【3分】三十年目の恨み【ほんのり】
引越しの片付けをしていたら、段ボールの底から日記が出てきた。
小学三年生の頃のものだ。
表紙に「ひみつ」と書いてある。
懐かしくなって、開いた。
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《4がつ10か はれ》
《きょう、となりのせきのやまだくんにけされた。ゆるさない。》
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山田。覚えている。
ノートを貸したら、自分の書いた字を勝手に消された。
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《4がつ18か くもり》
《おかあさんにおこられた。なんでおこられたかわすれた。ゆるさない。》
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母に見せたら笑うかもしれない。
今度帰省したときに持っていこう。
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《5がつ2か はれ》
《きょうはたのしかった。やまだくんとサッカーした。やまだくんはゆるした。》
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読み進めると、毎ページ誰かを《ゆるさない》と書いてある。
そして数日後にはたいてい《ゆるした》と書いてある。
担任の先生。
給食のおばさん。
近所の猫。
近所の猫を《ゆるさない》と書いた翌日に《ねこはゆるした。かわいいから》と書いてある。
思わず、笑った。
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《9がつ14か あめ》
《パパがいなくなった。くつがなかった。ゆるさない。》
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手が止まった。
その頃、家の中は静かだった。
父と母は、ほとんど話さなくなっていた。
夕飯のときも、テレビの音だけが流れている。
父は早く食べて席を立ち、母は何も言わずに片付けをした。
一度だけ、夜中に声を聞いたことがある。
ケンカしてるような声。
聞きたくなくて、布団をかぶった。
その日はテレビの音がやけに小さく感じた。
母は台所に立ったまま、こちらを見なかった。
父は何も言わなかった。
部屋を出る前、少しだけこちらを見た気がする。
……いや、気のせいかもしれない。
しばらくして、玄関を見に行った。
靴がなかった。
父が家を出たのは、たしか自分が九歳の秋だ。
次のページをめくってみる。
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《9がつ15か はれ》
《ゆるさない。》
《9がつ29か くもり》
《まだゆるさない。》
《10がつ3か あめ》
《やっぱりゆるさない。》
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ページをめくっても《ゆるした》が来ない。
そのまま日記は終わっていた。
最後のページまで、ずっと同じ言葉だった。
翌日、父に電話した。
あれから三十年以上、話していない。
呼び出し音が三回鳴って、出た。
「久しぶりだな」
はっきりわかる。
父の声だった。
「どうした?」
「……子供の頃の日記が出てきた」
「………」
父は少し黙った。
「小学三年生のやつ」
「……そうか」
電話口で、父が息を吐く音がした。
「……会えるか?」
「会える」
三十年ぶりに会った父は、頭が白くなっていた。
小さくなっていた。
喫茶店で向かい合って、二人ともしばらく何も言えなかった。
父が先に口を開いた。
「怒ってるか?」
正直に言えば、もうよくわからない。
怒っているのか、寂しいのか、ただ懐かしいのか。
だから「わからない」とそのまま言った。
父は頷いた。
「そうか」
コーヒーを飲みながら、たわいない話をした。
仕事のこと。
体のこと。
最近の話。
二時間ほど喋って、別れた。
駅に向かって歩きながら日記のことを考える。
あの《ゆるさない》が続いたまま終わった日記。
自分はあの九歳から、ずっとそのままだったのかもしれない。
家に帰って、日記を開く。
最後のページの余白に、ボールペンで書いた。
《ゆるした。》
書いてから、少し考えて、もう一行足した。
《おそくなってごめん。》
誰に謝っているのか、自分でもよくわからなかった。
父にか。
九歳の自分にか。
たぶん、両方だった。




