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ep.2 拾い物に名前はない


 森の奥へ踏み込むようになって、十日が経った。


 リーゼルの日課は単純だ。起床(不定時)、ルゥのメンテナンス、朝食(パン半切れ)、素材採取、研究、素材採取、研究、研究、就寝(不定時)。


 規則正しいとは口が裂けても言えない。ただ、研究の合間に森へ出るのは効率的だった。この森には未分類の薬草や鉱石がごろごろしていて、踏み入るたびに新しい発見がある。学院の温室で栽培されていた希少素材が、ここでは雑草のように生えている。


 天国だ、とリーゼルは思った。人間がいない分なおさら。


 その日も、リーゼルは森の奥へ向かっていた。


 目当ては月光苔——夜にだけ発光する苔の一種で、ルゥの身体の安定化に必要な素材だ。文献によれば、水源の近く、日光が届かない岩場に自生するらしい。


 森の空気は相変わらず濃い。木々の間を縫うように流れる魔力が、肌の表面をちりちりと刺激する。足元の腐葉土は柔らかく、一歩ごとに靴が沈む。


 耳を澄ませると、鳥の声。虫の羽音。遠くで川が流れる音。——そして。


 がさり。


 リーゼルは足を止めた。


 今の音は、風でも獣でもない。何かが倒れる音。重いものが地面に崩れ落ちる、鈍い衝撃。


 (……魔獣?)


 警戒しつつ、音のした方向に近づく。腰の革袋に手を伸ばし、即座に使える煙幕弾の位置を確認する。直接戦闘は無理でも、逃げる手段は常に確保してある。


 木々の隙間を抜けると、小さな沢があった。


 苔に覆われた岩場。水が浅く流れている。その沢の縁に——


 人が倒れていた。


 男だった。


 最初に目に入ったのは、血だ。


 岩場に広がる赤黒い染み。男の身体の下から流れ出して、沢の水に溶けていく。鉄錆の匂いが、鼻の奥を刺す。


 次に目に入ったのは、傷。


 背中を何かに引き裂かれている。服——いや、ぼろ布と呼んだほうがいい——は血で張り付いて、裂けた皮膚との境目が判別できないほどだ。腕にも脚にも裂傷。爪で引っかかれたような痕。魔獣にやられたのだろう。


 そして——首。


 首に、金属の輪が嵌まっていた。


 黒ずんだ銀色の首輪。表面に、微細な文字列が刻まれている。リーゼルの目には、それが「ただの文字」ではなく、光の構造として映った。術式だ。魔力封印の術式が、首輪の表面に幾重にも織り込まれている。


 ——奴隷の首輪。


 大陸の東、エルディア自由都市連合では奴隷制度が合法だ。魔力を封じる首輪は、魔術師の奴隷に使われる。


 リーゼルの思考回路は、この時点でふたつに分岐した。


 ひとつは、常識的な判断。行きずりの瀕死の奴隷に関わるメリットはない。放っておくか、楽にしてやるかの二択。逃亡中の身で余計な厄介事を抱え込むのは非効率だ。


 もうひとつは——研究者の直感。


 首輪の術式構造に、目が釘づけになっている。


 (この術式……)


 リーゼルは男の傍にしゃがみ込み、首輪に顔を近づけた。血と泥の匂いの向こうに、微かな魔力の残滓を感じる。首輪から放射される封印の力が、目に見える光の糸として絡み合っている。


 その構造が——見たことのないものだった。


 正確に言えば、文献では見たことがある。三年間、禁書庫を漁って探し求めていた、あの術式体系。


 「……古代ドラグノア式の封印術式」


 声が、無意識に漏れた。


 しかもただのドラグノア式ではない。通常は三層構造の封印が、この首輪には五層——いや、六層?——重ねられている。各層の術式が異なる原理で編まれており、相互に補強し合っている。こんな精密な封印構造は、教科書にも禁書にも載っていない。


 (これを解析できたら——いや、これを解析しなきゃ駄目だ。こんなサンプルは二度と手に入らない)


 研究者の衝動が、常識的な判断を一瞬で焼き尽くした。


 リーゼルは男の首筋に指を当てた。


 ——脈がある。弱いけれど、ある。


 皮膚は冷たい。体温が危険なレベルまで下がっている。失血量から推測すると、あと数十分。処置しなければ死ぬ。


 「……あなた、聞こえる?」


 返事はない。意識がないのか、あるいはもう——


 微かに、唇が動いた。


 声にはならない。でも、まだ生きようとしている。あるいは、身体が勝手にもがいているだけかもしれない。どちらでも構わない。


 リーゼルはトランク——今日は持ってきていなかった。舌打ちする。


 代わりに、革袋から応急用の素材を取り出した。止血用の粉末。消毒用の蒸留液。そして——禁忌の領域にある、肉体再生の触媒。


 正規の治癒魔術は、リーゼルの専門外だ。傷を塞いで体力を回復させるだけの魔術なら、街の治癒師に任せたほうがいい。


 だが、この男の傷は「塞ぐ」だけでは足りない。臓器に達している裂傷がある。背中の傷は肋骨が覗いている。正規の治癒魔術の範囲では、間に合わない。


 (やるしかないか)


 肉体再生魔術。損傷した組織を、錬金術の原理で「再構成」する術。正規の治癒魔術が「自然治癒の促進」なら、こちらは「物質としての肉体の再錬成」。人体を素材として扱い、欠損を補う。


 禁忌とされている理由は単純だ。人体の構造を完全に理解していない術者が使えば、再生した組織が暴走してがん化する。内臓の配置を一つ間違えれば即死する。


 リーゼルは——完全に理解している。人工生命を一から設計できる錬金術師だ。人間の身体の構造図くらい、目を閉じていても描ける。


 男の背中に手を当てた。


 掌に伝わるのは、血の生温かさと、破れた筋肉の繊維の感触。ぬるりと指の間を血が滑る。不快感は——ない。研究者の手は、そういうものに慣れている。


 魔力を流し込む。


 ゆっくりと、慎重に。


 裂けた皮膚の端から、組織の再生が始まる。断裂した筋繊維が編み直される。音がする——肉が繋がる、湿った音。くちゅ、くちゅ、という、生々しい水音。


 折れかけた肋骨に魔力が届くと、骨が軋む音がした。みし、と。硬いものが内側から押し戻されるような、鈍い振動が掌に伝わる。


 (筋繊維の再生速度、通常の三倍……)


 リーゼルの目が、僅かに見開かれた。


 普通の人間なら、ここまで再生速度は出ない。リーゼルの魔力を触媒にしているとはいえ、身体そのものの再生力が異常に高い。まるで——人間の身体が持つべきではない何かが、修復を加速しているかのように。


 (この身体……人間じゃない? いや、人間だ。でも、人間以上の何かが混じっている)


 首輪の封印術式を思い出す。六層の封印。あれほどの封印を施す必要があるほどの力を持った人間。


 ——何者なんだ、こいつは。


 知りたい。


 純粋な、抑えがたい欲求として、リーゼルの中で研究欲が脈打った。


 内臓の修復を終え、背中の傷を塞ぎ、失血で低下した体温を錬金術の発熱反応で補う。一連の処置を終えたとき、リーゼルの額には汗が浮かんでいた。魔力の消耗が激しい。これだけの再生魔術を無詠唱・無触媒で行ったのだから、当然だ。


 男の呼吸が安定し始める。浅く、しかし規則正しいリズム。脈拍も回復している。


 リーゼルは自分の血まみれの手を見下ろし、そこで初めて——疲労を自覚した。


 「……思ったより、消耗した」


 だが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。


 この男の身体の下には、論文が十本は書ける謎が眠っている。


 どうやって砦まで運ぼうか。自分の体重より重い男を一人で担ぐのは、物理的に無理だ。


 (……ルゥに手伝わせるか。あの子、見た目に似合わず力持ちだし)


 リーゼルは一度砦に戻り、ルゥを連れて沢に引き返した。


 「ママ、また拾ってきた」


 ルゥが、血まみれの男を見下ろして淡々と言った。


 「拾ったんじゃなくて、見つけたの。ニュアンスの違いわかる?」

 「同じ」

 「……まあ、同じか」


 二人がかりで男を砦まで運んだ。ルゥは不完全なホムンクルスだが、人工の身体は通常の人間の子どもよりもはるかに頑丈で、大人の男を引きずる程度の力はある。


 砦の研究室——という名の散らかった大広間——に男を寝かせ、追加の処置を施す。傷口の洗浄。包帯の巻き直し。体温を維持するための発熱石の配置。


 そして、改めて首輪の術式を至近距離で観察した。


 近くで見ると、さらに精密だった。六層の封印は、それぞれが異なる時代の術式技法で編まれている。最も古い層は、少なくとも三百年前の技法だ。誰がこんなものを作ったのか。そして、なぜこの男に?


 「……面白い」


 独り言が漏れた。今日だけで三回目だ。


 ルゥが首を傾げた。


 「ママ。この人、起きたらどうするの」

 「話を聞く」

 「逃げたら?」

 「逃げない。この怪我で逃げられる身体じゃないし、逃げたところで行く場所がない。森の中で魔獣に襲われて終わりだよ」

 「……ママ、たまに怖い」

 「合理的なだけだよ」


 焚き火に薪を足して、男の傍に毛布をかけた。


 腕を組んで、椅子に腰掛ける。


 さて——この拾い物は、いったい何者なのか。


 リーゼルは男の顔を観察した。泥と血にまみれているが、輪郭は整っている。骨格が良い。鼻梁が通っていて、閉じた瞼の上の眉は形がいい。黒髪は伸び放題で汚れているが、元は手入れされていた毛質。


 手にも注目した。剣だこがある。だが同時に、指が長くて爪の形がいい。労働者の手ではない。武人の手だが、同時に——貴族の手だ。


 「……いい身体してるなぁ」


 純粋に、研究対象としての感想。色気は一切ない。


 ルゥが何か言いたげにこちらを見たが、リーゼルは気づかなかった。



 ◇ ◇ ◇



 *——夢を見ていた。*


 *玉座の間。金と紅で彩られた帝国の大広間。自分は高い場所にいて、見下ろしている。ひざまずく臣下たち。媚びた笑み。恐怖を隠した目。*


 *それが当然だった。自分は選ばれた存在だ。竜の血統の正統後継者。この帝国のすべてを受け継ぐ者。跪け。顔を上げるな。俺を見上げることすら、お前たちには分不相応だ。*


 *——傲慢だった。*


 *舞踏会の夜。自分の前にいる女。栗色の髪。怯えた目。婚約者。政略で決められた、退屈な女。*


 *「お前のような退屈な女と添い遂げる気はない」*


 *自分の声が、広間に響く。女の顔が蒼白になる。周囲のざわめき。誰かの息を呑む音。*


 *——なぜ、あんなことを言った。*


 *牢獄。冷たい石の床。首に嵌められた金属の輪。魔力が——流れない。世界から色が消えたように、すべてが灰色になった。*


 *鞭の音。*


 *背中に走る灼熱。*


 *叫ぶな。叫ぶな。叫んだら、終わりだ。プライドが。尊厳が。俺がまだ俺であるための最後の砦が——*


 *叫んだ。*


 *声が枯れるまで。*


 目が覚めた。


 最初に感じたのは、痛みだった。


 全身が痛い。背中が特に。皮膚の下で何かが引き攣るような、不自然な痛み。——だが、裂けてはいない。動けるだけの身体が、ある。


 (……死んでない?)


 次に感じたのは、匂いだ。


 焚き火の匂い。煤と、乾いた木の香り。それから——薬品の匂い。酸味のある、ツンとした刺激臭。


 目を開けた。


 視界がぼやけている。天井が見える。石造りの天井。苔が這っている。焚き火の明かりが、壁に揺れる影を落としている。


 ここは、どこだ。


 首を動かそうとして、鈍い痛みが走った。首輪が——まだある。あの忌々しい金属の輪が、まだ首に食い込んでいる。


 「あ、起きた」


 声がした。


 近い。すぐ傍だ。


 視界の端に、銀灰色の髪が映った。


 女だ——いや、少女。自分より年下に見える。銀灰色の長い髪を無造作にまとめて、汚れた研究着のようなものを着ている。薄い紫色の瞳が、こちらを覗き込んでいる。


 表情が——ない。


 正確には、ないわけではないのだが、感情の起伏が極端に少ない顔だ。好奇心とも観察ともつかない、平坦な眼差し。人間を見ているというより、何か珍しい標本を見ているような目。


 「動かないで。まだ縫合が甘いから。無理に動くと背中の傷が開く」


 淡々とした声。命令でも懇願でもない。ただの事実の伝達。


 「…………」


 声が出ない。喉が渇いている。唇が割れている。


 少女が水の入った革袋を差し出した。口元に当ててくれる。冷たい水が喉を流れ落ちる感覚に、身体が震えた。


 「ゆっくり。一気に飲むと吐くから」


 水を飲み終えると、少しだけ視界がはっきりした。


 少女は椅子に座って、こちらを見下ろしている。その膝の上には、革表紙のノートが開かれていた。何かを書き込んでいたらしい。


 「……お前は」


 かすれた声が、やっと出た。


 「リーゼル。錬金術師。森の外れの廃砦に住んでる。あなたは森の中で魔獣にやられて死にかけてたのを、私が拾って治療した」


 簡潔。無駄がない。


 「あなた、なかなか面白い身体してるね」


 ——面白い。


 瀕死の人間を助けた第一声が、それか。


 「首輪の封印術式が特に興味深い。古代ドラグノア式の多層封印なんて、文献でしか見たことなかった。あれを実地で解析できるなら——」


 「……やめろ」


 声を絞り出した。


 少女が——リーゼルが、言葉を切って、こちらを見た。


 「やめろ。俺に……構うな。放っておけ。どうせ——」


 どうせ、何だ。


 どうせ死ぬ。どうせ価値がない。どうせ、誰にも必要とされない。


 (——帝国第一王太子、アルヴィン・ゼーレ・ドラグノアは、もういない)


 あの名前で呼ばれる資格は、とうに失った。


 婚約破棄。反逆の罪。魔力の封印。王族の剥奪。国外追放。奴隷。


 階段を転げ落ちるようにすべてを失って、最後に残ったのは、この傷だらけの身体と、首に嵌まった枷だけだ。


 「放っておいてくれ」


 「断る」


 即答だった。


 リーゼルは、何の感慨もない顔で言った。


 「あなたの首輪の封印術式は、私の研究に必要。あなたの身体の異常な再生能力も、解析したいデータがたくさんある。放っておく理由がない」


 「……俺は、お前の研究素材か」


 「うん」


 あまりにもあっさりと肯定された。


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


 侮辱か。嘲笑か。——いや、どちらでもない。この少女の目には、それらに付随するはずの悪意が、一切ない。


 本当に、ただ、事実を述べているだけだ。


 自分を「研究素材」としか見ていない。人間としてではなく。元王子としてでもなく。奴隷としてですらなく。


 (……なんだ、こいつは)


 「ああ、自己紹介がまだだった。もう言ったっけ。リーゼル。錬金術師。——あなたの新しい持ち主」


 「……持ち主」


 「奴隷の首輪が付いてるでしょ。前の持ち主がどこの誰かは知らないけど、森の中に放り出された時点で所有権は放棄されたとみなしていい。エルディア法の第三十七条二項。で、瀕死のあなたを治療したのは私。治療費の代わりに所有権を主張する。合法」


 リーゼルは淡々と述べ立てた。法律に詳しいわけではないが、少なくとも嘘は言っていない——たぶん。多少の拡大解釈はあるかもしれないが、反論できるだけの気力が、今のアルヴィンにはなかった。


 「……好きにしろ」


 投げやりな声が口から出た。


 抵抗する力がない。逃げる場所もない。森に戻れば魔獣に殺される。


 殺されたほうがマシだと思う自分と、それでもまだ息をしている身体が、矛盾している。


 リーゼルが少し首を傾げた。


 「好きにしろって言われると、ほんとに好きにするけどいい?」


 「…………」


 「じゃあ、まず名前を教えて。研究ノートに『拾い物』って書くのは、さすがに管理が杜撰だから」


 ——名前。


 アルヴィン・ゼーレ・ドラグノア。


 帝国第一王太子の名。竜の血統の継承者の名。今はもう、何の意味もない文字列。


 「……アルヴィン」


 姓は言わなかった。言う気にもならなかった。


 「アルヴィン。了解。——じゃあアルヴィン、明日から動けるようになったら、助手をやって。掃除と荷物運びと、あとできれば料理。私、料理すると爆発するから」


 何を言っているのか、一瞬理解が追いつかなかった。


 助手。掃除。料理。


 元王太子に、家事をやれと。


 「……俺を、馬鹿にしているのか」


 「してない。適材適所。あなたは動ける身体がある。私は生活能力がない。需要と供給の一致。これを経済学では——なんだっけ、忘れた。とにかく効率がいい」


 「…………」


 怒るべきなのだろう。侮辱だと叫ぶべきなのだろう。かつての自分なら——あの、玉座にいた頃の自分なら——こんな小娘は一瞥もくれなかった。


 だが今の自分は、奴隷だ。首輪をつけた、何の力もない奴隷。


 「…………わかった」


 その声は、自分で思っていたよりも、ずっと小さかった。


 リーゼルは頷いて、ノートに何かを書き込んだ。たぶん「拾い物」の欄に名前を記入したのだろう。


 「あと一つだけ。——あなた、泣いてるよ」


 「……泣いてない」


 頬に触れた。指先が、濡れていた。


 いつから流れていたのか、わからない。


 リーゼルは特に何も言わず、革袋から布を一枚取り出して、アルヴィンの手元に置いた。


 「鼻水が実験器具につくと困るから、拭いて」


 ——こいつは、本当に、なんなんだ。


 慰めでもなく。蔑みでもなく。ただ布を渡して、鼻水の心配をしている。


 不思議と——怒る気にはならなかった。


 今までの人生で、誰かが自分に対して「何の感情もなく」接してきたことは、一度もなかった。崇拝か、恐怖か、嫉妬か、軽蔑か。常に何かの感情を向けられてきた。


 この少女は——何もない。


 自分が元王子であろうと奴隷であろうと、たぶんこの目は変わらない。


 それが救いなのか、残酷なのか、今のアルヴィンには判別がつかなかった。


 布で顔を拭いて、天井を見上げた。


 苔の生えた石壁。焚き火の揺れる光。どこかで、小さな子どもの声がした。


 「ママ。拾い物、泣いてる」

 「うん。泣いてるね。でも死にはしないから大丈夫」

 「大丈夫の基準がおかしい、と、ぼくのデータベースにある」

 「データベースを更新して」

 「却下」


 少女と——人形のような子どもの、不思議なやりとりが聞こえる。


 (……なんだ、ここは)


 何も、わからない。


 自分がなぜ生かされたのか。この先どうなるのか。この奇妙な少女が何を考えているのか。


 何もわからないまま、意識が再び沈んでいく。身体が限界なのだ。治療で命は繋がったが、消耗は癒えていない。


 瞼が落ちる寸前、視界の端で、銀灰色の髪が焚き火の光に照らされて、かすかに光るのが見えた。


 ——殺してくれればよかった。


 こんな、惨めな形で生かされるくらいなら。


 その思いは本物だった。


 だが——。


 あの少女の手が傷に触れたとき。冷たい指が、無造作に、でもどこか丁寧に、壊れた身体を繋ぎ直してくれたとき。


 ほんの一瞬だけ——死にたくない、と思ってしまった自分がいたことも、嘘ではなかった。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 リーゼルは研究ノートの「本日の記録」の欄に、こう書き込んだ。


 「拾い物に名前がついた。アルヴィン。種族:人間(要検証)。特記事項:異常な肉体再生速度、古代ドラグノア式六層封印、食事未摂取。当面の運用方針:助手兼被験体兼家事係。——あと泣き虫」


 最後の一言は、二重線で消した。消したあとで、もう一度書き直した。


 「泣き虫(治る見込みあり)」



---


*    *    *


「名前をつけるのは、所有の宣言だ。

 ……なんて、大層なことじゃない。管理番号よりマシだってだけの話」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノートの余白より


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