第42話
王城の朝は、外の街よりも静かに始まる。
誰かが大声で売り物を呼び込むこともない。
荷車の車輪が石畳を荒く鳴らすこともない。
窓の外を歩く使用人たちは足音を抑え、廊下を行き交う文官たちは低い声で言葉を交わす。
城の中では、慌ただしさでさえ整えられている。
乱れたものは見えない場所へ運ばれ、汚れたものは人の目に触れる前に片づけられ、壊れたものは保管庫へ下げられる。
美しい場所。
整った場所。
けれど、ルイスは最近、その整い方が少し怖くなっていた。
表面が綺麗すぎる。
だからこそ、下に何が埋まっているのか見えない。
書庫の片隅で、ルイスは小さな本を開いていた。
表紙は古い商業史。
誰かが興味本位で手に取ることはほとんどないような本。
その間に、薄い紙が挟まれている。
セドからの返答だった。
――鳥の名は、外にも影を落としています。
――冷却の流れは水路へ続き、今も止まっていません。
――選ばれなかった欠片が、こちらへ届きました。
――灯りはまだ小さいですが、人は少しずつ距離を覚えています。
――どうか、急がず。
最後の一行を見た時、ルイスはしばらく動けなかった。
どうか、急がず。
それは、セドらしくない言葉にも思えた。
いや、違う。
セドが変わり始めているのかもしれない。
昔のセドなら、必要な情報だけを返してきただろう。
危険度。
現状。
次の行動。
そういうものだけを。
でも今の紙には、セド自身の気遣いがあった。
急ぐな、と。
ルイスへ。
そして、たぶん、自分自身にも言い聞かせるように。
「……セドが、僕にそれを言うんだ」
ルイスは小さく呟いた。
書庫の空気は静かだ。
本の匂い。
古い紙。
磨かれた床。
遠くで司書が本を戻す音。
そのすべてが、今は妙にゆっくり感じられた。
足元の影が、ほんの少し揺れる。
ノクス。
――嬉しい?
「……うん」
ルイスは素直に答えた。
「嬉しい」
――怖い?
「それもある」
ルイスは紙を指でそっと撫でた。
「セドが急ぐなって言うくらい、外は危ないんだと思う」
ノクスは沈黙した。
ルイスは続ける。
「でも、セドがそれを言えるようになったことは、少し安心した」
以前のセドなら、自分が全部背負った。
危険なものを遠ざけ、必要なことだけをルイスへ渡し、自分は傷を隠して前へ進んだ。
今も本質は変わっていないのだろう。
けれど、店の人たちがいる。
ロイドが止める。
ミラが見ている。
ガルドが線を引く。
子供たちまで、守れと言っている。
セドは、一人ではなくなり始めている。
それが、ルイスには嬉しかった。
そして同時に、胸が少し痛んだ。
「……僕は、まだ遠いな」
――何から?
「セドの隣から」
ルイスは静かに言った。
「外で一緒に立てるほど、まだ強くない」
ノクスの影が揺れる。
――外だけが隣?
ルイスは目を伏せた。
「……違う、かな」
――あなたの場所は?
「王城の中」
――なら。
そこで声は途切れる。
相変わらず、ノクスは答えを最後まで言わない。
ルイスは少しだけ苦笑した。
「分かってる」
自分の場所で立つ。
セドが外で流れを見るなら、自分は内側で流れを見る。
王城の中にある、古い記録。
人の記憶。
隠された払い下げ。
黒羽運搬社。
選別機関。
十年前に止められたもの。
それを探るのが、今の自分の役割だ。
「急がず」
ルイスはもう一度、セドの言葉を読む。
「でも、止まらず」
そう言って、紙を折った。
このまま残しておくのは危険だ。
けれど、すぐに燃やすのも惜しかった。
セドの言葉を、もう少しだけ手元に置いておきたい。
そんな感情が湧いた自分に、ルイスは少し驚いた。
昔なら、感情より安全を選んだ。
いや、選ばされた。
今は違う。
守るために、感じることを捨てなくてもいい。
そう思えるようになってきた。
ルイスは紙を小さく畳み、本の別のページへ挟み直した。
そして、古い台帳の写しへ目を向ける。
黒羽運搬社。
冷却石。
事故後払い下げ。
選別機関。
バルド・レイス。
次にすべきことは分かっている。
バルドへ、もう一度会う。
ただし、急がず。
相手の恐怖を踏みつけないように。
強すぎない言葉で。
同じ朝。
ロイドの店では、セドが貼り紙を一枚増やしていた。
昨日までのものとは別に、少しだけ言葉を加えたものだ。
東水路付近では、不安定な魔石片が見つかっています。
水路へ近づかないでください。
異変を見つけた場合は、触れずに近くの大人へ知らせてください。
子供だけで確認に行かないこと。
店前に立ったロイドは、その紙を見上げていた。
「……昨日より丁寧だな」
「はい」
セドが横で答える。
「“危険性がある”だけでは不十分でした」
「昨日の群衆の反応を見てか」
「はい」
「分かりやすくしたのはいいけどよ」
ロイドは腕を組む。
「これ、ますますうちが情報掲示板みたいにならねぇか?」
「なるでしょう」
「否定しろよ」
「すでになっています」
「もっと嫌なこと言うなよ……」
ロイドは額を押さえた。
だが、実際その通りだった。
店の前には、朝から人が来ている。
灯り石を買いに来る者だけではない。
貼り紙を見に来る者。
水路の情報を伝えに来る者。
旧東工房区画の噂を確かめたい者。
そして、店の反応を探りに来る者。
小さな灯り石の店は、いつの間にか街の不安が集まる場所になっていた。
それは良いことでもあり、危険なことでもある。
ロイドは、それを肌で感じている。
「なぁ、セド」
「はい」
「うち、どこに向かってるんだろうな」
セドは少しだけ黙った。
朝の通りを見ている。
人々が貼り紙を読む。
読み終えた者が、隣の者へ話す。
子供を連れた母親が、その場でしゃがんで子供に説明している。
老人が目を細め、隣の若者が代わりに読んでやっている。
工房帰りの男が、腕を組んで黙り込む。
そこにあるのは、恐怖だけではない。
関心。
警戒。
信用。
不信。
そして、守ろうとする小さな意思。
「……分かりません」
セドは正直に答えた。
「ですが」
「ですが?」
「少なくとも、止まってはいません」
ロイドは少し笑った。
「そりゃそうだ」
「流れています」
「お前、本当に流れって言葉好きになったな」
「重要ですので」
「知ってるよ」
ロイドは肩をすくめる。
「なら、流されないようにしないとな」
「はい」
「いや、お前は特にだぞ」
「……」
「返事」
「はい」
ロイドは満足そうに頷いた。
その時、ミラが店の奥から出てきた。
手には小さな木箱。
夜間用灯り石が数個入っている。
「追加」
「もう?」
ロイドが驚く。
「昨日の予約分」
「ああ、そうだった」
ミラは棚へ並べながら、ぽつりと言う。
「夜の灯り、増えてる」
「売れてるってことか」
「うん」
「良いことだな」
「うん」
ミラは短く頷いたあと、貼り紙の方を見た。
「昼は注意。夜は灯り」
ロイドが少しだけ眉を上げる。
「何か詩人みたいなこと言ったな」
「違う」
「違うのか」
「役割」
ミラは言った。
「昼は危ない場所を知らせる。夜は怖い場所を減らす」
セドはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
短い。
だが、今の店をよく表している。
危険を知らせる。
不安を照らす。
その両方が、今のロイドの店には必要だった。
「……いいな、それ」
ロイドが言う。
「看板文句にするか」
「嫌」
ミラが即答した。
「何でだよ」
「恥ずかしい」
「お前にもそういう感覚あるんだな」
「失礼」
店の中に少し笑いが生まれた。
その笑いが、朝の重い空気をほんの少しだけ軽くする。
開店直後、店にはいつも以上に人が入った。
灯り石を買う者。
貼り紙を読む者。
水路の話をする者。
ロイドは一人ひとりに対応しながら、必要以上に不安を煽らないよう気をつけていた。
「東水路の話は、貼り紙以上のことはまだ分かってねぇ」
「黒い鳥を追うな。見ただけなら忘れろとは言わねぇが、近づくな」
「魔石片は持ってくる前に拾うなって話だ。見つけたら大人を呼べ」
「夜間用はあと三つ。取り置き? 名前言え。忘れたら売るぞ」
人々はロイドの言葉に笑い、頷き、また不安そうに質問した。
群衆の反応は、日に日に変わっている。
初めはただ怖がっていた。
次に興味を持った。
昨日は疑いも混ざった。
今日は、少しずつ“どうすればいいか”へ変わっている。
「水路の近くに住んでる子には言っといたよ」
「うちの工房でも、若いのに見に行くなって言ってある」
「組合からは何も来てないけど、こっちで注意するしかないな」
「灯り石の店が言うなら、まあ聞いとくか」
その最後の言葉に、ロイドは少しだけ目を丸くした。
灯り石の店が言うなら。
それは、信頼の言葉だった。
完璧な信頼ではない。
絶対でもない。
だが、少なくとも、昨日今日生まれたものではない。
積み重ねが、そこにあった。
「……聞いたか、セド」
ロイドが小声で言う。
「はい」
「うち、ちょっと信用されてるぞ」
「はい」
「何か怖ぇな」
「はい」
「そこは否定しろ」
「信用には責任が伴います」
「急に重いこと言うなよ」
ロイドは困ったように笑った。
だが、その顔には嫌そうな色だけではなかった。
責任を怖がりながらも、逃げる気はない。
そんな顔だった。
セドはそれを見て、静かに思う。
ロイドも変わった。
いや、変わったというより、本来持っていたものが動き始めたのかもしれない。
潰れかけていた店の中で眠っていた、店主としての流れ。
それが、今少しずつ表へ出てきている。
昼前。
店の前に、一人の少年が駆け込んできた。
ニコではない。
もっと幼い、昨日ニコたちが説明していた子の一人だった。
息を切らし、顔を真っ赤にしている。
「ロイドさん!」
ロイドがすぐに振り返る。
「どうした」
「水路の方に、大人がいた!」
店内の空気が一瞬で変わった。
セドが静かに近づく。
「どの水路ですか」
「東の、古いとこ!」
「近づきましたか」
「近づいてない!」
少年は必死に首を振った。
「ニコ兄ちゃんが、近づくなって言ったから!」
「良い判断です」
セドはすぐに言った。
少年の表情が、少しだけほっとする。
「どんな大人でしたか」
「二人。黒い服じゃない。でも、荷物持ってた」
「何をしていましたか」
「水のとこに、何か入れてた」
沈黙。
ロイドが表情を硬くする。
ガルドも奥から出てきた。
「何か入れてた?」
ロイドが聞き返す。
「うん。棒みたいなの」
「棒?」
少年は手で長さを示した。
「これくらい。青く光ってた」
ガルドの顔が変わった。
「魔力測定杭かもしれねぇ」
「何だそれ」
「流れを見る道具だ」
ガルドは低く言う。
「水路の魔力がどっちに流れてるか、どれくらい残ってるかを測る」
「つまり」
ロイドが顔をしかめる。
「向こうも水路を調べてる」
「そういうことだ」
セドは少年を見る。
「その大人たちは、あなたに気づきましたか」
「たぶん、気づいてない」
「一人で来ましたか」
「ううん。リナ姉ちゃんが途中まで一緒」
「リナは?」
「ニコ兄ちゃんたちに知らせに行った」
ロイドが頭を抱える。
「あいつら、動きが早ぇな……」
「良い判断です」
セドが言う。
「ただし、これ以上近づかないよう伝える必要があります」
「俺が行く」
ロイドが言った。
「店は」
「ミラとガルドで何とかなるだろ」
ガルドが頷く。
「俺が行った方がいい」
「いや」
ロイドは首を振った。
「ガルドは顔が怖い。子供が余計走る」
「お前、最近俺の扱い雑じゃねぇか」
「事実だろ」
ミラが短く言う。
「事実」
「お前まで」
少しだけ空気が緩む。
だが、セドは考えていた。
水路で測定。
青く光る杭。
大人二人。
黒外套ではない。
黒羽か、組合か、それとも別の下請けか。
「ロイドさん」
「何だ」
「行くなら、確認だけです」
「分かってる」
「近づかない」
「分かってる」
「相手に話しかけない」
「分かってる」
「もし」
「逃げる」
ロイドが先に言った。
「お前らに散々言われてるからな」
セドは少しだけ止まり、頷いた。
「お願いします」
「おう」
ロイドは少年へ向き直る。
「案内できるか?」
「うん。でも近くまでは行かない」
「それでいい。見えるとこまででいい」
少年は頷いた。
ロイドは店の外へ出る。
その背中を、セドは見送った。
以前なら、自分が行っていただろう。
だが今は違う。
任せる。
それも必要なことだ。
胸の奥に、少しだけ落ち着かない感覚がある。
自分で行った方が早い。
自分で見た方が確実。
だが、それではいつまでも一人のままだ。
「セド」
ミラが呼ぶ。
「はい」
「落ち着かない顔」
「……そうでしょうか」
「うん」
ガルドが鼻を鳴らす。
「任せるのも訓練だな」
「訓練ですか」
「ああ」
「難しいですね」
「だろうな」
ガルドは作業台へ戻りながら言う。
「お前は特にな」
セドは反論しなかった。
ただ、ロイドが出て行った扉をしばらく見ていた。
その頃。
王城では、ルイスがバルドと再び保管庫の奥にいた。
昨日より、さらに慎重な空気だった。
周囲には他の職員がいる。
だから二人は、あくまで備品の整理記録を確認しているように振る舞っている。
ルイスは台帳を見ながら、静かに言った。
「黒羽について、もう少し知りたいです」
バルドの手が止まる。
「殿下」
「無理にとは言いません」
「……」
「でも、外でも同じ名に繋がる動きが出ています」
バルドの顔が少し青ざめた。
「外、と言いますと」
「詳しくは言えません」
「……そうですか」
バルドは視線を落とした。
沈黙。
木箱の匂い。
紙の擦れる音。
遠くで誰かがくしゃみをする声。
日常の中に、危険な会話が隠れている。
「殿下」
バルドは低く言った。
「黒羽は、名前を変えます」
「名前を?」
「はい。時代ごとに、表向きの名前が違う」
ルイスは目を細める。
「黒羽運搬社は、その一つ?」
「おそらく」
「今は?」
「分かりません」
バルドは首を振る。
「ですが、紋章は変わりません」
「黒い鳥」
「はい」
バルドの声がさらに小さくなる。
「羽を広げた黒い鳥。嘴が下を向いている紋章です」
ルイスは心の中でセドからの情報と照合する。
黒い鳥の荷車。
間違いない。
「彼らは、何を選ぶのですか」
ルイスが問う。
バルドは目を閉じた。
「価値のあるものです」
「物だけですか」
バルドは答えなかった。
長い沈黙。
ルイスは、その沈黙を待った。
急がず。
踏みつけず。
やがて、バルドがかすれた声で言う。
「十年前、旧東工房区画から運び出されたのは、魔導炉部品、研究記録、特殊魔石、そして……」
そこで言葉が止まる。
「そして?」
「技師です」
ルイスの呼吸が止まった。
技師。
人。
運び出された。
「生存者ですか」
「一部は」
バルドの声は震えていた。
「生きていた者のうち、価値があると判断された者は、どこかへ運ばれました」
「どこへ」
「分かりません」
「エルマという名は?」
口に出した瞬間、バルドの顔が明らかに変わった。
しまった、とルイスは思った。
踏み込みすぎた。
しかし、もう戻せない。
「……どこで、その名を」
「外の記録です」
嘘ではない。
セドたちの流れから得た情報。
直接の記録ではないが、外側の情報だ。
バルドはしばらくルイスを見ていた。
その目には恐怖がある。
だが、それ以上に、何か別の感情もあった。
後悔。
安堵。
そして、痛み。
「エルマ技師は」
バルドはゆっくりと言った。
「選ばれなかった」
「……」
「価値なしと判断されたのではありません」
バルドは首を振る。
「危険すぎると判断された」
ルイスの胸が冷える。
「危険?」
「彼女は、知りすぎていた」
沈黙。
「だから、表に出されなかった。しかし、消すには目立ちすぎた」
「では、放置された」
「はい」
ルイスは拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
エルマ。
セドたちが会った生存者。
彼女は選ばれなかったのではない。
知りすぎたから、放置された。
それは、価値なしとして捨てることより、さらに残酷に思えた。
「……バルドさん」
「はい」
「あなたは、なぜそれを知っているのですか」
バルドは目を伏せた。
「私は、名簿を作りました」
声が震える。
「運び出すものと、残すものの」
ルイスは何も言えなかった。
この人は、十年前に選別の現場にいた。
黒羽に命じた側ではない。
だが、名簿を書いた。
運び出すもの。
残すもの。
物と、人を。
その重さを、十年間抱えている。
「……すみません」
バルドが絞り出すように言った。
「殿下に、このような話を」
「謝らないでください」
ルイスは静かに言った。
バルドが顔を上げる。
「でも、忘れないでください」
ルイスの声は震えていなかった。
「あなたが今話したことで、止まっていた流れが少し動きます」
「……」
「それが何を変えるかは、まだ分かりません」
一拍。
「でも、僕は無駄にはしません」
バルドの表情が歪んだ。
泣きそうにも見えた。
だが、彼は泣かなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「……どうか、慎重に」
「はい」
「黒羽は、今も生きています」
「分かっています」
「そして、彼らは」
バルドは声をさらに落とす。
「価値を作る者を嫌います」
ルイスの胸に、セドの店が浮かぶ。
廃棄魔石。
灯り石。
捨てられたものに価値をつける店。
黒羽が嫌うもの。
まさにそれだ。
「……伝えます」
ルイスは小さく呟いた。
誰にとは言わない。
だが、バルドは何かを察したように何も聞かなかった。
夕方。
ロイドが店へ戻った時、顔には疲労が滲んでいた。
「……ただいま」
声が重い。
セドはすぐに近づいた。
「無事ですか」
「無事」
「接触は」
「してない」
「確認は」
「できた」
ロイドは椅子に座り込み、深く息を吐いた。
少年は途中で帰らせたらしい。
その判断に、セドはまず安堵した。
「水路にいたのは二人」
ロイドが話し始める。
「黒外套じゃない。組合の腕章もない。ただ、荷物に黒い鳥の小さい印があった」
セドの目が細くなる。
「黒羽」
「たぶんな」
「何をしていましたか」
「棒を水路に入れてた。青く光ってた。たぶんガルドの言ってた測定杭だ」
ガルドが頷く。
「やっぱりか」
「あと」
ロイドは少し言葉を止めた。
「水が変だった」
「逆流ですか」
「ああ」
ロイドは顔をしかめる。
「一瞬だけだけど、確かに流れが戻った。ぞっとしたよ」
店内が静かになる。
ミラも手を止めた。
「……旧東の炉が、吸ってる」
ガルドが低く言う。
「あるいは、吸わせている」
セドが続ける。
ロイドは腕をさすった。
「あんなの見たら、子供なんか絶対近づけられねぇ」
「はい」
「貼り紙、もっと増やすか?」
「増やします」
セドは即答した。
「ただし、情報は選びます」
「黒羽の名は」
「出しません」
「だよな」
ロイドは頷いた。
「でも、黒い鳥の印を見たら近づくな、くらいは?」
セドは少し考えた。
黒い鳥。
その名を出すことで、かえって興味を煽る可能性がある。
しかし、すでに街は見ている。
黒い鳥の荷車は通りを走っている。
隠しても、噂は勝手に広がる。
「……表現を考えます」
「頼む」
ロイドは疲れたように笑った。
「俺、今日は本当に疲れた」
「休んでください」
「珍しくお前から言われたな」
「必要ですので」
「お前、そういうところだぞ」
ロイドは笑った。
だが、その笑いはすぐに小さくなる。
「セド」
「はい」
「水路、本当にまずい」
「はい」
「でも、今ならまだ人を近づけない流れを作れるかもしれねぇ」
「はい」
「店、使おう」
セドはロイドを見た。
ロイドは疲れている。
怖がってもいる。
それでも、逃げると言わなかった。
「貼り紙も、客への説明も、子供たちへの注意も、全部やる」
一拍。
「うちは灯り石の店だけど、今はそれだけじゃ足りねぇ」
ミラが静かに頷く。
「必要」
ガルドも言う。
「やるなら早い方がいい」
セドは少しだけ目を伏せた。
店が、自分の考えていた以上に動こうとしている。
自分一人ではなく。
ロイドが。
ミラが。
ガルドが。
店そのものが。
「……ありがとうございます」
セドが言う。
ロイドは苦笑した。
「礼はいい。飯食ってからやるぞ」
「今からですか」
「お前が言うな」
ロイドが突っ込む。
ミラが短く言う。
「先に食べる」
ガルドも頷く。
「腹が減ってると、ろくな文にならん」
セドは少しだけ黙り、やがて頷いた。
「分かりました」
夜間用灯り石が、店の奥で柔らかく光っていた。
外には、黒羽の流れがある。
水路の奥には、十年前の炉の気配がある。
王城の中では、ルイスが人の痛みに触れている。
まだ、すべては繋がっていない。
だが、それぞれの場所で、確かに流れは動き始めていた。
そして。
小さな灯り石の店は、その流れをただ眺めるだけではなくなっていた。




