【5分】あの夏ひとり欠けたまま【切ない】
「日葵なら、絶対にやってくれると思ってたよ」
部室のホワイトボードに貼り出された、夏の大会の登録メンバー。
私は日葵の肩を叩いた。
日葵は中学からバスケを始めたばかりなのに驚くほど上達が早かった。
ドライブは鋭いし、パスの判断もいい。
顧問から名前を呼ばれた時も、周りの部員たちは「やっぱりな」という顔をしていた。
レギュラーに選ばれるのは当然──そう思っていた。
「あ、うん……」
だが日葵は、ぎこちなく笑っただけだった。
「嬉しくないの?」
「いや、嬉しいよ」
そう言いながらも、どこか浮かない顔をしている。
「なんかみんな期待しすぎなんだよね」
「当たり前じゃん。期待されるだけの実力あるんだから」
私がそう言うと、日葵は曖昧に笑った。
「そういう問題じゃないんだけどなあ」
その意味を私は考えもしなかった。
異変が起きたのは二日後だった。
練習前、日葵が顧問の前に立っていた。
「足首を痛めてしまいました。しばらく練習は無理だと言われたので、レギュラーは辞退します」
その場にいた皆が驚き、部室がざわついた。
私も耳を疑った。
怪我?
昨日まで普通に動いていたじゃないか。
顧問は少し残念そうな顔をしたが、結局その申し出を受け入れた。
代わりに二年生の伸子がレギュラーへ繰り上がった。
放課後、私は日葵を問い詰めた。
「いつ怪我したの?」
「昨日の帰りかな」
「そんな話聞いてないけど」
「別に報告するほどでもないし」
日葵は笑いながら足首を軽く動かした。
その瞬間、違和感が走った。
本当に重い怪我をした人間の動きには見えなかった。
(……もしかして、仮病?)
そう思った。
なぜそんなことをするのか分からない。
せっかく掴んだレギュラーなのに。
みんなが羨む場所なのに。
どうして逃げるのか?
まさかと思うが、辛い練習から逃げるため?
たしかに練習は厳しいが……。
それからの日葵は、見るからにやる気を失っていた。
部活に来てもベンチの端でスマホをいじるだけ。
しまいには部活にもあまり来なくなった。
私は校内で日葵を見るたび、何度も声をかけた。
「まだ怪我治らないの?」
「うん」
「病院変えた方がいいんじゃない?」
「大丈夫大丈夫」
「見学だけでもしていったら?」
「そのうちね」
のらりくらり。
いつも同じだった。
視線を合わせない。
適当に笑う。
それが余計に腹立たしかった。
チームの状況はお世辞にも良いとはいえない。
伸子は真面目な子である。
だが、実戦経験が足りない。
練習試合でもミスが続き、自信をなくしているのが分かった。
私は焦っていた。
夏の大会が近づいていたからだ。
そして焦りは、思わぬ事態を生むことになる。
ある日の部活後。
久しぶりに日葵が見学に来た。
そして偶然、部室に二人きりになったとき私は言った。
「ねえ。本当に怪我してるの?」
「してるよ」
「診断書ある?」
「……は?」
ヘラヘラ笑っていた日葵の表情が、急に真顔になる。
「診断書のお金は私が出すから見せてよ。そうしたら納得するから」
「………」
数秒の沈黙。
日葵が私を見るその目は、初めて見るほど冷たかった。
「そこまでしなきゃいけないんだ、この部活……」
翌日。
日葵は退部届を出した。
そして、そのまま来なくなった。
夏の大会が始まる。
一回戦。
試合が始まってしばらくは互角だったが、徐々に点差をつけられ始めた。
相手が明らかにこちらの弱点を狙ってきたのだ。
伸子である。
ボールが伸子に渡るたびに激しいプレッシャーがかかる。
「あっ!」
パスが奪われる。
ドリブルを狙われる。
判断が遅れる。
失点が重なる。
顧問の怒声が飛ぶ。
チームの空気がさらに重くなる。
誰もが苛立っていた。
原因はわかってる。
私たち元々のレギュラーは言葉にしなかったが、皆、同じことを思っていたのかもしれない。
目がそう言ってたのだ。
『あいつのせいで守備が機能しない』
『あいつのせいでパスが回らない』
『あいつのせいで点差が開く』と。
伸子の顔はどんどん青くなっていった。
分かってしまったのだ。
自分が狙われていることを。
自分がチームの弱点になっていることを。
ミスが重なるたび、私たちの視線が凍りついていくのを、伸子は敏感に察していたのかもしれない。
何百人もの観客の前で、仲間たちが見ている前での公開処刑。
その辛い現実を突きつけられ続ける。
私は見ていられなかった。
試合は大敗。
部室へ戻ると誰も口を開かなかった。
静まり返った空気の中で、伸子が泣き崩れる。
「すみません……」
震える声。
「負けたのは私のせいです……」
誰もそんなことを言ってないけど伸子は謝り続けた。
「私なんかが出たせいで……みんなの夏を終わらせちゃって……」
涙が床に落ちる。
肩が震える。
息が乱れる。
私は何も言えなかった。
その姿を見ていた時だった。
突然、日葵の顔が頭に浮かんだ。
『なんかみんな期待しすぎなんだよね』
『そういう問題じゃないんだけどなあ』
あの時は意味が分からなかった。
今なら少しだけ分かる気がした。
日葵は自分の実力を知らなかったわけじゃない。
むしろ逆である。
日葵は自分の未熟さを誰よりも知っていた。
だから怖かったのだ。
レギュラーになることが。
期待されることが。
試合に出ることが。
もし失敗したら。
もしみんなを失望させたら。
もし自分がチームの足を引っ張ったら。
その恐怖に耐えられなかったのかもしれない。
実際にどうなったかは分からない。
顧問は日葵をレギュラーに選んでいた。
本番で活躍した可能性だってある。
でも、日葵本人にはそう思えなかった。
彼女にはチームの足を引っ張った未来───”いま伸子が体現してるような”辛い現実だけが、ハッキリ見えていたのかもしれない。
『日葵なら、絶対にやってくれると思ってたよ』
私は応援したつもりだった。
励ましたつもりだった。
でも日葵には、どう聞こえたのだろう?
絶対に失敗するな。
期待を裏切るな。
逃げるな。
そんな言葉に聞こえていたのかもしれない。
『そこまでしなきゃいけないんだ、この部活……』
あの日の声が蘇る。
私はずっと、仮病を使って逃げた卑怯者だと思っていた。
違ったのかもしれない。
日葵は逃げたかったんじゃない。
追い詰められていたのだ。
「……ごめん」
思わず漏れたその言葉は、伸子に向けたものではなかった。
本当は、もうここにはいない日葵へ向けた言葉だった。
静まり返った部室の中で、私は自分の両手が小さく震えていることに気づいた。




