海上空港非常線 第65話 消えた機長バッグ、偽りのフライトプラン ― コックピット・ゴースト
海上空港の運航管理室には、旅客ロビーのような華やかさはない。
土産物の匂いもない。
出発前の笑い声もない。
あるのは、時刻、天候、機材、燃料、乗員、搭乗率、遅延リスク――空を飛ばすための数字だけだった。
そこは空港の頭脳だった。
その朝、中堅LCCの機長から一本の連絡が入った。
「フライトバッグが見当たらない」
最初は、単なる紛失に見えた。
だが、そのバッグには運航資料、代替飛行計画、燃料計算、機材情報、乗員資料が入っていた。電子化が進んだ時代でも、紙の資料はまだ残る。紙だからこそ、差し替えられる。紙だからこそ、偽装される。
玲奈は報告を聞き、短く言った。
「偶然やない」
梓も監視映像を確認しながら頷いた。
「黒鷹が運航混乱を狙っている可能性があります」
爆破ではない。
暗殺でもない。
だが、偽のフライトプランが紛れれば、便は遅れる。ゲートは変わる。乗客は溢れる。連鎖的に空港全体が詰まる。
黒鷹らしい、静かで陰湿な攻撃だった。
今回の前線は、春日美咲と氷室梓。
美咲は運航管理補助として潜入した。
地味な制服。控えめな名札。静かな声。
運航管理室に入った瞬間、美咲はそこに溶け込んだ。
「こちらの資料、確認します」
最初、職員たちは臨時補助員だと思っていた。
コピー取り、書類整理、連絡伝達。せいぜいその程度だろうと。
だが、三十分後には空気が変わっていた。
「機材変更後の燃料計算、確認しました」
「え?」
「代替便の搭乗率調整も反映済みです」
「ええ?」
「この便、到着機材が七分遅れています。搭乗開始を二分後ろへずらせば、ゲート混雑は避けられます」
運航管理者が思わず手を止めた。
「春日さん……本当に臨時?」
美咲は少しだけ首を傾げる。
「勉強中です」
彩香はモニター越しに唖然としていた。
「美咲、何者やねん……」
玲奈も珍しく感心したように言う。
「実務能力が高すぎるな」
一方、梓は監視室で映像を切り分けていた。
運航管理室の入口、清掃導線、職員通路、貨物側の裏口。
「バッグは盗まれたというより、運ばれています」
「運ばれた?」
彩香が聞く。
梓は映像を止める。
「清掃カートです。バッグそのものを隠すには小さいですが、書類を抜き、偽書類を入れるには十分です」
美咲は運航管理室から静かに答える。
「清掃導線なら、運航管理室の裏へ入れます」
二人の会話は短い。
無駄がない。
派手さもない。
だが、確実だった。
まるで昭和の警備ドラマのように、乗客には何も知らせず、空港の裏側で静かに事件を処理していく。
やがて、美咲は一枚の飛行計画書に目を止めた。
「これだけ、作成端末が違います」
職員が覗き込む。
「……本当だ」
美咲は続ける。
「燃料計算値も微妙に違います。危険な数値ではありません。でも、このままだと再確認で出発が遅れます」
梓が映像を拡大する。
「偽計画書を持ち込んだ人物、特定しました」
画面には、清掃スタッフに扮した男。
だが、清掃カートの扱いが雑だった。職員のように見せているが、動きが違う。
玲奈の声が落ちる。
「閉じろ」
工作員は貨物側通路へ逃げた。
だが、梓はすでに逃走経路を読んでいた。
「右側通路は塞いでください。左へ逃げます」
里緒が空港警察へ連絡する。
「通常確認として動いてください。旅客側には出さないで」
彩香が現場へ出る。
「あかり、最後だけや」
「はい!」
その間、美咲は運航管理室で偽データを排除していた。
本物のフライトバッグから抜かれた資料は、清掃カートの奥で見つかる。美咲は正規資料と突き合わせ、便の出発処理を復旧する。
「正規フライトプラン、戻します」
その声に乱れはなかった。
工作員が貨物エリアへ出ようとした瞬間、彩香が前に立った。
「終わりや」
男が逃げようとする。
そこへあかりが飛び込む。
「確保です!」
短い制圧。
騒ぎは外へ漏れない。
機長のバッグは回収された。
偽のフライトプランは破棄された。
便は定刻通りに搭乗を開始した。
搭乗口の乗客は、何も知らない。
「まもなくご搭乗を開始いたします」
いつも通りのアナウンス。
いつも通りの列。
いつも通りの空。
それが、この任務の勝利だった。
任務後、運航部長は美咲を本気の目で見た。
「春日さん、うちに来ませんか」
美咲は瞬きをする。
「え?」
「正直、普通に欲しいです。運航管理の補助どころか、即戦力です」
周囲の職員も頷く。
「本当に臨時なんですか?」
「航空会社で働いてましたよね?」
「端末操作、覚えるの早すぎます」
美咲は困ったように小さく答えた。
「勉強になりました」
彩香は完全に脱帽していた。
「駅員、税関、リネン、今度は運航管理か。美咲、もう空港丸ごと働けるやん」
玲奈も静かに言う。
「現場を任せられる人材やな」
梓も珍しく、美咲を正面から評価した。
「判断が正確でした。連携しやすかったです」
美咲は少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
海上空港は、今日も何事もなかったように便を飛ばす。
乗客は知らない。
その一便の裏で、黒鷹が空港の頭脳に手を入れようとしていたことを。
春日美咲と氷室梓。
物静かな二人が、声を荒げることなく、乗客に気づかせることもなく、偽りのフライトプランを消した。
空は、予定通り動いた。
それが、二人の勝利だった。




