それが、今のアルヴィンにとっては——長い長い暗闇の中で、初めて見つけた小さな灯火のようなものだった。
目を閉じる。
今度は泣かなかった。
明日のことを、少しだけ考えた。
掃除を頼まれていた。研究ノートの整理も。翻訳もあるかもしれない。——家事全般と、被験体の仕事と。
元王太子に課せられるにはあまりにも地味な仕事ばかりだ。
だが。
「仕事がある」ということは——つまり。
明日の自分に、やるべきことがあるということだ。
奴隷に落ちてから、そんなことを考えたのは初めてだった。やるべきことではなく「やらされること」しかなかった日々。命令に従い、殴られ、使い潰される。明日が来ることに、何の意味もなかった。
——明日。
この変な女の散らかった砦を掃除する。たぶん、想像を絶する惨状が待っている。三日同じ服を着る人間の研究室が綺麗なはずがない。
(……最悪だ)
そう思いながら——かすかに、唇の端が動いたことに、アルヴィン自身は気づかなかった。
薬品の匂いが染みた毛布を引き寄せて、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
……変な女だ。
嘘がつけない。気遣いが下手。人間の扱いを知らない。
でも——手は、温かかった。
あの、傷を塞いでくれた手。毛布をかけてくれた手。
世界で一番不器用で、世界で一番——
——いや。なんでもない。
寝よう。明日は、掃除がある。
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* * *
「命の値段は、市場が決める。
だが命の使い道は、自分で決めろ。
——少なくとも、私の助手の命は、私が査定する」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、契約書の余白に走り書き(のちに本人により消去)
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