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ep.15 暗殺者の夜


 「北。二人。沢沿い。——速い」


 ルゥの声が落ちた瞬間、リーゼルの指が触媒石を弾いた。


 魔力の信号が夜気を走り、北側の沢沿いに仕掛けた発火罠に届く。


 一拍の間。


 そして——夜が、燃えた。


 松脂に引火した炎が地面を舐め、橙色の光が沢沿いの木々を下から照らし上げた。黒い影が二つ、炎の中で急停止するのが見えた。


 見えた、といっても砦の入り口からは距離がある。炎の輪郭と、その中で動く人影の気配だけだ。


 だがカイには十分だった。


 木の上から跳んだ影が、炎の向こうに落ちた。着地の音はなかった。獣人の脚は、そういうふうにできている。


 金属がぶつかる音。短く鋭い、二回。


 「ルゥ、東は」


 「東、動きなし。まだ来てない——待って。いる。一人。岩場の影。動かないで待機してる」


 三人目。後方の退路確保役。セレンの読み通りだ。


 北の沢沿いから、二つ目の衝突音が聞こえた。カイの山刀と、暗殺者の短剣がぶつかる硬い音。その合間に、人間の息を吐く音、足が泥を踏む音、枝を折る音——暗闘の気配が、断片的に届いてくる。


 リーゼルは砦の入り口から身を乗り出し、北側に向かって二つ目の触媒石を弾いた。


 煙幕弾が起動した。


 白煙が沢沿いに噴き出す。風向きは北から南。煙は暗殺者のほうに流れていく。中に混ぜた麻痺成分は微量だが、呼吸が速くなっている戦闘中の人間には十分に効く。


 「一人、動きが鈍った。もう一人はカイと——」


 ルゥの実況が途切れた。


 「ママ。東の一人が動いた。砦に向かってる」


 心臓が跳ねた。


 三人目が来る。北の二人は囮か、あるいは前衛が足止めされたのを見て、三人目が独自に判断したか。どちらにせよ、砦に直接仕掛けてくるつもりだ。


 「距離は」


 「五十歩。岩場を迂回してる。——速い。三十歩」


 リーゼルは砦の内側に下がった。入り口の両脇に、麻痺針の罠がある。だが、暗殺者がそれに引っかかる保証はない。ガルシュタイン家の密偵なら、罠の存在を想定して動くはずだ。


 触媒石を握りしめた手が、冷たかった。


 「二十歩。——入り口の右側、壁沿いに来る」


 ルゥの声は平坦だが、正確だった。


 リーゼルは入り口の左側に身を寄せた。右側から来るなら、扉の反対側。入り口を挟んで、暗殺者と向かい合う形になる。


 足音が——聞こえない。


 暗殺者は音を殺している。だが、壁の向こう側の空気が揺れた。人間一人分の体温が近づいてくる気配。皮革と金属の、微かな匂い。


 リーゼルは左手に残った煙幕弾を一つ握り、右手に触媒石を構えた。


 呼吸を止めた。


 一秒。二秒。三秒——


 影が入り口に滑り込んできた。


 速い。


 人間の動体視力で捉えられる速度ではなかった。黒い外套を纏った細身の人影が、入り口の闇を切り裂くようにして砦に侵入する。


 リーゼルは煙幕弾を足元に叩きつけた。


 白煙が爆発的に広がった。密閉された砦の中では、煙の濃度が外よりも遥かに高くなる。視界が——消えた。


 自分の手すら見えない白い闇。


 だが、リーゼルにとって視覚は唯一の感覚ではない。


 魔力の流れが見える。


 煙幕の中でも、生きた人間の魔力反応は感知できる。暗殺者の体内を巡る魔力の流れが、白い靄の向こうに薄く光って見える——心臓を中心にした、脈動する光の塊。


 そこ。


 リーゼルは触媒石に魔力を流し、足元の麻痺針罠を遠隔起動した。暗殺者の足元から細い針が跳ね上がる。


 布を貫く微かな音。


 だが——浅い。外套の裾を掠めただけだ。暗殺者は罠の起動を感じた瞬間に跳んでいた。


 天井すれすれの高さから、影が落ちてくる。


 短剣の刃が煙の中で光を弾いた。


 避けられない。距離が近すぎる。


 リーゼルは身体を捻った。刃が研究着の袖を裂いた。布が切れる音と、腕に走る薄い熱。切られた。深くはないが、血が出ている。


 痛みは後回しだ。


 左手で革袋から小瓶を引き抜き、蓋を親指で弾いた。


 中身は——あの「爆発する」薬品。ラベルなしの瓶。致死量ではないと言ったやつ。


 暗殺者の顔面に向けて、投げた。


 液体が飛散した。暗殺者が顔を覆って後退る。薬品が皮膚に触れた瞬間、化学反応で激しい刺激が走るはずだ。目と鼻と喉を灼く。


 暗殺者が低い呻き声を漏らした。初めて聞こえた、人間の声。


 その隙に、リーゼルは入り口に向かって走った。


 煙幕の外に出る。夜気が肌を打った。


 「ルゥ、東の——」


 「ママの後ろ!」


 振り返る暇はなかった。


 煙幕を突き破って、暗殺者が追ってきた。顔の半分が薬品で赤く腫れている。片目を失っているかもしれない。だが、もう片方の目は生きていて——殺意が、剥き出しだった。


 短剣が振り下ろされた。


 金属音が、夜を割った。


 リーゼルの目の前で、山刀の刃が短剣を受け止めていた。


 アルヴィンだった。


 東の岩場から駆けつけたのだ。砦の入り口の石段を三段飛ばしに駆け上がり、リーゼルと暗殺者の間に割り込んでいた。


 山刀と短剣が噛み合ったまま、押し合いになる。


 封印下のアルヴィンは魔力が使えない。身体能力は第一層の解除で戻りつつあるが、万全ではない。対して暗殺者は——片目を潰されてなお、腕力と技術で互角以上に渡り合っている。


 鍔迫り合いの中で、暗殺者の残った目がアルヴィンの首を見た。


 首輪。


 暗殺者の口が動いた。声は出さなかった。だが口の形は読めた——「見つけた」。


 標的はリーゼルではなく、最初からアルヴィンだった。


 暗殺者が押し込んできた。短剣の二本目を左手で抜き、アルヴィンの脇腹を狙う。


 アルヴィンは山刀で一本目を弾き、身体を半回転させて二本目を躱した。だが体勢が崩れる。暗殺者は崩れた隙を逃さない。三歩踏み込んで、喉を狙う突き——


 足元が光った。


 リーゼルが這いつくばるようにして、暗殺者の足元に発火剤の小瓶を叩き割っていた。


 松脂に引火。足元が燃え上がる。


 暗殺者が跳び退った。アルヴィンとの距離が開く。


 その一瞬。


 アルヴィンが踏み込んだ。


 炎に照らされた暗殺者の胴体に、山刀の峰が叩き込まれた。刃ではなく峰。殺さないための選択だった。


 鈍い衝撃音。


 暗殺者が吹き飛び、石壁にぶつかった。崩れ落ちる。意識を失ったのか、動かない。


 「北、終わった。二人とも伸びてる」


 ルゥの声が降ってきた。カイが処理したのだろう。


 「他に動きは」


 「ない。東の岩場にも、森にも。——終わり」


 終わった。


 リーゼルは石段の上に座り込んだ。


 腕の傷から血が垂れている。浅いが、じくじくと痛む。戦闘中は気にならなかった痛みが、今になって主張し始める。


 アルヴィンが山刀を下ろし、こちらに歩いてきた。


 息が荒い。額に汗が浮いている。だが——目は澄んでいた。暴走の兆候はない。因子は、反応していない。


 「腕」


 アルヴィンがリーゼルの前にしゃがみ込んだ。


 切られた腕を見て、眉間に深い皺が寄った。


 「……浅い。だが、血が止まっていない」


 「大丈夫。消毒して縫合すれば——」


 「自分でやる気か」


 「他に誰が——」


 「俺がやる。針と糸はどこだ」


 「研究室の棚の上段、左から三番目の——」


 言い終わる前にアルヴィンは砦に入っていった。


 リーゼルは石段に座ったまま、夜空を見上げた。


 雲の切れ間から月が覗いていた。白い光が森を照らしている。


 手が——震えていた。


 触媒石を握っていた右手。煙幕弾を投げた左手。どちらも、細かく振動している。


 寒さではない。魔力の消耗でもない。


 怖かったのだ。


 短剣が腕を裂いた瞬間。刃が首を狙って突き出された瞬間。アルヴィンが間に割り込んだ瞬間。


 そのすべてが——怖かった。


 自分が怖い、という感覚が新鮮だった。


 研究で失敗しても怖くない。追手に追われても怖くない。ルゥの身体が不安定になっても、焦りはあっても恐怖はない。


 でも今夜は、怖かった。


 何が怖かったのか——正確に言語化できない。死ぬことか。痛みか。それとも、もっと別の何かか。


 アルヴィンが戻ってきた。


 針と糸と、消毒用の蒸留液。手際よく腕の傷を洗い、縫合を始めた。軍で習ったのだろう。手つきに迷いがなかった。


 針が皮膚を刺す痛みに、リーゼルは顔をしかめた。


 「……痛い」


 「我慢しろ。お前が俺に言った台詞だ」


 「……それは封印解除の時でしょ。状況が違う」


 「痛いのは同じだ」


 二針目。三針目。アルヴィンの指が、血に濡れたリーゼルの腕を支えている。大きな手だった。リーゼルの腕が細すぎるのか、アルヴィンの手が大きいのか。


 縫合が終わった。布で丁寧に巻いて、固定する。


 「……よし」


 アルヴィンが布を結んで、手を離した。


 離す直前、ほんの一瞬だけ——指先がリーゼルの手首の内側に触れた。脈を確かめるように。あるいは、無意識に。


 「怖かったか」


 アルヴィンが聞いた。


 静かな声だった。責めてもいない。心配しているのとも少し違う。ただ——知りたがっていた。


 リーゼルは、包帯の巻かれた腕を見下ろした。


 「……わからない。感情を分類するのが得意じゃないから」


 嘘ではなかった。


 怖かったのは確かだ。でも、その恐怖が何に向いていたのか——自分が死ぬことなのか、それとも。


 (……それとも、この人が死ぬことなのか)


 その思考が浮かんだ瞬間、リーゼルは意識的に蓋を閉じた。


 今は、そこに踏み込むべきではない。


 「……ありがとう。助けてくれて」


 「礼はいい。お前の罠がなければ、俺のほうが危なかった」


 北の方角から、カイが歩いてきた。山刀を肩に担いで、泥だらけの顔で笑っている。


 「二人とも縛り上げた。気絶してるが生きてる。——そっちも片づいたか」


 「片づいた」


 「怪我は」


 「リーゼルの腕。浅い切傷。縫合済み」


 アルヴィンが簡潔に報告した。カイが「軽傷で済んでよかったな」と頷いた。


 砦の中から、セレンが出てきた。


 「お疲れ様です。——暗殺者三人、全員無力化。見事でした」


 「見事も何も、ほとんど罠頼みだったけどね」


 「罠を設計し、配置し、実戦で運用した。それは立派な戦果です」


 セレンの微笑みは、今夜ばかりは社交辞令には見えなかった。


 月が雲から完全に顔を出した。


 白い光が砦と森を照らしている。夜はまだ深いが、戦闘は終わった。


 明日は——騎士団が来る。


 もう一つの戦い。今度は刃ではなく、言葉で。


 リーゼルは包帯の腕を抱えて、砦の中に戻った。


 「少し休む。——朝になったら、起こして」


 「ああ」


 アルヴィンの声が背中に届いた。


 寝床に横になると、全身の力が抜けた。疲労が一気に押し寄せてくる。目を閉じると、暗闇の中で短剣の光が一瞬だけ瞬いて——消えた。


 代わりに残ったのは、腕を縫ってくれた手の温度だった。


 大きくて、少し荒くて、でも丁寧だった手。


 その感触を握りしめるようにして、眠りに落ちた。



---


*    *    *


「戦闘記録

 暗殺者三名を無力化。味方の損害:リーゼルの左腕切傷(軽度)。

 罠の有効性:高い。特に煙幕弾と発火剤の組み合わせは

 暗闘における視界制御として極めて有効だった。

 課題:接近戦に持ち込まれた場合の対処能力が圧倒的に不足している。

 次があるなら、もう少し距離を取れる罠の設計が必要。

 ……次がないことを願っているが、

 たぶんある。

 追記:腕の縫合、上手かった。あの人、器用だな。

 研究に関係ない感想だけど、記録しておく。理由はない」

——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、戦闘記録帳より


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