ep.1 変人令嬢は嘆かない
蛍光灯が、チカチカと点滅していた。
安っぽいオフィスの天井。擦り切れたデスクチェアの軋み。缶コーヒーの、あの微妙にぬるい甘さ。
——ああ、この夢だ。
満員電車の圧迫感。誰かの汗の匂い。スマートフォンの画面に映る終電の時刻。コンビニの自動ドアが開いて、からだに染み込む冷たい空気。おにぎりを手に取って——
暗転。
いつもここで途切れる。
まるでテープが伸びきった古い映像のように、前の人生の記憶はいつもぼやけて、断片だけを残して消えていく。男だった気がする。疲れていた気がする。好きなことを、なにひとつやれないまま終わった気がする。
——まあ、今さらどうでもいいことだけど。
リーゼル・フォン・メルツハーゲンは、ガタガタと揺れる荷馬車の荷台で目を開けた。
視界に飛び込んでくるのは、煤けた幌の天井と、隙間から差し込む薄い陽光。鼻をつくのは馬の汗の匂いと、荷台に敷かれた藁のかび臭さ。背中に当たる板張りの硬さが、身体の節々に鈍い痛みを訴えている。
——三日目か。
起き上がると、革の外套に包まれたトランクが目に入る。金具は錆びているが、中身は無事だ。研究資料。書きかけの論文。調合素材の一部。逃亡の際に持ち出せたのは、これだけ。
「ママ。起きた」
淡々とした、どこか人形じみた声。荷台の端で膝を抱えていた銀髪の子どもが、こちらを見ている。
ルゥ。
リーゼルが作りかけた人工生命体——ホムンクルスの試作体。見た目は十二歳前後の中性的な美少年。表情の動きが乏しく、大きな紫水晶の瞳がいつも無感動にこちらを映している。
「……起きたよ。あと何回寝たら国境だっけ」
「予定では昨日越えた。でもママが起きなかったから報告できなかった」
「越えたの!?」
リーゼルは慌てて幌の隙間から外を覗いた。
見慣れない荒野が広がっている。レーヴェン王国の整備された街道とは似ても似つかない、雑草と灌木だらけの獣道。遠くに黒々とした森の稜線が見える。
——ゴルドバルト。魔獣の森。
古い文献にだけ記された、大陸の果ての未開の大森林。いずれの国にも属さない、人の立ち入りを拒む土地。
逃げるならここだ、と思ったのは三ヶ月前。違法魔術研究の摘発が、いよいよ自分のところまで迫ってきたとき。
人工生命の創造。ホムンクルスの製造実験。レーヴェン王国では国家反逆罪に等しい禁忌魔術。
やっちまったな、とは思う。
後悔はしない。
あの研究をやめるくらいなら、国を捨てたほうがマシだ。
(……前の人生では、やりたいことを全部我慢して、結局なにも残せなかったからね)
その記憶すらぼんやりしているけれど、胸の奥に沈殿した後悔の感触だけは、やけにはっきりと残っている。だから今度は好きにやる。それだけの話だ。
「ママ、後ろから来る」
ルゥが、なんでもないことのように告げた。
リーゼルが振り返ると、荒野の彼方に砂煙が上がっていた。馬影が四つ。鎧の反射光。——追手だ。
「……あー」
レーヴェン王国の魔術騎士団。紺色の軍装。胸元には王国の百合紋章。
予想はしていた。国境を越えたくらいで諦めるほど、あの国の官僚組織は物分かりが良くない。
リーゼルはトランクを開け、革袋に入った粉末をひとつ取り出した。銀白色の、微かに発光する粉。干渉粒子と呼ばれる錬金術の産物だ。追跡魔術の術式構造に干渉し、対象の座標情報を撹乱する。
追手の騎士たちが展開しているであろう追跡魔術は、リーゼルにはよく見える。空中に織り上げられた光の網——魔力の糸で編まれた座標捕捉の術式。その構造が、目を凝らさなくても「見える」のが、リーゼルの特異体質だった。
「……あれ」
見覚えのある術式構造に、リーゼルは眉をひそめた。
「これ、三年前に私が改良して学院に提出した追跡術式じゃん」
術式の弱点は、設計者が一番よく知っている。
リーゼルは干渉粒子を風に乗せて撒いた。きらきらと銀色に輝く粉末が空気中に拡散し、追跡術式の光の網に触れた瞬間——網の目が綻び、座標情報がめちゃくちゃに撹乱される。
遠くで、騎士たちが馬を止めたのが見えた。術式が崩壊し、こちらの位置を見失ったのだろう。
「三年前の術式をそのまま使ってくるのは、もうちょっと恥ずかしいと思ってほしい。……せめてアップデートしてから追いかけてきて」
ルゥが小さく首を傾げた。
「ママ、追手をまいたなら、もっと喜ぶべきでは」
「喜ぶほどの難易度じゃなかったから」
——正直に言えば、少しだけ寂しかった。
あの学院の図書館は良かった。禁書庫のアクセス権がなくなったのは惜しい。古代ドラグノア式の封印術式に関する文献、まだ三冊読み残していたのに。
だが、振り返らない。振り返ったって、得るものはない。
効率の悪い感情は、錬金術で分解してしまえたらいいのに。
「ルゥ、地図」
「はい、ママ」
ルゥが革のケースから古い羊皮紙の地図を取り出す。リーゼルが事前に入手しておいた、ゴルドバルトの外縁部の地形図。二百年前の探索隊が作成したもので、正確性は保証できないが、ないよりはるかにマシだ。
地図には、森の外縁部にいくつかの廃砦が記されている。かつて国境防衛のために建てられ、魔獣の脅威に耐えきれず放棄された拠点群。
「ここ。第七防衛砦跡。森の入り口から半日ほどの場所。水源が近くて、街道からは十分に離れている」
拠点としては悪くない。追手が森の中まで踏み込んでくる可能性は低い。魔獣の領域に好んで足を踏み入れる人間は少ないし、国の権威が及ばない無法地帯に騎士団を派遣する費用対効果は——悪い。
(コスパが悪い、って言うんだったっけ。前の人生で覚えた言葉。……使い勝手がいいから気に入ってる)
荷馬車を操る御者——金貨三枚で雇った無口な老人——に行き先を告げると、馬車は森に向かって方向を変えた。
◇ ◇ ◇
第七防衛砦跡は、予想していたよりずっと朽ちていた。
石造りの小さな砦。かつては二階建てだったらしいが、上層部は崩壊し、辛うじて一階部分だけが原形を留めている。壁面には蔦が絡まり、入り口の木製扉は腐って外れかけている。
リーゼルは砦の中に足を踏み入れた。
暗い。
光源がない内部は、入り口から差し込む細い光だけが頼りだった。石壁に触れると、指先にひんやりとした湿気が伝わる。苔の匂い。かび臭い土の匂い。どこかで水が滴る音が、一定のリズムで響いている。
——ぽた、ぽた、ぽた。
崩れた壁の隙間から風が入り込んでいて、かすかに木々の葉擦れの音が混じる。その奥に、低く遠い咆哮。腹の底に響くような、重い振動。魔獣の声だ。
普通の人間なら怯えるところだろう。
リーゼルは、壁の苔を指先で擦り取りながら呟いた。
「……この苔、リュクス苔だ。触媒として使える。いいな、自生してるの初めて見た」
恐怖より先に、知的好奇心が反応する。昔からそうだ。父に「不気味な子だ」と言われたのも、きっとこういうところなのだろう。
物心ついた頃から、リーゼルは「変わった子」だった。
メルツハーゲン子爵家の三女。上の姉たちが社交的で愛想がよかったぶん、無口で人間に興味を示さないリーゼルは、家族の中で浮いていた。食卓で話しかけられても上の空。友人はいない。学院に入ってからは研究室に籠りきりで、ますます人間との接点が減った。
母が泣いていたことがある。「あの子はどうしてまともに育ってくれなかったのかしら」と。
聞こえていたけれど、傷つかなかった。——いや、傷つかなかったふりをしただけかもしれない。そのあたりの感情の機微は、リーゼルには正直よくわからない。
(前の人生でも、たぶん、似たようなものだったんだと思う。他人の気持ちがわからなくて、でもそれを気にする余裕もなくて)
「ママ。この場所、住むの?」
ルゥが砦の中を見回している。崩れた石材。蜘蛛の巣。床に溜まった枯れ葉と泥。
「住むよ」
「……ぼく、ここ、寒い」
「我慢して。暖房は後回し。まず蒸留装置を組み立てる」
「ぼくの身体が低温で劣化しても?」
「……それは困る。じゃあ焚き火くらいは起こす。でも蒸留装置が先」
ルゥが無表情のまま、かすかに頷いた。リーゼルには、それが少し嬉しそうに見えた。——見えただけかもしれないけれど。
◇ ◇ ◇
三日かけて、砦を最低限住めるようにした。
「最低限」の基準が常人とずれていることは、リーゼル自身にはわからない。
一階の大広間を研究室に。壁際に棚を作り、持ち出した資料と素材を並べた。簡易の蒸留装置と、錬金術用の炉。合成用の硝子器具は馬車の荷台でいくつか割れてしまったが、残ったものでなんとかなる。
寝室は隅に藁を敷いただけ。食料は逃亡前に保存食を買い込んであったが、調理する気はない。パンをかじって水を飲めば死にはしない。
「ルゥ、ここに座って。調整するから」
夜。焚き火の明かりだけが揺れる砦の中で、リーゼルはルゥのメンテナンスを始めた。
ホムンクルスの身体は不完全だ。定期的に魔力を補充し、構成要素のバランスを整えてやらなければ、崩壊する。リーゼルの指先から薄く光る魔力が流れ、ルゥの身体に染み込んでいく。
「痛い?」
「痛みの感覚は実装されていない」
「そう。……でも、不快感は?」
「……少し。胸のあたりが、ざわざわする」
「それ、不快感っていうんだよ。覚えておいて」
指先を動かしながら、リーゼルは考える。
ルゥの感情回路は未完成だ。喜び、悲しみ、怒り——人間の基本感情を再現するはずだった回路が、まだ十分に機能していない。逃亡のどさくさで起動してしまったから、調整が追いついていない。
(この子を完成させたい。人間と同じように笑って、泣いて、怒れるようにしてあげたい)
それが「親心」なのか「研究欲」なのか、リーゼルには区別がつかない。たぶん両方だ。
メンテナンスを続けながら、無意識に口ずさんでいた。
知らないメロディ。前の人生の、どこかで聞いた旋律。歌詞は思い出せない。ただ、眠る前に聞いた穏やかな音の記憶だけが、身体のどこかに残っている。
「……ん?」
自分が何かを口ずさんでいたことに気づいて、リーゼルは口を閉じた。
ルゥが、いつもよりほんの少しだけ目を細めていた。
「ママ」
「なに」
「……なんでもない」
焚き火が爆ぜる音だけが、しばらく砦に響いた。
◇ ◇ ◇
翌朝から、研究を再開した。
テーマは引き続き「人工生命の完成」。だが、それと並行して、ここでの生活基盤を整える必要がある。錬金術で保存食を精製するにしても、素材は現地調達しなければならない。
リーゼルは森の外縁部に足を踏み入れた。
魔獣の森。その名は伊達ではない。
一歩踏み込んだだけで、空気が変わった。濃密な魔力を含んだ大気が肌にまとわりつく。木々の幹は異常に太く、樹冠が空を覆い隠して、昼間なのに薄暗い。地面を踏むと、苔と腐葉土が靴底に吸い付くような感触。
どこかで枝が折れる音。
リーゼルは立ち止まり、意識を集中した。
視界の端に、光の糸が見える。魔力の流れ。この森は魔力が濃すぎて、大気そのものに術式のような模様が浮かんでいる。自然の魔力がここまで凝縮された場所は、文献でしか知らなかった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
採取できる素材の質と量が、王都の比じゃない。ここなら、学院の設備がなくても研究を進められる。むしろ、学院よりも環境がいい。
腰の革袋に薬草を詰め込みながら、リーゼルは考えた。
当面の方針。一、拠点の整備。二、素材の確保と分類。三、ルゥのメンテナンス継続。四、人工生命研究の続行。
——五番目は特にない。人間関係は不要。一人と一体で十分だ。
(前の人生で学んだことがあるとすれば、他人に期待しないほうが楽だってこと。それだけは、はっきり覚えてる)
砦に戻ると、ルゥが入り口で待っていた。無表情。でも、リーゼルが戻ってきたのを確認すると、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「おかえり、ママ」
「ただいま。いい素材がたくさんあった。今日から本格的に始めるよ」
「何を?」
「全部」
リーゼルは砦の中に入り、トランクから研究ノートを取り出した。革表紙のノートを開くと、びっしりと書き込まれた術式と数式が目に入る。
三年分の研究成果。
国を追われた。家族に見放された。指名手配犯になった。
でも、この研究だけは手放さなかった。
ペンを手に取る。
新しいページに、今日の日付を書き込む。
「——逃亡生活、一日目。拠点確保。素材は豊富。研究環境としては悪くない。課題は食料の安定確保と、ルゥの定期メンテナンスの素材調達。あと暖房。ルゥが寒いと言っていた。……優先度、上げるか」
声に出しながら書く癖がある。前の人生の名残かもしれない。独り言が多いのは、ずっと一人だったからだ——前も、今も。
ペンを置いて、窓のない壁の隙間から外を見た。
森の向こうに、夕日が沈んでいく。茜色の光が雲を染めて、見知らぬ世界の空を燃やしている。
——きれいだとは思う。思うけれど、それだけだ。
感動に浸っている暇があったら、一行でも多く論文を書きたい。一つでも多く実験を回したい。
逃げてきたことを後悔はしない。研究を止める理由がない。
……まあ、ちょっとだけ。あの学院の図書館は惜しかったかな。禁書庫の鍵、返してないけど。——まあいいか。どうせ指名手配だし、今さら鍵の一つや二つ。
ルゥが隣に来て、リーゼルの袖を引いた。
「ママ。ご飯」
「パンあるでしょ」
「三日同じパン。劣化してる」
「カビてなければ食べられる。効率的でしょ」
「……ぼくは食事が不要だけど、ママは人間」
「うん。だから死なない程度に食べるよ」
「それは食事とは言わない、と、ぼくのデータベースにある」
「データベースを更新して。『リーゼルにとっての食事=死なない程度の栄養摂取』」
「……却下」
ルゥが、ほんの少しだけ眉を寄せた。
リーゼルは、それを見て少しだけ笑った。
——明日は、もう少し奥まで探索してみよう。
この森には、まだ知らないものがたくさんある。知らないものがある限り、退屈はしない。退屈しない限り、生きていける。
それがリーゼル・フォン・メルツハーゲンという人間の、たぶん唯一の生存戦略だった。
* * *
「嘆く暇があったら、実験を一つ回したほうがいい」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、逃亡日記より




