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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第81話



 追わずに近づく。


 その言葉は、朝のロイドの店の作業台の上で、地図の隅に小さく書かれていた。


 誰が書いたのか、最初は分からなかった。


 だが、文字の癖を見て、ロイドはすぐに気づいた。


 ミラの字だ。


 大きくはない。


 飾りもない。


 ただ、まっすぐに書かれている。


 追わずに近づく。


 ロイドはその一文を見下ろし、しばらく黙っていた。


 昨日、市場通りで旅人風の男を見た。


 男は貼り紙を見ていた。


 ロイドたちを見ていた。


 そして旧資材倉庫側の路地へ消えた。


 追える距離だった。


 でも、追わなかった。


 その後、露店主リザの使いが持ってきた紙で、旅人風の男が灰色外套の男と合流した可能性があると分かった。


 市場の目が見つけた。


 追わずに。


 騒がずに。


 戻ってきた情報として。


 その瞬間、ロイドは確かに感じた。


 追わなくても、近づける。


 足で追うのではない。


 怒りで走るのではない。


 人の目。


 貼り紙。


 記録。


 地図。


 王城の情報。


 それらを重ねていけば、黒羽の道へ少しずつ近づける。


 ミラは、それを一文にしたのだろう。


「……いい言葉だな」


 ロイドが呟く。


 ミラは棚の前で、灯り石を並べながら振り返った。


「何が?」


「これ」


 ロイドは地図の隅を指差す。


 ミラは少しだけ見て、頷いた。


「書いた」


「うん。いい」


「昨日、思った」


「市場で?」


「うん」


 ミラは手元の灯り石を棚へ置く。


「追わなかった。でも、見えた」


「そうだな」


「だから、追わなくても進む」


 ロイドは深く頷いた。


「うん」


 その時、セドが奥から出てきた。


 手には、昨日の市場通りで集めた記録束がある。


 水売りダムロ。


 配達人たち。


 露店主リザ。


 市場井戸周辺の貼り紙。


 旅人風の男。


 旧資材倉庫側。


 灰色外套。


 そして、黒羽の操作具の動線との重なり。


 セドは作業台へ紙束を置き、静かに言った。


「本日の目的を確認します」


 ロイドは少し笑った。


「来たな、確認」


「必要です」


「はい」


 セドは紙を開いた。


「一、市場通りで得た情報を整理し、ルイス様へ送る。二、旧資材倉庫周辺の所有記録、通行許可、商業組合との接点を王城側で確認していただく。三、外側では市場通りの報告網を維持する。四、旧資材倉庫側へは入らない。五、旅人風の男、灰色外套を見ても追わない。六、風灯り・水灯りの改良は最低限に留める。七、全員帰還」


 ロイドは頷いた。


「今日は、王城側へ繋ぐ日だな」


「はい」


 ガルドが腕を組んでいた。


 彼は今日、少し不機嫌そうだった。


 理由は分かる。


 旧資材倉庫側が濃くなってきた。


 市場通りから見える路地の先。


 工房街の人間なら、場所も構造もある程度分かる。


 行けば、何か掴めるかもしれない。


 だからこそ、行きたくなる。


 だが、行かない。


 それがつらい。


「ガルドさん」


 ロイドが声をかける。


「あ?」


「行かない日です」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


 ガルドは低く答えた。


 ミラが短く言う。


「えらい」


「言うと思った」


 ガルドは顔をしかめた。


 だが、否定しなかった。


 店内に小さな笑いが落ちる。


 その笑いで、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。


 エルマは椅子に座り、旧資材倉庫周辺の古い記憶を辿っていた。


「旧資材倉庫は、昔は工房組合の共同倉庫だった」


「共同倉庫?」


 ロイドが聞く。


「ああ。資材を一時的に置く場所だよ。炉材、金属板、石材、測量道具、壊れた管。何でも置いた」


「今は?」


「表向きは、十年前の事故後に封鎖。使用禁止」


 セドが記録する。


「表向きは、ということは」


「裏で誰かが使っていても不思議じゃない」


 ガルドが低く言った。


「工房街の連中は近づかねぇ。危ない場所だって知ってるからな。だから、逆に隠すには都合がいい」


 ロイドは地図を見る。


 市場通りから旧資材倉庫側へ続く路地。


 その奥に、封鎖されたはずの場所。


 黒羽の噂流しが戻り、灰色外套と接触した可能性のある場所。


 そこに、旧測量坑道の工房側入口候補、W三もある。


 線が重なりすぎている。


「……行きたくなるな」


 ロイドは正直に言った。


 セドが即座に答える。


「行きません」


「分かってる」


「今は外から見えた線を王城側の記録と合わせる段階です」


「分かってる」


 ミラが言う。


「行きたい時ほど、紙」


「そうだな」


 ロイドは息を吐いた。


「紙にしよう」


 


 王城へ送る覚書は、かなり長くなった。


 ロイドはセドと一緒に内容を整理した。


 ただし、感情を入れすぎない。


 ルイスが王城内で調べやすいよう、項目ごとにまとめる。


 セドが筆を取り、ロイドが横から口を出す。


 ――市場通りにて噂対応を実施。


 ――水売り、配達人、露店主へ噂を店・親方・処理場へ戻すよう依頼。


 ――旅人風の男を確認。


 ――当該人物は貼り紙設置後、旧資材倉庫側路地へ移動。


 ――市場側報告により、旧資材倉庫側で灰色外套の男と合流した可能性。


 ――追跡は行わず。


 ――旧資材倉庫周辺について、所有記録、封鎖記録、通行許可、外部委託記録、王都商業組合との接点の確認を依頼。


 ――特に、事故後三年目以降の管理変更があれば確認願う。


 ロイドはそこまで読んで、少し眉を寄せた。


「これ、硬すぎないか?」


「ルイス様への報告です」


 セドが答える。


「そうだけど」


「必要な情報が漏れないことを優先しています」


「うん。でも最後に一行、こっちの空気も入れたい」


 セドは少しだけ首を傾げる。


「空気?」


「市場の人たちが協力してくれたこと。噂を追わずに戻してくれたこと」


 セドは一瞬黙った。


 そして、頷く。


「重要です」


 彼は最後に書き加えた。


 ――市場側の協力により、噂流しの影を追跡せず確認できた。街の報告網は有効。


 ロイドはそれを見て、頷いた。


「いい」


 ミラが横から紙を見て、短く言う。


「街の灯り」


 セドは少しだけ目元を緩めた。


「はい」


 ロイドは覚書を畳む前に、もう一度確認した。


 追跡せず。


 全員帰還。


 その二つがちゃんと入っている。


 大事だ。


 ルイスにも伝える。


 外側は、無茶をしていない。


 ちゃんと戻っている。


 それを伝えることも、信頼の一部だと思った。


 


 その頃、王城ではルイスが、別の記録を開いていた。


 古い倉庫管理台帳。


 旧東工房区画関連の資材保管記録。


 表向きには、事故後に封鎖された場所ばかりだ。


 だが、事故後の混乱の中で、一時保管、再分類、破損品管理、外部委託という言葉が何度も出てくる。


 ルイスは眉をひそめながら、紙をめくった。


 フィリアが隣で別の台帳を確認している。


「また外部委託」


 フィリアが言った。


 ルイスは顔を上げる。


「どこ?」


「旧資材倉庫、事故後二年目。封鎖維持と残置資材管理を外部委託」


「委託先は?」


「空白」


 ルイスは小さく息を吐いた。


「またか」


 外部委託。


 委託先空白。


 承認印欠落。


 管理印のみ。


 黒羽に繋がる記録には、何度も同じ空白がある。


 責任の空白。


 人の名前を消した場所。


 そこに、黒羽は入り込む。


 ルイスは紙へ書き写した。


 旧資材倉庫、事故後二年目、外部委託管理。


 委託先空白。


 承認印欠落。


 管理印のみ。


 フィリアがさらに紙をめくる。


「通行許可の記録もある」


「誰の?」


「王都商業組合の資材検分員」


 ルイスの指が止まった。


「商業組合」


「うん。事故後五年目から、年二回の検分許可」


「旧資材倉庫は封鎖されているはずなのに?」


「“外部からの目視確認のみ”って書いてある」


 ルイスは台帳を覗き込む。


 確かに、そう書いてある。


 外部からの目視確認。


 内部立入不可。


 王都商業組合、資材検分員二名。


 年二回。


 しかし、その下に小さな注記がある。


 鍵管理、現地委託。


 ルイスの胸が冷える。


「鍵管理、現地委託」


 フィリアも顔をしかめる。


「つまり、鍵は王城管理じゃない?」


「少なくとも現場側に委ねている」


「誰に?」


「空白だろうね」


 ルイスは次のページをめくる。


 案の定、鍵管理者欄は空欄だった。


 ただ、管理印だけが押されている。


 旧資材倉庫。


 封鎖。


 外部委託。


 商業組合の検分許可。


 鍵管理は現地委託。


 そして、今、噂流しの影がそこへ戻っている。


 繋がりすぎている。


「フィリア」


「うん」


「ここ、黒羽の拠点かもしれない」


 フィリアは小さく息を呑んだ。


「旧資材倉庫が?」


「少なくとも、拠点の一つ」


 ルイスはさらに記録を探す。


 資材検分員の名前。


 最初の数年は記載がある。


 だが、事故後八年目から、名前が変わる。


 いや、変わるというより、略号になる。


 検分員A。


 検分員B。


 顔のない記録。


 名前のない人。


 ルイスは唇を結んだ。


「また名前が消えてる」


 フィリアが静かに言う。


「黒羽は、名前を消すね」


「うん」


「ミラベルさんたちと逆だ」


 ルイスは顔を上げる。


「逆?」


「外の人たちは、名前を戻してる。ミラベルさん、カイゼルさん、マイラさん、テオさん、リザさん。みんな名前が出てくる」


 フィリアは記録を見る。


「でも、黒羽のところは、空白とかAとかBばかり」


 ルイスはその言葉を胸の中で受け止めた。


 名前を戻す外の灯り。


 名前を消す黒羽。


 その対比は、あまりにもはっきりしていた。


「……そうだね」


 ルイスは静かに言った。


「名前がある方を信じたい」


 フィリアは頷いた。


「うん」


 その時、ロイドたちからの覚書が届いた。


 市場通り。


 旅人風の男。


 旧資材倉庫側路地。


 灰色外套との合流可能性。


 ルイスは読み進めるほど、手に力が入った。


「一致してる」


 フィリアが覗き込む。


「旧資材倉庫?」


「うん」


 ルイスはすぐに自分の調査結果と合わせる。


 外側の目撃。


 内側の記録。


 同じ場所を指している。


 旧資材倉庫。


 封鎖されたはずの場所。


 商業組合が検分許可を持ち、鍵管理が現地委託になっている場所。


 黒羽の噂流しが戻った可能性のある場所。


 ルイスは筆を取った。


 ――旧資材倉庫について確認。


 ――事故後二年目、封鎖維持と残置資材管理を外部委託。委託先空白。


 ――事故後五年目以降、王都商業組合の資材検分員に年二回の外部目視確認許可。


 ――鍵管理は現地委託。管理者名空白。


 ――事故後八年目以降、検分員名はA・B表記となり、実名なし。


 ――市場通りの目撃情報と合わせ、旧資材倉庫が黒羽の中継地点である可能性高。


 書きながら、ルイスはもう一つ考えた。


 この情報をどう伝えるか。


 外側が焦って旧資材倉庫へ向かわないようにしなければならない。


 ロイドたちは慎重だ。


 セドもいる。


 ミラも、ガルドも、街の人たちも止まれるようになっている。


 それでも、この情報は強い。


 強い情報は、人を動かしてしまう。


 ルイスは最後に、はっきり書いた。


 ――現時点で接近しないで。鍵管理と検分許可の経路をさらに追う。倉庫そのものより、倉庫へ入れる者を先に見つける。


 フィリアがそれを読んで、頷いた。


「いい」


「うん」


「倉庫じゃなく、入れる人」


「そう」


 ルイスは覚書を畳んだ。


「外の灯りが追わずに近づいているなら、王城側も追わずに掘る」


 フィリアは少し笑った。


「掘る?」


「記録を」


「うん」


 ルイスも少しだけ笑った。


 王城の中にも、帰り道を描く方法がある。


 それは、紙の中から名前のない空白を見つけることだった。


 


 ロイドの店に、ルイスからの返答が届いたのは午後だった。


 セドが紙を開く。


 読み始める前から、表情が変わった。


 ロイドは作業台に身を乗り出す。


「何か出た?」


「はい」


 セドはゆっくり読み上げた。


「旧資材倉庫について確認。事故後二年目、封鎖維持と残置資材管理を外部委託。委託先空白」


 ガルドが舌打ちする。


「また空白か」


「事故後五年目以降、王都商業組合の資材検分員に年二回の外部目視確認許可。鍵管理は現地委託。管理者名空白」


 ロイドは顔をしかめる。


「封鎖されてるのに、鍵が現地委託?」


「はい」


「誰が持ってるか分からない?」


「記録上は」


 セドは続ける。


「事故後八年目以降、検分員名はA・B表記となり、実名なし。市場通りの目撃情報と合わせ、旧資材倉庫が黒羽の中継地点である可能性高」


 店内が静まった。


 中継地点。


 その言葉が、地図の上に重く落ちる。


 旧資材倉庫は、ただの怪しい場所ではなくなった。


 黒羽の噂、人、道具、操作線。


 それらをつなぐ可能性のある場所。


 セドは最後を読んだ。


「現時点で接近しないで。鍵管理と検分許可の経路をさらに追う。倉庫そのものより、倉庫へ入れる者を先に見つける」


 沈黙。


 ロイドは深く息を吐いた。


「ルイス様、分かってるなぁ……」


「はい」


 セドの声には、強い誇りがあった。


 ガルドは腕を組み、苦い顔をする。


「倉庫じゃなく、入れる奴か」


「はい」


 セドが答える。


「倉庫へ近づけば罠の可能性があります。ですが、鍵を持つ者、検分許可を使う者を見つければ、外から流れを掴めます」


 ミラが短く言う。


「追わずに近づく」


 ロイドは地図の隅のミラの文字を見る。


 追わずに近づく。


 まさに今、それが必要だった。


「じゃあ次は、鍵管理者と検分員A・B」


 ロイドが言う。


「はい」


 セドが頷く。


「外側では、市場通りと工房街で、商業組合の資材検分員を見た人がいないか確認します」


「名前じゃなくて?」


「特徴です。服装、持ち物、来る時期、誰と話すか」


 ガルドが低く言う。


「工房街の親方なら覚えてる奴がいるかもしれねぇ」


「ただし、聞き方に注意が必要です」


 セドが言う。


「黒羽や倉庫の核心に触れすぎないよう、過去の資材検分の確認として聞きます」


「なるほど」


 ロイドは頷いた。


「市場通りでは?」


「リザさんへ、資材検分員や商業組合の者が市場を通った時の記憶を聞きます」


 ミラが言う。


「露店の目」


「はい」


 エルマは静かに言った。


「商業組合の検分員なら、身なりが少し違うはずだよ」


「どんな?」


 ロイドが聞く。


「ただの旅人よりは整ってる。職人よりは手が汚れていない。商人よりは目立たない。中途半端に普通」


「嫌な普通ですね」


「黒羽が好きそうだ」


 ガルドが吐き捨てるように言った。


 セドは記録する。


 次段階。


 検分員A・Bの特徴確認。


 鍵管理者の推定。


 商業組合資材検分の実態把握。


 旧資材倉庫へは接近しない。


 ロイドは地図を見つめた。


 線が増えた。


 旧測量坑道。


 封鎖弁。


 操作線。


 市場通り。


 旧資材倉庫。


 商業組合。


 鍵管理者。


 検分員A・B。


 どんどん複雑になる。


 だが、闇ではなくなっていく。


 複雑な地図になっていく。


 それなら、描ける。


 ゆっくりでも。


 


 夕方、ガルドとハインツは工房街の親方たちへ聞き取りに出た。


 もちろん、旧資材倉庫へは近づかない。


 聞く内容も絞る。


 商業組合の資材検分員について覚えているか。


 年に二回来ていたか。


 誰が案内していたか。


 鍵を開ける者を見たか。


 ロイドは店で、セドと一緒に情報を受ける準備をした。


 ミラは風灯りと水灯りの外装を少しだけ確認していたが、今日は深入りしない。


 ルイスからの情報が重かったため、全員が少し慎重になっていた。


 夕暮れ前、ガルドたちが戻ってきた。


 表情は険しい。


「出た」


 ガルドが言った。


 ロイドは立ち上がる。


「何が?」


「検分員AかBかは知らんが、年に二回、確かに来ていた」


 ハインツが続ける。


「商業組合の腕章をつけた男二人。片方は背が高く、片方は小柄。どちらも手袋をしていた」


「手袋?」


 セドが聞く。


「工房街で手袋は珍しくない。だが、資材を見るだけの割に、ずっと外さなかったらしい」


 オルドが紙を出す。


「案内役もいました。工房街の人間ではなく、商業組合側の案内係。灰色の外套を着ていたという証言があります」


 店内が静まる。


 灰色外套。


 また出た。


 ロイドは低く言う。


「繋がったな」


 セドが記録する。


 工房街聞き取り。


 商業組合検分員二名。


 背の高い男、小柄な男。


 常時手袋。


 案内役、灰色外套。


 旧資材倉庫付近で年二回目撃。


 鍵開閉については未確認。


「鍵は?」


 ロイドが聞く。


 ガルドは首を振る。


「誰も直接は見てねぇ。だが、検分の日だけ旧資材倉庫側の封鎖柵が少し動いていたって話がある」


「開いてた?」


「少なくとも、動かせる状態だった」


 セドがさらに書く。


 検分日、封鎖柵に変化あり。


 鍵または別経路による開閉可能性。


 ミラが短く言う。


「入れる人、いる」


「はい」


 セドが答える。


「倉庫へ入れる者が存在する可能性が高まりました」


 ロイドは拳を握った。


 行きたい。


 でも、行かない。


 今、分かったのは、倉庫へ入れる者がいること。


 それなら、その者の流れを追う。


 倉庫ではなく、人と許可の流れを。


「ルイス様へ返そう」


 ロイドが言った。


「はい」


 セドはすぐに覚書を書く。


 工房街聞き取り結果。


 検分員二名。


 手袋。


 灰色外套の案内役。


 封鎖柵の変化。


 年二回。


 鍵開閉未確認。


 追跡なし。


 全員帰還。


 ロイドは最後の行を見て、少し笑った。


「聞き取りでも全員帰還」


「はい」


 セドが答える。


「最重要です」


「そうだな」


 


 夜、店内には重い手応えが残っていた。


 黒羽の影は濃くなっている。


 旧資材倉庫。


 商業組合。


 灰色外套。


 検分員A・B。


 鍵管理者。


 封鎖弁の操作線。


 噂流し。


 全てが少しずつ同じ方向を向いている。


 だが、まだ決定打ではない。


 まだ入らない。


 まだ追わない。


 まだ、帰り道が足りない。


 ロイドは作業台の上の地図を見つめた。


 ミラの字が、隅に残っている。


 追わずに近づく。


「これ、方針紙にしよう」


 ロイドが言った。


 ミラが顔を上げる。


「これ?」


「うん」


 セドも頷いた。


「良いと思います」


 ガルドが腕を組む。


「今の俺たちに必要だな」


 エルマが微笑む。


「ミラベルも気に入るよ」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「じゃあ、貼る」


 ミラ自身が新しい紙に、その言葉を書いた。


 追わずに近づく。


 その下に、ロイドが一行足した。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 セドがさらに一行。


 情報は、足で追わず、記録で重ねる。


 ガルドが少し考え、低く言った。


「俺も書く」


 皆が少し驚く。


 ガルドは筆を取り、不器用な字で書いた。


 殴る前に、戻れ。


 ロイドは思わず笑いそうになったが、こらえた。


 ミラが静かに言う。


「ガルドらしい」


「悪いか」


「いい」


 エルマも笑った。


「いいね。かなりいい」


 その紙が、壁に貼られた。


 追わずに近づく。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 情報は、足で追わず、記録で重ねる。


 殴る前に、戻れ。


 ロイドはそれを見て、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。


 馬鹿みたいに見える一文もある。


 でも、それでいい。


 これは、今のロイドの店の方針だ。


 格好つけた王城の文書ではない。


 現場で焦る者たちが、自分たちを止めるための言葉だ。


 夜風が店の窓を揺らした。


 遠くの水路から、かすかな冷気が流れてくる。


 旧資材倉庫側では、今も誰かが動いているかもしれない。


 灰色外套が、鍵を持っているかもしれない。


 検分員AとBが、次の動きを準備しているかもしれない。


 だが、ロイドたちはまだ入らない。


 追わずに近づく。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 その言葉を壁に置き、店の灯りは夜の中で静かに揺れていた。


 黒羽の闇は濃くなっている。


 けれど、闇の形もまた、少しずつ見え始めていた。第81話


 追わずに近づく。


 その言葉は、朝のロイドの店の作業台の上で、地図の隅に小さく書かれていた。


 誰が書いたのか、最初は分からなかった。


 だが、文字の癖を見て、ロイドはすぐに気づいた。


 ミラの字だ。


 大きくはない。


 飾りもない。


 ただ、まっすぐに書かれている。


 追わずに近づく。


 ロイドはその一文を見下ろし、しばらく黙っていた。


 昨日、市場通りで旅人風の男を見た。


 男は貼り紙を見ていた。


 ロイドたちを見ていた。


 そして旧資材倉庫側の路地へ消えた。


 追える距離だった。


 でも、追わなかった。


 その後、露店主リザの使いが持ってきた紙で、旅人風の男が灰色外套の男と合流した可能性があると分かった。


 市場の目が見つけた。


 追わずに。


 騒がずに。


 戻ってきた情報として。


 その瞬間、ロイドは確かに感じた。


 追わなくても、近づける。


 足で追うのではない。


 怒りで走るのではない。


 人の目。


 貼り紙。


 記録。


 地図。


 王城の情報。


 それらを重ねていけば、黒羽の道へ少しずつ近づける。


 ミラは、それを一文にしたのだろう。


「……いい言葉だな」


 ロイドが呟く。


 ミラは棚の前で、灯り石を並べながら振り返った。


「何が?」


「これ」


 ロイドは地図の隅を指差す。


 ミラは少しだけ見て、頷いた。


「書いた」


「うん。いい」


「昨日、思った」


「市場で?」


「うん」


 ミラは手元の灯り石を棚へ置く。


「追わなかった。でも、見えた」


「そうだな」


「だから、追わなくても進む」


 ロイドは深く頷いた。


「うん」


 その時、セドが奥から出てきた。


 手には、昨日の市場通りで集めた記録束がある。


 水売りダムロ。


 配達人たち。


 露店主リザ。


 市場井戸周辺の貼り紙。


 旅人風の男。


 旧資材倉庫側。


 灰色外套。


 そして、黒羽の操作具の動線との重なり。


 セドは作業台へ紙束を置き、静かに言った。


「本日の目的を確認します」


 ロイドは少し笑った。


「来たな、確認」


「必要です」


「はい」


 セドは紙を開いた。


「一、市場通りで得た情報を整理し、ルイス様へ送る。二、旧資材倉庫周辺の所有記録、通行許可、商業組合との接点を王城側で確認していただく。三、外側では市場通りの報告網を維持する。四、旧資材倉庫側へは入らない。五、旅人風の男、灰色外套を見ても追わない。六、風灯り・水灯りの改良は最低限に留める。七、全員帰還」


 ロイドは頷いた。


「今日は、王城側へ繋ぐ日だな」


「はい」


 ガルドが腕を組んでいた。


 彼は今日、少し不機嫌そうだった。


 理由は分かる。


 旧資材倉庫側が濃くなってきた。


 市場通りから見える路地の先。


 工房街の人間なら、場所も構造もある程度分かる。


 行けば、何か掴めるかもしれない。


 だからこそ、行きたくなる。


 だが、行かない。


 それがつらい。


「ガルドさん」


 ロイドが声をかける。


「あ?」


「行かない日です」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる」


 ガルドは低く答えた。


 ミラが短く言う。


「えらい」


「言うと思った」


 ガルドは顔をしかめた。


 だが、否定しなかった。


 店内に小さな笑いが落ちる。


 その笑いで、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。


 エルマは椅子に座り、旧資材倉庫周辺の古い記憶を辿っていた。


「旧資材倉庫は、昔は工房組合の共同倉庫だった」


「共同倉庫?」


 ロイドが聞く。


「ああ。資材を一時的に置く場所だよ。炉材、金属板、石材、測量道具、壊れた管。何でも置いた」


「今は?」


「表向きは、十年前の事故後に封鎖。使用禁止」


 セドが記録する。


「表向きは、ということは」


「裏で誰かが使っていても不思議じゃない」


 ガルドが低く言った。


「工房街の連中は近づかねぇ。危ない場所だって知ってるからな。だから、逆に隠すには都合がいい」


 ロイドは地図を見る。


 市場通りから旧資材倉庫側へ続く路地。


 その奥に、封鎖されたはずの場所。


 黒羽の噂流しが戻り、灰色外套と接触した可能性のある場所。


 そこに、旧測量坑道の工房側入口候補、W三もある。


 線が重なりすぎている。


「……行きたくなるな」


 ロイドは正直に言った。


 セドが即座に答える。


「行きません」


「分かってる」


「今は外から見えた線を王城側の記録と合わせる段階です」


「分かってる」


 ミラが言う。


「行きたい時ほど、紙」


「そうだな」


 ロイドは息を吐いた。


「紙にしよう」


 


 王城へ送る覚書は、かなり長くなった。


 ロイドはセドと一緒に内容を整理した。


 ただし、感情を入れすぎない。


 ルイスが王城内で調べやすいよう、項目ごとにまとめる。


 セドが筆を取り、ロイドが横から口を出す。


 ――市場通りにて噂対応を実施。


 ――水売り、配達人、露店主へ噂を店・親方・処理場へ戻すよう依頼。


 ――旅人風の男を確認。


 ――当該人物は貼り紙設置後、旧資材倉庫側路地へ移動。


 ――市場側報告により、旧資材倉庫側で灰色外套の男と合流した可能性。


 ――追跡は行わず。


 ――旧資材倉庫周辺について、所有記録、封鎖記録、通行許可、外部委託記録、王都商業組合との接点の確認を依頼。


 ――特に、事故後三年目以降の管理変更があれば確認願う。


 ロイドはそこまで読んで、少し眉を寄せた。


「これ、硬すぎないか?」


「ルイス様への報告です」


 セドが答える。


「そうだけど」


「必要な情報が漏れないことを優先しています」


「うん。でも最後に一行、こっちの空気も入れたい」


 セドは少しだけ首を傾げる。


「空気?」


「市場の人たちが協力してくれたこと。噂を追わずに戻してくれたこと」


 セドは一瞬黙った。


 そして、頷く。


「重要です」


 彼は最後に書き加えた。


 ――市場側の協力により、噂流しの影を追跡せず確認できた。街の報告網は有効。


 ロイドはそれを見て、頷いた。


「いい」


 ミラが横から紙を見て、短く言う。


「街の灯り」


 セドは少しだけ目元を緩めた。


「はい」


 ロイドは覚書を畳む前に、もう一度確認した。


 追跡せず。


 全員帰還。


 その二つがちゃんと入っている。


 大事だ。


 ルイスにも伝える。


 外側は、無茶をしていない。


 ちゃんと戻っている。


 それを伝えることも、信頼の一部だと思った。


 


 その頃、王城ではルイスが、別の記録を開いていた。


 古い倉庫管理台帳。


 旧東工房区画関連の資材保管記録。


 表向きには、事故後に封鎖された場所ばかりだ。


 だが、事故後の混乱の中で、一時保管、再分類、破損品管理、外部委託という言葉が何度も出てくる。


 ルイスは眉をひそめながら、紙をめくった。


 フィリアが隣で別の台帳を確認している。


「また外部委託」


 フィリアが言った。


 ルイスは顔を上げる。


「どこ?」


「旧資材倉庫、事故後二年目。封鎖維持と残置資材管理を外部委託」


「委託先は?」


「空白」


 ルイスは小さく息を吐いた。


「またか」


 外部委託。


 委託先空白。


 承認印欠落。


 管理印のみ。


 黒羽に繋がる記録には、何度も同じ空白がある。


 責任の空白。


 人の名前を消した場所。


 そこに、黒羽は入り込む。


 ルイスは紙へ書き写した。


 旧資材倉庫、事故後二年目、外部委託管理。


 委託先空白。


 承認印欠落。


 管理印のみ。


 フィリアがさらに紙をめくる。


「通行許可の記録もある」


「誰の?」


「王都商業組合の資材検分員」


 ルイスの指が止まった。


「商業組合」


「うん。事故後五年目から、年二回の検分許可」


「旧資材倉庫は封鎖されているはずなのに?」


「“外部からの目視確認のみ”って書いてある」


 ルイスは台帳を覗き込む。


 確かに、そう書いてある。


 外部からの目視確認。


 内部立入不可。


 王都商業組合、資材検分員二名。


 年二回。


 しかし、その下に小さな注記がある。


 鍵管理、現地委託。


 ルイスの胸が冷える。


「鍵管理、現地委託」


 フィリアも顔をしかめる。


「つまり、鍵は王城管理じゃない?」


「少なくとも現場側に委ねている」


「誰に?」


「空白だろうね」


 ルイスは次のページをめくる。


 案の定、鍵管理者欄は空欄だった。


 ただ、管理印だけが押されている。


 旧資材倉庫。


 封鎖。


 外部委託。


 商業組合の検分許可。


 鍵管理は現地委託。


 そして、今、噂流しの影がそこへ戻っている。


 繋がりすぎている。


「フィリア」


「うん」


「ここ、黒羽の拠点かもしれない」


 フィリアは小さく息を呑んだ。


「旧資材倉庫が?」


「少なくとも、拠点の一つ」


 ルイスはさらに記録を探す。


 資材検分員の名前。


 最初の数年は記載がある。


 だが、事故後八年目から、名前が変わる。


 いや、変わるというより、略号になる。


 検分員A。


 検分員B。


 顔のない記録。


 名前のない人。


 ルイスは唇を結んだ。


「また名前が消えてる」


 フィリアが静かに言う。


「黒羽は、名前を消すね」


「うん」


「ミラベルさんたちと逆だ」


 ルイスは顔を上げる。


「逆?」


「外の人たちは、名前を戻してる。ミラベルさん、カイゼルさん、マイラさん、テオさん、リザさん。みんな名前が出てくる」


 フィリアは記録を見る。


「でも、黒羽のところは、空白とかAとかBばかり」


 ルイスはその言葉を胸の中で受け止めた。


 名前を戻す外の灯り。


 名前を消す黒羽。


 その対比は、あまりにもはっきりしていた。


「……そうだね」


 ルイスは静かに言った。


「名前がある方を信じたい」


 フィリアは頷いた。


「うん」


 その時、ロイドたちからの覚書が届いた。


 市場通り。


 旅人風の男。


 旧資材倉庫側路地。


 灰色外套との合流可能性。


 ルイスは読み進めるほど、手に力が入った。


「一致してる」


 フィリアが覗き込む。


「旧資材倉庫?」


「うん」


 ルイスはすぐに自分の調査結果と合わせる。


 外側の目撃。


 内側の記録。


 同じ場所を指している。


 旧資材倉庫。


 封鎖されたはずの場所。


 商業組合が検分許可を持ち、鍵管理が現地委託になっている場所。


 黒羽の噂流しが戻った可能性のある場所。


 ルイスは筆を取った。


 ――旧資材倉庫について確認。


 ――事故後二年目、封鎖維持と残置資材管理を外部委託。委託先空白。


 ――事故後五年目以降、王都商業組合の資材検分員に年二回の外部目視確認許可。


 ――鍵管理は現地委託。管理者名空白。


 ――事故後八年目以降、検分員名はA・B表記となり、実名なし。


 ――市場通りの目撃情報と合わせ、旧資材倉庫が黒羽の中継地点である可能性高。


 書きながら、ルイスはもう一つ考えた。


 この情報をどう伝えるか。


 外側が焦って旧資材倉庫へ向かわないようにしなければならない。


 ロイドたちは慎重だ。


 セドもいる。


 ミラも、ガルドも、街の人たちも止まれるようになっている。


 それでも、この情報は強い。


 強い情報は、人を動かしてしまう。


 ルイスは最後に、はっきり書いた。


 ――現時点で接近しないで。鍵管理と検分許可の経路をさらに追う。倉庫そのものより、倉庫へ入れる者を先に見つける。


 フィリアがそれを読んで、頷いた。


「いい」


「うん」


「倉庫じゃなく、入れる人」


「そう」


 ルイスは覚書を畳んだ。


「外の灯りが追わずに近づいているなら、王城側も追わずに掘る」


 フィリアは少し笑った。


「掘る?」


「記録を」


「うん」


 ルイスも少しだけ笑った。


 王城の中にも、帰り道を描く方法がある。


 それは、紙の中から名前のない空白を見つけることだった。


 


 ロイドの店に、ルイスからの返答が届いたのは午後だった。


 セドが紙を開く。


 読み始める前から、表情が変わった。


 ロイドは作業台に身を乗り出す。


「何か出た?」


「はい」


 セドはゆっくり読み上げた。


「旧資材倉庫について確認。事故後二年目、封鎖維持と残置資材管理を外部委託。委託先空白」


 ガルドが舌打ちする。


「また空白か」


「事故後五年目以降、王都商業組合の資材検分員に年二回の外部目視確認許可。鍵管理は現地委託。管理者名空白」


 ロイドは顔をしかめる。


「封鎖されてるのに、鍵が現地委託?」


「はい」


「誰が持ってるか分からない?」


「記録上は」


 セドは続ける。


「事故後八年目以降、検分員名はA・B表記となり、実名なし。市場通りの目撃情報と合わせ、旧資材倉庫が黒羽の中継地点である可能性高」


 店内が静まった。


 中継地点。


 その言葉が、地図の上に重く落ちる。


 旧資材倉庫は、ただの怪しい場所ではなくなった。


 黒羽の噂、人、道具、操作線。


 それらをつなぐ可能性のある場所。


 セドは最後を読んだ。


「現時点で接近しないで。鍵管理と検分許可の経路をさらに追う。倉庫そのものより、倉庫へ入れる者を先に見つける」


 沈黙。


 ロイドは深く息を吐いた。


「ルイス様、分かってるなぁ……」


「はい」


 セドの声には、強い誇りがあった。


 ガルドは腕を組み、苦い顔をする。


「倉庫じゃなく、入れる奴か」


「はい」


 セドが答える。


「倉庫へ近づけば罠の可能性があります。ですが、鍵を持つ者、検分許可を使う者を見つければ、外から流れを掴めます」


 ミラが短く言う。


「追わずに近づく」


 ロイドは地図の隅のミラの文字を見る。


 追わずに近づく。


 まさに今、それが必要だった。


「じゃあ次は、鍵管理者と検分員A・B」


 ロイドが言う。


「はい」


 セドが頷く。


「外側では、市場通りと工房街で、商業組合の資材検分員を見た人がいないか確認します」


「名前じゃなくて?」


「特徴です。服装、持ち物、来る時期、誰と話すか」


 ガルドが低く言う。


「工房街の親方なら覚えてる奴がいるかもしれねぇ」


「ただし、聞き方に注意が必要です」


 セドが言う。


「黒羽や倉庫の核心に触れすぎないよう、過去の資材検分の確認として聞きます」


「なるほど」


 ロイドは頷いた。


「市場通りでは?」


「リザさんへ、資材検分員や商業組合の者が市場を通った時の記憶を聞きます」


 ミラが言う。


「露店の目」


「はい」


 エルマは静かに言った。


「商業組合の検分員なら、身なりが少し違うはずだよ」


「どんな?」


 ロイドが聞く。


「ただの旅人よりは整ってる。職人よりは手が汚れていない。商人よりは目立たない。中途半端に普通」


「嫌な普通ですね」


「黒羽が好きそうだ」


 ガルドが吐き捨てるように言った。


 セドは記録する。


 次段階。


 検分員A・Bの特徴確認。


 鍵管理者の推定。


 商業組合資材検分の実態把握。


 旧資材倉庫へは接近しない。


 ロイドは地図を見つめた。


 線が増えた。


 旧測量坑道。


 封鎖弁。


 操作線。


 市場通り。


 旧資材倉庫。


 商業組合。


 鍵管理者。


 検分員A・B。


 どんどん複雑になる。


 だが、闇ではなくなっていく。


 複雑な地図になっていく。


 それなら、描ける。


 ゆっくりでも。


 


 夕方、ガルドとハインツは工房街の親方たちへ聞き取りに出た。


 もちろん、旧資材倉庫へは近づかない。


 聞く内容も絞る。


 商業組合の資材検分員について覚えているか。


 年に二回来ていたか。


 誰が案内していたか。


 鍵を開ける者を見たか。


 ロイドは店で、セドと一緒に情報を受ける準備をした。


 ミラは風灯りと水灯りの外装を少しだけ確認していたが、今日は深入りしない。


 ルイスからの情報が重かったため、全員が少し慎重になっていた。


 夕暮れ前、ガルドたちが戻ってきた。


 表情は険しい。


「出た」


 ガルドが言った。


 ロイドは立ち上がる。


「何が?」


「検分員AかBかは知らんが、年に二回、確かに来ていた」


 ハインツが続ける。


「商業組合の腕章をつけた男二人。片方は背が高く、片方は小柄。どちらも手袋をしていた」


「手袋?」


 セドが聞く。


「工房街で手袋は珍しくない。だが、資材を見るだけの割に、ずっと外さなかったらしい」


 オルドが紙を出す。


「案内役もいました。工房街の人間ではなく、商業組合側の案内係。灰色の外套を着ていたという証言があります」


 店内が静まる。


 灰色外套。


 また出た。


 ロイドは低く言う。


「繋がったな」


 セドが記録する。


 工房街聞き取り。


 商業組合検分員二名。


 背の高い男、小柄な男。


 常時手袋。


 案内役、灰色外套。


 旧資材倉庫付近で年二回目撃。


 鍵開閉については未確認。


「鍵は?」


 ロイドが聞く。


 ガルドは首を振る。


「誰も直接は見てねぇ。だが、検分の日だけ旧資材倉庫側の封鎖柵が少し動いていたって話がある」


「開いてた?」


「少なくとも、動かせる状態だった」


 セドがさらに書く。


 検分日、封鎖柵に変化あり。


 鍵または別経路による開閉可能性。


 ミラが短く言う。


「入れる人、いる」


「はい」


 セドが答える。


「倉庫へ入れる者が存在する可能性が高まりました」


 ロイドは拳を握った。


 行きたい。


 でも、行かない。


 今、分かったのは、倉庫へ入れる者がいること。


 それなら、その者の流れを追う。


 倉庫ではなく、人と許可の流れを。


「ルイス様へ返そう」


 ロイドが言った。


「はい」


 セドはすぐに覚書を書く。


 工房街聞き取り結果。


 検分員二名。


 手袋。


 灰色外套の案内役。


 封鎖柵の変化。


 年二回。


 鍵開閉未確認。


 追跡なし。


 全員帰還。


 ロイドは最後の行を見て、少し笑った。


「聞き取りでも全員帰還」


「はい」


 セドが答える。


「最重要です」


「そうだな」


 


 夜、店内には重い手応えが残っていた。


 黒羽の影は濃くなっている。


 旧資材倉庫。


 商業組合。


 灰色外套。


 検分員A・B。


 鍵管理者。


 封鎖弁の操作線。


 噂流し。


 全てが少しずつ同じ方向を向いている。


 だが、まだ決定打ではない。


 まだ入らない。


 まだ追わない。


 まだ、帰り道が足りない。


 ロイドは作業台の上の地図を見つめた。


 ミラの字が、隅に残っている。


 追わずに近づく。


「これ、方針紙にしよう」


 ロイドが言った。


 ミラが顔を上げる。


「これ?」


「うん」


 セドも頷いた。


「良いと思います」


 ガルドが腕を組む。


「今の俺たちに必要だな」


 エルマが微笑む。


「ミラベルも気に入るよ」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「じゃあ、貼る」


 ミラ自身が新しい紙に、その言葉を書いた。


 追わずに近づく。


 その下に、ロイドが一行足した。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 セドがさらに一行。


 情報は、足で追わず、記録で重ねる。


 ガルドが少し考え、低く言った。


「俺も書く」


 皆が少し驚く。


 ガルドは筆を取り、不器用な字で書いた。


 殴る前に、戻れ。


 ロイドは思わず笑いそうになったが、こらえた。


 ミラが静かに言う。


「ガルドらしい」


「悪いか」


「いい」


 エルマも笑った。


「いいね。かなりいい」


 その紙が、壁に貼られた。


 追わずに近づく。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 情報は、足で追わず、記録で重ねる。


 殴る前に、戻れ。


 ロイドはそれを見て、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。


 馬鹿みたいに見える一文もある。


 でも、それでいい。


 これは、今のロイドの店の方針だ。


 格好つけた王城の文書ではない。


 現場で焦る者たちが、自分たちを止めるための言葉だ。


 夜風が店の窓を揺らした。


 遠くの水路から、かすかな冷気が流れてくる。


 旧資材倉庫側では、今も誰かが動いているかもしれない。


 灰色外套が、鍵を持っているかもしれない。


 検分員AとBが、次の動きを準備しているかもしれない。


 だが、ロイドたちはまだ入らない。


 追わずに近づく。


 帰り道が足りるまで、入らない。


 その言葉を壁に置き、店の灯りは夜の中で静かに揺れていた。


 黒羽の闇は濃くなっている。


 けれど、闇の形もまた、少しずつ見え始めていた。

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