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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話



 消えた七つの灯り。


 その言葉は、夜が明けてもロイドの店の中に残っていた。


 壁に貼られた紙よりも。


 作業台に積まれた端材よりも。


 棚に並んだ灯り石よりも。


 目に見えないのに、重く。


 誰も直接触れていないのに、確かにそこにあった。


 ロイドは朝食の器を前にして、しばらく匙を動かせずにいた。


 温かい粥。


 ミラが作ったものだ。


 疲れた体でも食べやすいように、柔らかく煮込まれている。


 少し塩が効いていて、湯気が立っている。


 食べなければならない。


 そう分かっている。


 昨日、エルマも言っていた。


 生きているうちは食うものだ、と。


 でも、口に運ぶたびに、昨夜届いた紙の文字が浮かぶ。


 事故当日の名簿と、医療記録が合わない。


 鳥が運んだのは、物だけではない。


 消えた七つの灯りがある。


 搬出路の先に、人の記録が残っている可能性。


 急がず、でも忘れず。


「……人、だったんだよな」


 ロイドがぽつりと言った。


 店内に、静かな空気が落ちる。


 セドは作業台の横で同じように粥を食べていたが、匙を止めた。


 ミラは棚の整理をしていた手を止める。


 ガルドは腕を組んだまま、目を伏せていた。


 エルマは少し離れた椅子に座り、温かい茶を両手で包んでいる。


 誰もすぐには返さなかった。


 ロイドは器を見つめる。


「七人って言うと、数字みたいだけどさ」


 一拍。


「人だったんだよな」


 セドが静かに頷く。


「はい」


「名前もあった」


「はい」


「家族も、たぶんいた」


「はい」


「仕事もしてた。飯も食ってた。眠かったり、腹立てたり、笑ったりしてた」


 ロイドの声が少し低くなる。


「それが、記録から消えた」


 ミラが小さく言う。


「消された」


 ロイドは顔を上げた。


 ミラはいつも通り短い言葉だった。


 でも、その一言は重かった。


 消えたのではない。


 消された。


 その可能性。


 黒羽。


 選別。


 価値あるものだけを運ぶ連中。


 価値なしと見れば捨てる連中。


 ロイドは拳を握った。


「……腹立つな」


「はい」


 セドが答える。


「怒っていいやつだよな」


「はい」


「でも、怒りで突っ込むな、だよな」


「はい」


 ロイドは苦笑した。


「最近、答えが先に分かるようになってきた」


「良いことです」


「そうか?」


「はい」


 エルマが茶を置いた。


「怒りは持っていきな」


 全員がそちらを見る。


 エルマは目を伏せたまま続ける。


「捨てなくていい。怒るべきことに怒らないと、人は壊れる」


 しわの刻まれた手が、器の縁をなぞる。


「でも、怒りだけで歩くと、足元を見ない」


 ロイドは何も言わなかった。


 エルマの声は、どこか遠い場所から戻ってくるようだった。


 十年前。


 旧東工房区画。


 事故。


 選別。


 残された技師。


 彼女は怒ったのだろうか。


 泣いたのだろうか。


 叫んだのだろうか。


 それとも、怒ることすら許されなかったのだろうか。


「エルマさん」


 セドが静かに呼ぶ。


「何だい」


「搬出路へは、すぐには行きません」


 エルマは少しだけ目を開けた。


「そうかい」


「はい」


「理由は」


「準備不足です」


 セドは即答した。


「情報も足りません。水路の安全確認も不十分です。旧東工房区画の外縁弁は一時的に落としただけで、再度動く可能性があります。黒羽側が待ち伏せている可能性もあります」


「正しいね」


 エルマは短く言った。


 ロイドが小さく息を吐く。


「俺も、すぐ行くって言うのかと思った」


「以前なら、そう判断した可能性があります」


 セドは認めた。


「でも今は違う」


「はい」


 セドは店内を見回す。


 ロイド。


 ミラ。


 ガルド。


 エルマ。


 そして、奥で眠っているニコたち。


「今は、守るものと、準備するものがあります」


 その言葉に、ロイドは少しだけ胸が温かくなる。


 一人で抱え込まないセド。


 急がないセド。


 それは、ここまでの積み重ねで生まれた変化だった。


 ガルドが低く言う。


「じゃあ今日は何をする」


「被害確認と聞き取りです」


 セドは紙を広げる。


「水路沿い、工房街、処理場。昨夜、黒い鳥の荷箱を見た場所。青い水が出た場所。避難が遅れた場所。逆に、うまく避難できた場所」


「うまく避難できた場所も?」


 ロイドが聞く。


「はい」


「何で?」


「次に備えるためです」


 セドは答える。


「何が機能したかを知らないと、改善できません」


 ミラが頷く。


「灯りも」


「はい」


 セドはミラを見る。


「夜間用灯り石と職人灯りが、どこで役立ったか。どこに足りなかったかも確認したい」


「分かった」


 ミラは短く答えた。


 ガルドが腕を組む。


「工房街は俺が聞く」


「お願いします」


「ハインツにも手伝わせる」


「はい」


 ロイドが少し考えて言う。


「水路沿いは俺が行く」


 セドがすぐに顔を上げる。


「体は」


「痛い」


「では」


「でも、行く」


 ロイドははっきり言った。


「ただし、一人では行かない。長屋の人たちと一緒に回る。無理しない。低い場所には入らない」


 セドは数秒黙った。


 そして、頷いた。


「分かりました」


「止めないんだな」


「条件が適切です」


「条件付き許可か」


「はい」


「お前、王城の人っぽいな」


「そうでしょうか」


 ロイドは少し笑った。


 その笑いは弱い。


 でも、昨日より落ち着いていた。


 ミラが器を指差す。


「食べる」


「あ、はい」


 全員が、止まっていた匙を動かし始めた。


 重い話のあとでも、食べる。


 生きているから。


 次へ進むために。


 


 水路沿いの長屋は、朝の光の中で痛々しかった。


 直接大きく壊れた家は少ない。


 だが、低い石畳には青い染みが残っている。


 水が引いた跡。


 壁の下部に残る湿り気。


 窓辺に置かれたままの花瓶。


 避難の時に落とされた子供の靴。


 傾いた木箱。


 扉の前に置かれた椅子。


 生活の途中で、無理やり切られた跡があちこちにあった。


 ロイドは、それを見るたびに胸が痛んだ。


 人の家だ。


 誰かが朝起きて、飯を食べて、洗濯して、子供を叱って、夜になったら眠る場所。


 そこが今、立入禁止の縄の向こうにある。


「……戻りたいよな」


 ロイドが呟く。


 隣にいた長屋の女が、静かに頷いた。


 昨夜、母親を助けてほしいと泣いていた女だ。


 名前はマイラ。


 彼女の母は無事に高い通りの家へ避難している。


 けれど、家にはまだ薬や着替えが残っているらしい。


「戻りたいです」


 マイラは言った。


「でも、昨日の水を見たら……」


 言葉が途切れる。


 ロイドは頷いた。


「無理に戻らせない」


「はい」


「でも、必要なものがあるなら、確認班を作る。俺たちだけじゃなく、長屋の人、工房の人、ロープ持ち。水路に近づかない範囲で」


「……そこまでしてくれるんですか」


「俺一人じゃ無理だけどな」


 ロイドは苦笑した。


「皆でやるなら、できることはある」


 マイラは少しだけ目を伏せた。


「昨日も、そうでしたね」


「うん」


「私、昨日、母のことで頭がいっぱいで……店主さんが誰を行かせるか決めてくれたの、後から聞きました」


「俺じゃなくて、行った人たちが偉いんだよ」


「でも、行かせてくれた」


 マイラの声が少し震える。


「止めるだけじゃなくて、方法を考えてくれた」


 ロイドは何も言えなかった。


 あの時、自分の判断は正しかったのか、まだ分からない。


 人を行かせた。


 危険な場所へ。


 それが今も胸に残っている。


 でも、マイラの母は助かった。


 その事実が、少しだけロイドの中の重さを変えた。


「……怖かったよ」


 ロイドは正直に言った。


「誰かに行けって言うの、すげぇ怖かった」


 マイラは驚いたようにロイドを見た。


 ロイドは水路の方を見ないようにしながら続ける。


「でも、言わないと間に合わなかった。だから言った」


「はい」


「たぶん、これからもそういうことがある」


「……」


「俺、完璧じゃない。間違えるかもしれない。だから、皆で言ってほしい。これは危ないとか、こっちの方がいいとか」


 マイラはしばらく黙った。


 それから、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


「助かる」


「でも、店主さん」


「ん?」


「昨日みたいに一人で抱えないでくださいね」


 ロイドは目を瞬いた。


 そして、笑った。


「それ、最近よく言われる」


「言われる顔してます」


「顔かぁ……」


 ロイドは苦笑しながら、記録紙へ書いた。


 水路沿い長屋。


 避難時の声掛け有効。


 薬・衣類回収希望あり。


 帰宅時期未定への不安強い。


 確認班の必要。


 書き終えると、少しだけ深呼吸をした。


 水路はまだ低く鳴っている。


 ごぽり。


 でも、昨日より遠い。


 まだ危険だ。


 でも、向き合えないほどではない。


 


 工房街では、ガルドとハインツが聞き取りをしていた。


 工房の親方たちは、それぞれに不満を抱えている。


 床下浸水。


 炉の停止。


 端材箱の移動。


 見習いの避難。


 そして、黒い鳥の荷箱。


「昨日の混乱の中で、黒い荷箱を見た?」


 ガルドが聞く。


 小工房の親方は腕を組んで答えた。


「ああ。水が出てるってのに、二人組が荷箱を運んでた」


「中身は」


「分からん。だが、青く光ってた」


 ハインツが低く舌打ちする。


「人助けより荷箱か」


「そういう連中だろ」


 親方は苦々しく言った。


「こっちは見習いを逃がすので精一杯だった。あいつらはこっちを見もしなかったよ」


 ガルドは記録する。


 黒い荷箱。


 青光。


 小工房東側。


 二人組。


 避難支援なし。


 その文字を書く手に、力が入る。


「端材は?」


 ハインツが聞く。


「濡れた。使えんかもしれん」


「見せろ」


「こんな時にか?」


「こんな時だからだ」


 ハインツの声は硬い。


「青い水が触れた端材を、そのまま処理場へ出すな。黒い荷箱に入れられるぞ」


 親方の顔が変わる。


「……そうか」


「ああ」


 ガルドが続ける。


「危険品として分ける。使えるかどうかは後だ。まず混ぜるな」


「分かった」


 親方は見習いに指示を出す。


 ハインツはガルドを見る。


「端材ルート、広げる前に危険品の分別が必要だな」


「ああ」


「面倒が増えた」


「元から面倒だ」


「それもそうだ」


 二人は苦い顔で笑った。


 だが、手は止めない。


 工房街でも、昨日の出来事はただの被害では終わらない。


 次へ備えるための知識になる。


 どの床から水が出たのか。


 どの端材が反応したのか。


 どの炉が危なかったのか。


 それを拾う。


 職人たちの怒りも、不安も、全部含めて。


 


 処理場では、ディムが黒い荷箱の残骸を前にしていた。


 残骸。


 そう呼ぶしかない。


 昨夜、青い光を放っていた荷箱の一つが、朝には空になっていた。


 封は破られていない。


 鍵も壊れていない。


 だが、中身だけがない。


「……手品かよ」


 ディムが呟く。


 職員の一人が顔を青くして言う。


「夜の間、誰も近づいてません」


「見張りは?」


「いました。でも、水路側の封鎖で人が足りなくて」


「責めてねぇ」


 ディムは低く言った。


「状況確認だ」


 職員は唇を噛む。


「すみません」


「謝るな。次にどうするか考えろ」


 ディムは荷箱を覗き込む。


 底に、青い粉のようなものが残っている。


 冷却石の削れ粉か。


 あるいは、別の魔石か。


 黒羽は、混乱の中で中身を抜いた。


 人が逃げている間に。


 処理場が封鎖に追われている間に。


「……やっぱり、狙いは旧東の奥か」


 ディムは小さく言う。


 荷箱から抜かれたものが、搬出路へ運ばれたのか。


 外縁弁室で灰色の男が時間を稼いだのか。


 考えるほど、腹が立つ。


「ロイドの店へ知らせる」


 ディムは言った。


「あと、荷箱の底の粉は触るな。布で覆っておけ。誰か一人で見るな」


「はい」


「黒い鳥の印があるものは全部記録しろ」


「組合へは?」


 職員が恐る恐る聞く。


 ディムは少しだけ黙った。


「正式には報告する」


「でも」


「でも、写しを取る。こっちにも残す」


 職員は目を丸くした。


 ディムは荷箱を睨む。


「消される前にな」


 


 夕方。


 ロイドの店には、各所から情報が戻ってきた。


 水路沿いの聞き取り。


 工房街の被害記録。


 処理場の空の荷箱。


 職人灯りが役立った場所。


 足りなかった灯りの数。


 避難時に混乱した道。


 有効だった声掛け。


 記録紙は、作業台いっぱいに広がった。


 ロイドは椅子に座り、頭を抱えた。


「……情報、多すぎる」


「はい」


 セドが頷く。


「整理が必要です」


「今日やるなよ」


 ロイドが釘を刺す。


「分かっています」


「本当だな」


「はい」


 ミラが横から言う。


「夜は食べる。寝る」


「はい」


 セドは素直に返事をした。


 ガルドが椅子に腰を下ろし、疲れた息を吐く。


「工房街は、端材どころじゃねぇと思ったが」


「違った?」


 ミラが聞く。


「逆だ」


 ガルドは答えた。


「昨日のことで、端材をそのまま処理場へ出すのが怖くなってる。青い水に触れたものもある。分け方を知りたい工房が増える」


「つまり」


 ロイドが言う。


「端材ルートは広がる?」


「ただし、危険品の分別込みだ」


 ガルドは眉間に皺を寄せる。


「手間は増える」


「でも必要」


 ミラが言う。


「ああ」


 ガルドは頷いた。


「必要だ」


 セドはルイスからの紙を机の端に置いた。


「消えた七人の件と、搬出路の件は別軸で整理します」


「別軸?」


 ロイドが聞く。


「はい。今すぐ搬出路へ入るのではなく、まず外側の情報を集める」


「水路、工房、処理場」


「はい」


「それと王城の記録」


「はい」


 セドは紙を見る。


「七人が誰で、何を知っていたのか。黒羽が何を運んだのか。搬出路に何が残っているのか」


 一拍。


「それを知らずに入れば、また相手の流れに乗せられます」


 ロイドは頷いた。


「今回は、こっちで準備してから行く」


「はい」


「いいな、それ」


 ロイドは少し笑った。


「前より、ちゃんと冒険っぽい」


「冒険ではありません」


「分かってる。調査だろ」


「危険調査です」


「硬いなぁ」


 少しだけ笑いが生まれる。


 その笑いが、重い情報の山に押し潰されそうな空気を少しだけ軽くした。


 店の外では、夜が降り始めていた。


 東水路はまだ低く鳴っている。


 王城では、消えた七人の名が書き出されている。


 工房街では、端材と危険品の分別が始まっている。


 処理場では、空の黒い荷箱が布で覆われている。


 すべてが、少しずつ繋がっている。


 セドは、作業台の上の灯り石を見た。


 柔らかな光。


 その周りに集まる記録紙。


 人の声。


 疲れた顔。


 それでも、誰も席を立たない。


 ロイドが言う。


「飯にしよう」


 ミラが頷く。


「うん」


 ガルドも言う。


「食いながら考えるなよ」


 ロイドがセドを見る。


「聞いたか?」


「……はい」


「よし」


 セドは筆を置いた。


 今夜は、書き続けない。


 それもまた、次へ進むための選択だった。


 消えた七つの灯り。


 空になった黒い荷箱。


 青い水に触れた端材。


 旧東工房区画の搬出路。


 第二章の道は、暗く、深い。


 けれど、彼らはもう知っている。


 暗い道へ入る時は。


 一人で走るのではなく。


 灯りを持ち、声を掛け合い、足元を照らしながら進むのだと。


 店の中に、夕食の匂いが広がる。


 それは、まだ生きている者たちの匂いだった。

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