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『価値なしと呼ばれた第二王子は、王都の裏側で灯りを灯す』  作者: 伊佐波瑞樹


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第10話



 ルイスは、城を出ない。


 王城の外で動くのはセド。


 ロイドの店を立て直すのも、ミラとの交渉を進めるのも、ダリオとの危うい糸を握るのも、すべてセドの役目。


 ルイスは表に出ない。


 名前を出さない。


 関わっている気配すら見せない。


 それが、今の二人にとって一番安全で、一番正しい形だった。


「……つまり、僕は今日もいつも通りに過ごせばいいんだね」


 朝。


 自室の扉が閉ざされた中で、ルイスはそう確認した。


 机の上には、昨夜セドがまとめた簡単な書付が置かれている。


 ロイド。


 ミラ。


 ダリオ。


 三つの名前が、短く並んでいるだけ。


 詳しい内容は書かれていない。


 万が一見られても、意味が分からないようにするためだ。


「はい」


 セドはいつも通り、少し後ろに控えていた。


「ルイス様は本日も、王城内で予定通りお過ごしください。座学、礼法、剣術。どれも普段通りです」


「普段通り……か」


「はい。むしろ、普段より目立たない方がよろしいかと」


 ルイスは苦笑した。


「それって、普段以上に頼りなく見えるようにってこと?」


「言い方を選ばなければ、そうです」


「選んでよ」


「では、周囲が安心する程度に未熟でいてください」


「……あまり変わってないよ」


 セドはわずかに目を伏せた。


 謝る気はなさそうだった。


 ルイスは小さく息を吐く。


「でも、分かってる。僕が急に何かを始めたら怪しまれる。外に出たいなんて言えば、なおさらだ」


「はい」


「だから、外は君に任せる」


「承知しております」


 即答。


 迷いのない声。


 その声を聞くと、安心する。


 けれど同時に、胸の奥が少しだけ重くなった。


「……セド」


「はい」


「僕だけ安全なところにいるみたいで、少し嫌だ」


 言ってから、ルイスは自分でも幼い言葉だと思った。


 けれど、本音だった。


 セドが外で危ない人間と会い、金を動かし、相手の腹を探り、こちらの手札を隠している。


 その間、自分は城の中で、何も知らない王子の顔をする。


 正しいと分かっている。


 必要だとも分かっている。


 それでも、何かが引っかかる。


 セドはすぐには答えなかった。


 少しだけ間を置いてから、静かに口を開く。


「安全なところにいることと、何もしないことは違います」


「……」


「ルイス様には、ルイス様の役目があります」


「僕の役目?」


「はい」


 セドはまっすぐルイスを見る。


「表で何もしていないように見せながら、実際には力を蓄えることです」


 ルイスは黙った。


「剣も、精霊も、知識も。今のままでは足りません」


「……はっきり言うね」


「必要ですので」


「うん。分かってる」


 分かっている。


 自分は弱い。


 甘い。


 剣も兄上には遠く及ばない。


 精霊に至っては、ノクスの存在さえまともに掴めていない。


 知識だって、王子として与えられたものを受け取っていただけだ。


 自分で必要だと思って、自分で探しに行ったものではない。


「勉強は、僕が自分でやる」


 ルイスは静かに言った。


 セドの目が少しだけ動く。


「よろしいのですか」


「うん。君に教わると、たぶん楽になる」


「楽になることは悪いことではありません」


「でも、僕が欲しいのは答えじゃない」


 ルイスは机の上の書付に視線を落とす。


「どうしてロイドさんの店が潰れそうなのか。どうしてミラさんみたいな職人が埋もれているのか。どうしてダリオみたいな人間が力を持つのか」


 言葉にすると、分からないことばかりだった。


「それを、ただ説明されるだけじゃ駄目だと思う」


「……」


「僕が自分で調べて、自分で考えないと、たぶん身につかない」


 セドはしばらく黙っていた。


 それから、静かに頷く。


「分かりました」


「反対しないんだ」


「反対する理由がありません」


「君なら、効率が悪いって言うかと思った」


「効率は悪いです」


「言うんだ」


「ですが、必要です」


 セドは淡々と言う。


「ルイス様が必要とされる王を目指すなら、誰かに用意された答えだけでは足りません」


 その言葉は、深く胸に落ちた。


 必要とされる王。


 その言葉は、まだ遠い。


 けれど、もう空っぽの夢ではない。


 ロイドの店。


 ミラの技術。


 ダリオの金。


 そして、三十日という期限。


 すべてが、その言葉に繋がり始めている。


「じゃあ、僕は今日、書庫に行く」


「何を調べますか」


「王都の商業記録。魔道具の流通。あと、できれば下級魔石の扱いについて」


「王城の書庫に、どこまであるかは分かりません」


「それでもいい。まずは読めるものから読む」


「分かりました。必要な閲覧許可は整えておきます」


「ありがとう」


 ルイスは頷いた。


 そこでセドが、一つだけ付け足す。


「ただし、書庫にこもりすぎて普段の予定を崩さないでください」


「……分かってる」


「睡眠も削りすぎないでください」


「努力する」


「努力ではなく、守ってください」


 きっぱり言われて、ルイスは少しだけ笑った。


「君、こういう時だけ容赦ないね」


「こういう時こそ容赦しません」


「分かった。守るよ」


「お願いします」


 会話はそこで切れた。


 セドはいつものように一礼し、部屋を出ようとする。


 ルイスは、その背中に声をかけた。


「セド」


「はい」


「外のこと、任せる」


 セドは振り返らないまま、静かに答えた。


「お任せください」


 短い言葉。


 それだけで十分だった。


 


 午前の座学は、いつもより長く感じた。


 教師の声が遠い。


 内容が頭に入らないわけではない。


 むしろ、以前よりも一つ一つの言葉が引っかかる。


 税。


 流通。


 王都と地方の物価差。


 商業組合。


 貴族の保護。


 以前なら、教科書の中の言葉だった。


 けれど今は違う。


 それらは、ロイドの店を潰すものにも、救うものにもなる。


 座学が終わると、ルイスはすぐに書庫へ向かった。


 王城の書庫は静かだった。


 高い棚。


 古い紙の匂い。


 窓から差し込む光。


 ここには、王国が積み上げてきた知識が眠っている。


 けれど、その知識は誰かが開かなければ、ただの紙の束だ。


「……まずは、商業組合」


 ルイスは背伸びして棚から一冊の本を取った。


 重い。


 思っていたよりずっと。


 机に運び、開く。


 文字が細かい。


 言葉も硬い。


 すぐに理解できるものではなかった。


「……分かりにくい」


 思わず呟く。


 読み進める。


 戻る。


 また読む。


 別の本を開く。


 単語が分からない。


 その単語を調べる。


 また戻る。


 思っていたより、ずっと遅い。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 分からないことが、少しずつ形になっていく。


 ロイドの店がなぜ弱いのか。


 仕入れがなぜ苦しいのか。


 商業組合に頼りすぎると、なぜ身動きが取れなくなるのか。


 魔道具がなぜ高いのか。


 魔石の欠片が、なぜ流通からこぼれるのか。


 全部は分からない。


 けれど、線が見え始める。


「……そっか」


 ルイスは小さく呟いた。


「高いから売れないんじゃない。売れない形でしか流れてないんだ」


 その瞬間、足元の影がわずかに揺れた。


 ルイスは目だけを動かす。


 誰もいない。


 書庫の奥。


 棚の影が、少し濃い。


 そこに、ノクスの気配があった。


「……ノクス?」


 声を抑えて呼ぶ。


 返事はない。


 けれど、頭の奥に、静かな声が落ちた。


 ――見つけるのね。


「何を?」


 ――道を。


 ルイスは眉を寄せる。


「答えは教えてくれないんだね」


 ――選ぶのは、あなた。


「……そうだった」


 思わず苦笑する。


 ノクスはいつもそうだ。


 答えをくれない。


 ただ、選べと言う。


 突き放しているようで、見捨ててはいない。


「じゃあ、見つけるよ」


 小さく言って、ルイスは再び本へ視線を落とした。


 読む。


 書き写す。


 考える。


 また読む。


 気づけば、窓の光は傾いていた。


 


 夜。


 人目を避けた訓練場。


 王城の奥にある、普段は使われない小さな場所だ。


 月明かりだけが石床を照らしている。


 そこに、ルイスとセドが向かい合っていた。


「本当にやるの?」


 木剣を握りながら、ルイスが聞く。


「やります」


 セドは即答した。


「昼間の稽古では、ルイス様は本気を出せません」


「出せないというか、出さない方がいいんだよね」


「はい」


「だから夜にやる」


「はい」


「……分かってるけど、なんか悪いことしてるみたいだ」


「実際、褒められたことではありません」


「そこは否定してほしかったな」


「嘘になります」


 セドは木剣を構える。


 その瞬間、空気が変わった。


 昼間の従者ではない。


 親しい幼馴染でもない。


 今ここにいるのは、ルイスを鍛える相手だ。


「まず確認します」


「うん」


「今のルイス様は弱いです」


「……最初から刺してくるね」


「必要ですので」


「分かってる。でも、言われると痛い」


「痛みを覚えてください」


 セドは淡々と言った。


「昼間、笑われてもいい。未熟に見られてもいい。ですが、本当に弱いままでは意味がありません」


「うん」


「表では昼行燈。裏では鍛える」


「……うん」


「それを続けます」


 ルイスは木剣を握り直した。


「分かった。やる」


「では、来てください」


 言われて、ルイスは踏み込んだ。


 木剣を振る。


 セドは軽く受ける。


 それだけで、腕に衝撃が返ってきた。


「っ……!」


「力が上に逃げています」


「分かってる!」


「分かっているなら直してください」


「簡単に言わないでよ!」


 もう一度踏み込む。


 今度は足を意識する。


 だが、セドは一歩ずれるだけで避けた。


 木剣が空を切る。


 次の瞬間、軽く脇を叩かれた。


「痛っ……!」


「相手を見すぎです」


「見ないと分からないだろ」


「見すぎれば誘導されます」


「難しいな……!」


「難しいです。だから訓練します」


 何度も打ち込む。


 何度も弾かれる。


 足がもつれる。


 息が上がる。


 肩が重くなる。


 けれど、セドは止めない。


「もう一度」


「……まだ?」


「はい」


「少し休ませて」


「十秒」


「短い!」


「五秒にしますか」


「十秒でいい!」


 ルイスは息を荒くしながら、それでも木剣を構え直した。


 弱い。


 悔しいほどに弱い。


 昼間なら、適当に崩れるふりをすれば済んだ。


 でもここでは、誤魔化せない。


 セドの前では、全部見抜かれる。


「……悔しいな」


 小さく漏れる。


「何がですか」


「自分で決めたのに、体がついてこない」


「当然です」


「そこは励ましてよ」


「励ましています」


「どこが?」


「当然だから、続ければ変わります」


 セドは静かに言った。


「才能がない、という話ではありません。まだ足りないだけです」


 ルイスはその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。


「……まだ、か」


「はい」


「じゃあ、続ける」


「そのための夜です」


 次の打ち込みは、さっきより少しだけ鋭かった。


 それでもセドには届かない。


 だが、完全に無駄ではなかった。


「今のは少し良いです」


「本当?」


「少しだけです」


「少しでもいい」


 ルイスは笑う。


 汗で髪が額に貼りついている。


 息は乱れている。


 でも、目は死んでいない。


 その後も、剣を振った。


 腕が上がらなくなるまで。


 足が震えるまで。


 セドがようやく木剣を下ろした時、ルイスはその場に座り込んだ。


「……きつい」


「当然です」


「今日は当然ばっかりだね」


「事実が多い日ですので」


「セドって、たまにすごく嫌なこと言うよね」


「必要なことです」


 ルイスは笑った。


 苦しいのに、少しだけ楽しかった。


 自分が何かを積み上げている感覚があったからだ。


 だが、訓練はそれで終わりではなかった。


「次です」


「……次?」


 ルイスが顔を上げる。


 セドは足元を見た。


「ノクスを呼んでください」


 空気が変わる。


 ルイスの表情も、少しだけ引き締まった。


「……ここで?」


「人目はありません」


「でも、制御できるか分からない」


「だから確認します」


 セドの声は冷静だった。


「出すのではなく、呼ぶだけです」


 ルイスは唇を引き結んだ。


 そして、足元の影を見る。


 月明かりの下。


 自分の影が、長く伸びている。


「……ノクス」


 静かに呼ぶ。


 返事はない。


 だが、影が揺れた。


 黒が濃くなる。


 水のように、静かに沈む。


 ルイスの背筋に冷たいものが走った。


 怖い。


 でも、逃げない。


「ノクス」


 もう一度呼ぶ。


 今度は、気配がはっきりした。


 女の姿。


 完全ではない。


 輪郭だけ。


 黒い髪。


 夜に溶ける衣。


 表情の読めない目。


 セドがわずかに体勢を変える。


 守る準備だ。


 ノクスは何もしない。


 ただ、ルイスを見ていた。


 ――呼んだのね。


 声が、頭の奥に落ちる。


「……うん」


 ルイスは答える。


「呼ぶだけ、だけど」


 ――それでいい。


「教えてくれる?」


 ――何を。


「君をどう扱えばいいのか」


 ノクスは沈黙した。


 風もないのに、影だけが揺れる。


 ――扱うものではない。


 短い答え。


 ルイスは目を伏せた。


「……そう言うと思った」


 ――私は道具ではない。


「分かってる。でも、僕は何も分からない」


 声が少しだけ強くなる。


「君が何なのか。どうして僕と契約したのか。王族の光と何が違うのか。何も分からない」


 ノクスは答えない。


「それでも隠さなきゃいけない。出したら危ない。頼りすぎても危ない。拒んでも駄目」


 ルイスは苦笑した。


「難しすぎるよ」


 ――選ぶ者に、易しい道はない。


「……またそれか」


 少しだけ肩の力が抜ける。


「じゃあ、選ぶよ」


 ルイスは影を見る。


「今は使わない。君を武器にしない。だけど、いないことにはしない」


 ノクスの輪郭が、ほんの少しだけ揺れた。


「それでいい?」


 ――今は。


 短い答え。


 だが、初めて少しだけ肯定された気がした。


 影が薄くなる。


 ノクスの姿が消えていく。


 最後に、声だけが残った。


 ――学びなさい。剣も、知識も、痛みも。


 ルイスは目を閉じた。


「……分かった」


 影は元に戻った。


 訓練場には、ルイスとセドだけが残る。


 しばらく、どちらも黙っていた。


 先に口を開いたのは、セドだった。


「会話は成立していますね」


「うん。成立してる、と思う」


「危険は?」


「分からない。でも、敵意は感じない」


「なら、今は十分です」


 セドはそう言った。


 ルイスは座り込んだまま、夜空を見上げる。


「……やること、多いね」


「はい」


「剣も足りない。精霊も分からない。勉強も足りない。商会は動き出す。ロイドさんもミラさんもダリオもいる」


「はい」


「普通なら、無理だって言われるよね」


「言われるでしょう」


「セドは?」


「無理だとは思いません」


 即答だった。


「難しいとは思います」


 ルイスは小さく笑う。


「そこはちゃんと言うんだね」


「必要ですので」


「……うん」


 ルイスはゆっくり立ち上がった。


 足がまだ震えている。


 腕も重い。


 でも、不思議と気持ちは沈んでいなかった。


「表では、何もしてないと思われる」


 ぽつりと言う。


「精霊もない。剣も弱い。勉強もそこそこ。昼行燈の王子」


「はい」


「でも、それでいい」


 ルイスは木剣を拾う。


 もう一度、軽く握る。


「その間に、僕は積み上げる」


 セドは静かに頭を下げた。


「そのために、私がいます」


「うん」


 ルイスは頷いた。


「頼りにしてる」


「はい」


「でも、全部任せきりにはしない」


 その言葉に、セドがわずかに顔を上げる。


「外は君に任せる。商会も、交渉も、裏の動きも」


「はい」


「でも、僕自身の力は僕が積み上げる」


 ルイスはまっすぐ言った。


「剣も、知識も、ノクスとの向き合い方も」


 夜風が訓練場を通り抜ける。


 汗が冷える。


 体は疲れている。


 それでも、言葉は揺れなかった。


「僕は、表に出ない」


 静かに言う。


「でも、止まらない」


 セドはその言葉を受け止めた。


 そして、静かに頷く。


「それでこそ、私の主です」


 ルイスは少しだけ笑った。


 疲れた顔。


 でも、確かに前を向いた顔。


「……明日もやる?」


「当然です」


「少しは優しくしてくれる?」


「必要があれば」


「ないって言うんでしょ」


「はい」


「だと思った」


 二人の間に、ほんの少しだけ柔らかい空気が流れた。


 だが、その奥にあるものは軽くない。


 三十日。


 商会。


 剣。


 精霊。


 知識。


 必要とされる王になるための道は、思っていたよりずっと険しい。


 それでも。


 ルイスはもう、立ち止まらない。


 王城の中で何もしていないように見えるなら、それでいい。


 むしろ、それがいい。


 誰も知らない場所で。


 誰にも見えない時間に。


 静かに積み上げる。


 笑われる王子のまま。


 昼行燈の仮面を被ったまま。


 けれど、その影で。


 ルイス・エル・ゾディアックは、確かに変わり始めていた。

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