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ep.22 感情の錬成


 季節が変わった。


 森の木々が色づき始めている。砦の周囲に生えた蔦が赤く染まり、朝夕の空気が冷たくなった。


 砦は——少しずつ、砦ではなくなっていた。


 アルヴィンが屋根の穴を塞ぎ、カイが集落から木材を運び、セレンが街から生活用品を調達し、ハンナが「あんたら、いつまでも野営みたいな暮らしをしてんじゃないよ」と鍋と食器を持ってきた。


 窓ができた。ガラスはないが、木の板で開閉できる。光と風が調節できるようになった。


 寝室が分かれた。大広間の奥に壁を作り、アルヴィンの部屋とリーゼルの部屋を区切った。ルゥはリーゼルの部屋で眠っている。


 研究室は拡張された。アルヴィンが古い棚を修繕し、薬品と素材が整然と並んでいる。リーゼルが散らかすたびにアルヴィンが片づけ、リーゼルがまた散らかす。永久機関のような日常。


 因子の安定化術式は、完成間近だった。


 音響魔力共鳴の原理を術式に組み込み、アルヴィンの体内に恒常的な安定化回路を構築する。リーゼルの声を術式の「鋳型」として記録し、因子が変動するたびに自動で共鳴する仕組み。


 「あなたの中に、私の声を埋め込むようなもの」


 リーゼルがそう説明した時、アルヴィンは少し黙ってから「構わない」とだけ答えた。


 その声が少し低かったことに、リーゼルは気づかなかった。——たぶん。



 ◇ ◇ ◇



 安定化術式の最終調整を終えた日の夜。


 リーゼルは砦の外に出た。


 秋の夜空。月が高い位置にある。星が鮮やかだった。空気は冷たいが、砦の中で温まった身体には心地よかった。


 砦の横にある、大きな岩の上に座った。


 ここに来るのは、時々ある。研究に行き詰まった時や、頭を空にしたい時。岩の上から見上げると、木々の隙間から空が広く見える。


 足音が聞こえた。


 振り返らなくてもわかった。この足音は一つしかない。


 アルヴィンが隣に来て、同じ岩の上に腰を下ろした。


 少し距離がある。手を伸ばせば届く距離。伸ばさなければ届かない距離。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 虫の声。風の音。遠くで梟が鳴いている。


 「……術式、うまくいきそう?」


 リーゼルが聞いた。


 「お前が聞くのか。作った本人が」


 「理論上はうまくいく。でも、あなたの身体の感覚はあなたにしかわからないから」


 「……悪くない。胸の奥の脈動が、以前より穏やかだ。暴れる気配がない」


 「よかった」


 また沈黙。


 リーゼルは膝を抱えて、空を見上げていた。


 「……ねえ、アルヴィン」


 「何だ」


 「前に、あなたの意識の中に入った時——竜を眠らせた後に、あなたが聞いたでしょ。なぜ、って」


 「……ああ」


 「あの時、私は『わからない。後で考える』って言った」


 「……言ったな」


 「考えた」


 アルヴィンの呼吸が、一拍止まった。


 リーゼルは膝を抱えたまま、空を見ている。アルヴィンの方を見ていない。


 「私、感情の扱いが下手で。前の人生でもそうだった。仕事はできるけど、人との距離の取り方がわからなくて、一人でいるほうが楽で。——今世も同じだった。研究があれば十分。人間はいらない。そう思ってた」


 風が吹いた。銀灰色の髪が揺れた。


 「でも——あなたを拾って、ルゥと三人で暮らし始めて、カイやセレンやハンナさんと知り合って。……気づいたら、一人じゃなかった。そのことが嫌じゃなかった。むしろ——」


 言葉が途切れた。


 リーゼルの指が、膝の上で組み直された。


 「あなたが竜になりかけた時。消えようとした時。——あの瞬間、私の頭の中にあったのは、術式でもデータでも研究でもなかった」


 「…………」


 「ただ——この人がいなくなったら嫌だ、って。それだけだった」


 月明かりが二人を照らしている。


 リーゼルが、初めてアルヴィンの方を見た。


 紫の瞳が——揺れていた。


 「私、たぶん——あなたのことが好きだと思う」


 声は平坦だった。いつも通りの、データを読み上げるような口調。


 でも——指先が震えていた。


 「たぶん、っていうのは、確信度が百パーセントじゃないから。感情の分類に自信がないから。でも、他のどの分類にも当てはまらなくて、消去法で考えると——これしか残らなかった」


 「…………」


 「消去法で告白するのはどうかと思うけど。——でも、嘘じゃない」


 沈黙。


 長い沈黙。


 虫の声が、やけに大きく聞こえた。


 アルヴィンが——立ち上がった。


 リーゼルの心臓が、一瞬止まった。


 立ち去るのか。受け入れられないのか。当然だ。自分のような人間に好きだと言われて——


 アルヴィンがリーゼルの前に立った。


 見下ろしている。月明かりを背負って、顔が影になっている。表情が読めない。


 そして——膝をついた。


 リーゼルと同じ目線になった。


 深紅の瞳が、月明かりの中で静かに光っている。


 「……消去法」


 「……うん」


 「お前らしい」


 「……怒ってる?」


 「怒ってない」


 アルヴィンの手が伸びた。


 リーゼルの手に触れた。


 冷たい指先を、大きな手が包んだ。


 「俺は——消去法じゃない」


 「…………」


 「最初から、お前だった」


 リーゼルの目が見開かれた。


 「お前の手が傷を塞いだ時。毛布をかけてくれた時。名前を呼んでくれた時。あの夜、鱗だらけの腕に触れて、逃げなかった時。——全部、お前だった」


 声が震えていた。アルヴィンの声が。


 「好きだとか、そういう生ぬるい言い方では足りない。お前がいなかったら、俺は死んでいた。お前がいたから、生きている。お前がいるから——明日があると思える」


 リーゼルの指が、アルヴィンの掌の中で小さく動いた。


 「……それは、好きより重くない?」


 「重いだろうな。——重くて、悪いか」


 「悪くない」


 リーゼルの声が、掠れた。


 「悪くない。全然」


 月明かりの下で、二人の手が繋がれたまま。


 アルヴィンが空いたほうの手を伸ばして、リーゼルの頬に触れた。冷たい肌に、温かい掌。


 「……泣いてる」


 「泣いてない」


 「頬が濡れてる」


 「夜露」


 「嘘つき」


 「……嘘つきはお前でしょ。好きより重いって、もう好きの範疇じゃないじゃん」


 「知るか。感情に範疇があるのか」


 「ある。分類は研究者の仕事」


 「なら分類しろ。この感情を」


 「……できない。データベースにない」


 「だったら——新しい分類を作ればいい」


 リーゼルが、鼻をすすった。


 それから——笑った。


 泣きながら、笑った。


 「……うん。作る。あなた専用の、新しい分類」


 「ルゥに怒られるぞ。データベースが乱雑になるって」


 「ルゥは柔軟だから大丈夫」


 「そうか」


 「そうだよ」


 風が凪いだ。


 森が静まった。


 月だけが、二人を見ていた。


 アルヴィンの額が、リーゼルの額に触れた。


 ゆっくりと。確かめるように。


 二つの温度が——冷たいほうと温かいほうが——混ざり合った。


 「……ここにいる」


 アルヴィンが囁いた。


 「どこにも行かない。お前がいる限り」


 リーゼルは目を閉じた。


 涙が一筋、頬を流れた。


 「……勝手にして」


 「ああ。勝手にする」


 いつかの会話の繰り返し。でも今は——その言葉の中に、全く違うものが詰まっていた。


 月が雲に隠れた。


 再び姿を現した時、岩の上の二人の影は——一つに近づいていた。



---


*    *    *


「研究ノート 特記事項

 感情の錬成——成功。

 錬金術の基本原理に則り、異なる二つの素材を融合させ、

 どちらとも異なる新しい物質を生成する試み。

 素材A:壊れた元王子。頑固。泣き虫。料理が上手い。

 素材B:壊れた錬金術師。コミュ障。泣き虫(自覚なし)。料理で爆発する。

 生成物:名称未定。

 暫定的に「ここにいたいと思う気持ち」と呼称する。

 再現性:不明。というか、再現する気がない。

 これは一回きりの、世界で一つだけの実験結果だから。

 ——追記。

 手、温かかった」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、研究ノート最終頁


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