第一章 温度(一)深夜の感想
零時七分に投稿ボタンを押した。三週間かけて書いた八千二百字の短編。机の上にはぬるくなった麦茶と、プロットを書き潰したノートが一冊。
キーワード欄は、本格、日常の謎、どんでん返しの三つにした。どんでん返しと自分で書いた時点でどんでん返しは半分死ぬ。それでも検索で見つけてもらえるほうを取ると決めて、以来これで通している。
麦茶を注ぎ足して戻るとPVは六になっていた。ブックマークはゼロ。何人が最後の行まで読んだのかは表示されない。もう一度更新して八まで確認し、今夜はやめておく。
筆名は佐倉悠希。投稿先は「文筆家になろう」、長いので住人は文なろと呼ぶ。ここにミステリの短編を月一本のペースで上げて三年になる。プロットに一週間、本文に二週間、寝かせて直すのに残りの数日。
平日は経理二課にいて、入金と請求書を突き合わせる仕事をしている。書けるのは夕飯と風呂のあとの、二十三時から一時間半。請求書の数字は誰が処理しても同じになるが、小説は同じにならない。続けている理由はたぶんそれだ。
今回のは雨の日の遺失物係の話だった。閉館後の図書館で、忘れ物の傘が一本だけ多い。死人も泥棒も出ない数え違いひとつで八千二百字を書いた。ネタは手帳の古いページにあった。「傘は増える」という走り書き。電車で書き留めたときは使い道を自分でもわかっていなかった。
***
一時を回った頃にまた文なろを開くと、メッセージが来ていた。差出人は陽向ましろ。
『読みました。後半、犯人がわかったあとに主人公が傘をささないで歩くところ、すごくよかったです。事件がとけたのに、まだすこし寒い。悠希さんの文章は、ああいうところに体温があるんですよね。トリックの話はみんなするけど、わたしはあの三行がいちばん好きです。
あの三行は最初から決めてあったんですか。それとも書いているうちに出てきたんでしょうか。よかったら今度教えてください。
先週、去年の遺言状の話を読み返しました。何気ない文が実は伏線になっていたことに気づきました。それも何箇所も。読み返してよかったです。
あと、恋愛の日間が今週は騒がしいです。一位の連載が別の人の昔の連載と設定がそっくりだとかで燃えています。設定なんて被るときは被るのにと思いながら眺めています。でも悠希さんのトリックが盗まれたときは、わたしが怒りますからね。
次の話も待ってます。無理のないペースでいいので』
最初の段落をもう一度読んだ。零時に出したばかりの八千二百字をこの人はもう最後の行まで読んでいる。
ましろさんは現代恋愛の連載を持っている人だ。二年前に私の短編へ長いメッセージが届いた。『佐倉悠希さま、感想を送らせていただきます。感想欄ではネタバレになりますので』という書き出しだった。丁寧に読み込んだ上での考察と違和感の指摘だったので、返事に数日かかった。お返しに彼女の連載を第一話から読み始めた。途中でやめられなくなって、気づいたら朝の四時だった。
以来こうして、二年、やり取りが続いている。会ったことはない。顔も本名も住んでいる街も知らない。わかっているのは夜型なことと、猫を飼いたいのに飼えない住宅事情くらいだ。
彼女の連載はいま百二十話を超えた。すれ違いを続けた二人が、ようやく隣を歩くようになったところで止まっている。主人公は思ったことを何でも口にするのに、肝心のひと言だけ言えないでいる。彼を呼ぶときも、いまだに苗字のままだ。感想欄は毎回賑わっていて、どの感想にも長い返事が付いている。
返事を書いた。
『ありがとうございます。あの三行は最初から用意していたものではなくて、投稿の前の夜に足しました。ちょうど雨が降っていた日で、半分は雨のおかげです。傘をささせるかどうかは直前まで迷って、やめました。さしたら事件が終わってしまう気がしたので。
遺言状の話を二回読んだ人は、たぶん世界にましろさんだけです。
恋愛モノの設定と同じで、トリックも定番があるので、被ることがあるかもしれません。あまり定番は書かないようにしてますけどね。
次は来月中に出します』
実際のところ、トリックが盗まれても罪にはならない。著作権ではアイデアは保護されないからだ。だから設定が似ているという告発は根拠として弱い。恋愛ジャンルの騒ぎがどうなるかは知らないけど。
送信してから歯を磨いた。明日は仕事で締めの作業がある。あの三行のことは解説にも活動報告にも書いていない。それでも読んで、見つける人がいる。
布団に入る前にもう一度だけ解析を見た。PVは十四で、ブックマークがひとつ付いていた。読み返すつもりの人が、ひとりいる。誰なのかは、たぶんわかる。
電気を消した。




