(お江様)9
「上様のお成りです」
大広間の衣擦れの音を聞きながら、与太郎は上座に入った。
いつもとは違う香りがした。
化粧の香りが濃い。
御簾越しに見ると、着飾った女衆がやけに多い。
与太郎は来坂したお江様を歓待するにあたり、
大名衆や町衆に女房妾同伴でも構わぬ、と許した。
お江様を徳川家の正室としてではなく、実家として迎え入れる、
との意識からそう言葉にした。
その効果が過ぎたのか、揃って女房妾同伴であった。
浅井三姉妹の実家は近江国小谷城。
そこは落城した。
実母お市の方様が再嫁したのは柴田勝家の越前国北ノ庄城。
そこも落城した。
結局、三姉妹が安全に暮らしたのはここ大坂城であった。
御簾が上げられた。
与太郎は片桐且元に指示した。
「面を上げさせよ」
且元が立ち上がって大きく告げた。
「上様のお言葉である。
方々、面を上げられよ」
待っていました、とばかりに全員が面を上げた。
特に、町衆の女房妾だけでなく、大名衆の正室等も目を輝かせて、
与太郎を見上げて微笑む。
彼女達の心中が分からず、与太郎は困惑した。
しかし、色にはしない。
ゆっくり皆々を見回した。
与太郎の困惑は別にして、且元が本日の要旨を述べた。
それはお江様の来坂を歓迎する言葉で埋め尽くされていた。
辰千代と護衛の酒井家次についてはちょっと触れたが、
家康への言及はなかった。
皆々も理解していたようで、色に表す者はいなかった。
且元の仕切りでお江様と辰千代、酒井家次が膝スリスリ、
上座近くへ進み出た。
辰千代は顔が強張っていたが、酒井家次はそうでもなかった。
柔和な笑みを浮かべていて、読めなかった。
そんな二人を後ろに従えたお江様は泰然としたもの。
与太郎に軽く笑み、会釈して言上した。
「上様、ただの里帰りですのにこのような大歓待、
誠に有難う存じます」
流石はお江様。
実態は人質なのに、里帰りと言い切った。
与太郎も笑みで返した。
「気になされるな。
これが豊臣家の流儀なのです。
太閤殿下であればこの大広間に大判小判が舞うのでしょうが、
某はこのような子供。
背丈に似合わぬことは今はしません。
どうか、ご容赦ください」
お江様だけでなく、皆々にも受けた。
あちこで失笑が漏れた。
「来坂されてもう三日、身体の調子はどうですか」
お江様は、長旅だけでなく産後でもあった。
与太郎はその辺りを気にしていた。
「皆がゆっくりさせてくれたお陰で、このように元気ですよ」
予定よりも十日ほど延着した。
「それを聞いて安心しました。
この大坂でも身体を労わって下さい」
「ありがとうございます。
それより上様、私のことを覚えていますか」
淀ママによると、赤ちゃん時代に会っていたそうだ。
「当然ですよ。
・・・。
お尻がお世話になったそうですね」
お初叔母様と二人して私を奪い合ったそうだ。
そう淀ママに聞いた。
お江様が朗らかに笑う。
「そうですそうです。
ゲップもさせましたよ」
与太郎は顔が赤くなるのを感じた。
お江様は続けて私を揶揄い、会話の主導権を握った。
まるで大坂のおばちゃん。
ただ、ポケットから飴は出て来ない。
切りの良いところで私の視線を辰千代に誘導した。
「こちらが家康殿の六男の辰千代です」
視線が合うと辰千代が軽く会釈した。
「辰千代と申します。
宜しくお願いいたします」
先ほどまでの強張りが取れていた。
ジッと私を見上げ、何やら含んでいる色。
それでも言葉にせぬ自制心はあるようだ。
「こちらこそ宜しく。
私の一つ上ですね。
齢の近い友が少ないので歓迎します。
来坂したばかりなので暫くは忙しいでしょうが、
暇になったら私に声をかけて下さい。
お茶席に招きますので」
心にも思っていない事を言ってしまった。
正直言うと、大人に囲まれて育ったせいか、
純真な子供の扱いが分からないのだ。
お江様がもう一人を紹介した。
「護衛の酒井家次です」
家次はそつなく深く頭を下げた。
「酒井家次と申します。
お見知りおき下さい」
与太郎は家次を繁々と見た。
齢は三十半ばだったはず。
年齢相応の顔をしていた。
「辰千代殿に用意した屋敷の検分は如何だ。
建物の大きさや庭の広さだが」
「申し分御座いません」
「家具調度は揃っていたか」
「はい、なかなかの物で御座いました。
近日中に辰千代様と共に移ります」
「何か足りないと思えば、こちらが手配した商家に頼めば良い。
何なりと揃えてくれる筈だ」
公儀として、家康と親しい豪商に、辰千代殿の世話を頼み入る、
と申し渡していた。
その数は四家。
京の茶屋家と角倉家、大坂の淀屋、堺の今井家。
辰千代の世話如きで潰れる訳もなく、彼等は一も二もなく承諾した。
まあ、公儀の申し渡しを断れなかった、のだろうが。
子供の扱いは分からないが、大人なら分かった。
虚栄心をかき立てる為に擽って、褒めて、強請る。
話が一段落したところで、家次に尋ねた。
「家次殿、私は若年ゆえ、長篠の戦いを知らぬ。
其方は知っているのであろう。
徳川方から見た戦の様子を教えてはくれぬか」
家次は若年ながら家康の小姓として参戦していたはず。
与太郎は言葉を足した。
「私の周りに設楽ヶ原の戦いに詳しい者はいるが、
長篠城の戦いそのものを知る者が少ないのだ。
家康殿が耳にしたこと、実父の酒井忠次殿に聞いたこと、
または他の者達に聞いたこと、それらを詳しく話してくれないか」
決戦地の設楽ヶ原の戦いに目が行きがちだが、
そもそもは徳川方の長篠城を救援するのが目的であった。
その為に織田方が駆け付けた、筈だった。
今から考えれば恐ろしい事に、救援ではあった筈が、
織田方は入念に武田軍との決戦の用意をしていた。
その一つは畿内の戦いであった。
苦戦を装って武田軍の侵攻を誘った。
さらには設楽ヶ原へ誘導する為に、
途次の城や砦の開城や放棄を許した。
極め付けは小勢で長篠城救援に赴いた徳川方の酒井隊であろう。
奇襲で、長篠城を包囲する武田方の砦を全て落とすと、
その勢いで武田軍本隊の後背地を奪った。
そう与太郎は思っていた。




