海上空港非常線 第20話 小さな手を守る警戒線 ― ハートフル・ターミナル
連休最終日の海上空港は、疲れた人間の匂いがした。
出発ロビーには、まだこれから旅に出る者の浮ついた声が残っている。だが到着ロビーは違う。帰ってきた家族連れ、眠そうな子ども、荷物を抱えて足早に出口へ向かう父親、遅延便の案内を見上げてため息をつく母親。空港という場所は、旅立ちの顔と帰還の顔を同時に持っている。特に連休最終日は、後者の色が濃かった。
海上空港の仮設詰所で、玲奈はモニターを見ていた。
「到着ロビー、混んどるな」
彩香が腕を組んで言う。
「家族連れが多い。こういう日は、混乱を作りやすい」
玲奈の声はいつも通り低い。
冷たいわけではない。ただ余計な熱を持たない。
「黒鷹が動くなら、こういう日や」
美音が端末を操作しながら答える。
「案内カウンター、空港警察、手荷物受取、船着き場方面の導線が全部混ざっています。小さなトラブル一つで、人員が散ります」
「つまり、迷子騒ぎか」
彩香が舌打ちした。
「趣味悪いな」
その言葉に、白浜麻衣の表情がほんの少しだけ硬くなった。
子どもを使う。
それだけで、麻衣の中の何かが静かに燃える。
隣に立つ真砂里緒が、麻衣の顔を見た。
「麻衣ちゃん、行こう」
明るい声ではない。
だが、柔らかい。
空港警察署からNSTに補強された里緒は、もうこの詰所の空気に馴染み始めていた。25歳。若手メンバーより少し年上で、警察官としての責任感もある。けれど偉ぶらない。誰に対しても目線を合わせる。
麻衣は小さく頷いた。
「はい」
玲奈は二人を見た。
「麻衣は子ども。里緒は現場全体。役割を分けろ」
「了解です」
里緒が返す。
麻衣も静かに言った。
「子どもは、怖がらせません」
その声はやさしい。
だが、芯は固かった。
到着ロビーは、人で溢れていた。
ベビーカー。キャリーケース。ぬいぐるみを抱いた子。旅行疲れでぐずる子。
大人たちはスマートフォンで移動手段を調べ、子どもはその足元をすり抜けようとする。
麻衣はその中に入った瞬間、すぐに違和感を拾った。
泣き声。
それ自体は珍しくない。
だが、その泣き声は“迷った子”の泣き方ではなかった。
怖がっている。
麻衣はすぐに声の方へ向かった。
小さな男の子が、柱の近くで立ちすくんでいた。年齢は四、五歳ほど。手には小さな恐竜のキーホルダー。目には涙が溜まっているが、大声で泣くこともできないくらい固まっていた。
麻衣は走らない。
急に近づけば、子どもはもっと怖がる。
ゆっくりしゃがむ。
「大丈夫やよ」
やわらかな紀州の響き。
「お姉ちゃん、ここにおるからな」
男の子は唇を震わせた。
「ママ……」
「うん。ママ探そな。お名前言える?」
麻衣は目線を合わせたまま、手を出さない。
先に安心させる。
それが彼女のやり方だった。
少し離れた場所で、里緒がすぐに動いていた。
「迷子対応、到着ロビー中央。男児一名。保護者確認をお願いします」
空港警察官としての声。
明るい普段の里緒とは違う。
柔らかいが、指示は速い。
「案内カウンター、船着き場方面、手荷物受取、各所確認を。母親が動いている可能性があります。焦らせないでください」
里緒は同時に、周囲の大人にも声をかけた。
「すみません、通路を少し空けてください。お子さんが不安になっています」
強制ではない。
だが、警察官の制服と落ち着いた声に、人の流れが自然にほどける。
麻衣は男の子の手元のキーホルダーを見た。
「恐竜好きなん?」
男の子が小さく頷く。
「うん……」
「強そうやなあ。でも、今はちょっと休憩しよか」
麻衣は微笑む。
「お名前、教えてくれる?」
男の子はかすれた声で答えた。
「はると……」
「はるとくんやね。大丈夫。はるとくん、よう頑張ってるよ」
その言葉で、男の子の涙がぽろっと落ちた。
麻衣はその涙を見ても、慌てない。
「泣いてええよ。怖かったもんな」
その瞬間、男の子の体が少しだけ緩んだ。
だが、麻衣の目は同時に別のものを見ていた。
はるとがいた場所。
到着ロビー中央の柱。
普通の迷子なら、親とはぐれた場所からそう遠くないところにいる。
だが、この子は人の流れから少し外れた、不自然な位置に立っていた。
誰かが誘導した。
麻衣はそう感じた。
「里緒さん」
小さく呼ぶ。
里緒はすぐに近づいた。
「この子、ここまで自分で来た感じじゃないです」
里緒の表情が変わる。
「誰かに移動させられた?」
「たぶん」
里緒は周囲を見る。
不審者を探す目ではない。
人の流れを見る目だった。
「分かった。麻衣ちゃんはその子についてて」
「はい」
里緒は空港警察側へ通信を入れる。
「迷子案件を陽動の可能性ありとして扱います。ただし通常対応に見せてください。利用客には悟らせない」
その指示を聞いた彩香が、インカム越しに低く言った。
「里緒さん、ええ判断や」
玲奈も短く返す。
「そのまま流れを保て」
黒鷹の動きは、そこで見えてきた。
迷子騒ぎで案内カウンターと空港警察の人員を引き寄せる。
その隙に、制限区域近くの業務通路で小型端末を受け渡す。
端末には、空港警察と保安スタッフの臨時配置情報が入っていた。
「本命、到着ロビー西側」
美音が端末を見ながら報告する。
「スタッフ通路前、人が薄くなっています」
「美咲」
玲奈が呼ぶ。
「見ています」
静かな返答。
「迫田ツインズ、左右」
「了解」
「了解」
「あかり、最後だけや。先走るな」
彩香が強く言う。
「分かってます!」
「あんたの分かってますは信用ならん。里緒さんの合図まで動くな」
「里緒さんの合図なら分かります!」
「なんで私の指示は分からんねん!」
里緒が一瞬だけ笑いをこらえた。
その余裕が、現場の空気を少しだけ柔らかくした。
はるとの母親は、まだ見つかっていなかった。
男の子は麻衣の袖を握っていた。
「ママ、怒る?」
「怒らへんよ」
麻衣はすぐ答えた。
「ママは心配してるだけや。はるとくんが無事なら、それでええんよ」
「ほんま?」
「ほんま」
麻衣は、空港の騒がしい音を背中に受けながら、男の子の前では笑顔を崩さなかった。
だが、その背中は壁だった。
もし黒鷹がこの子をまた利用しようとしたら、絶対に通さない。
小柄な身体。童顔。
見た目は頼りないかもしれない。
だが、子どもを守る時の白浜麻衣は、大きく見えた。
里緒は警察官として、状況を組み立てていた。
「母親は手荷物受取側にいる可能性が高いです。子どもが中央柱まで移動しているなら、親の視界を遮るタイミングで誰かが声をかけたはず」
「その誰かが陽動役か」
彩香が言う。
「はい。でも本命は別です」
里緒は周囲を見た。
「不安を作る人間と、物を動かす人間。分かれています」
玲奈が小さく頷いた。
「見立ては合っとる」
里緒の声は落ち着いていた。
「麻衣ちゃんが子どもを安心させてくれているので、こちらは全体を見られます」
その言葉を聞いて、麻衣はほんの少しだけ照れた。
だが目の前の子どもからは離れない。
本命が動いた。
到着ロビー西側。
業務通路の手前。
黒いジャケットの男が、スマートフォンを確認するふりをしながら立つ。
その横を、清掃スタッフ風の女が通り過ぎる。
一瞬の受け渡し。
だが、その一瞬の前に里緒が動いた。
「すみません。こちら通路確保のため、少しお下がりください」
警察官として自然に近づく。
男の動きが止まる。
その間に、美咲が背後に立つ。
迫田ツインズが左右を塞ぐ。
あかりが合図を待つ。
里緒が男の手元を見た。
「今です」
その一言で、彩香が叫ぶ。
「あかり!」
「はい!」
あかりが飛び込む。
今回は無駄に早くない。
親子連れが抜けた後、ちょうどいい角度で入る。
男の手首を押さえ、端末が床に落ちる前に掴む。
「確保です!」
任務完了。
数分後、はるとの母親が見つかった。
母親は泣きながら走ってきた。
「はると!」
男の子は麻衣の袖を離して、母親に飛びついた。
「ママ!」
母親は何度も麻衣と里緒に頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました……!」
里緒は警察官として穏やかに答える。
「無事でよかったです。今後は少し落ち着いてから移動してくださいね」
麻衣は男の子にしゃがんで声をかけた。
「もう大丈夫やね。恐竜さんも一緒や」
はるとは涙の跡が残る顔で頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
麻衣は笑った。
「どういたしまして」
任務後、仮設詰所に戻ると、空気は少しだけ温かかった。
彩香が里緒に言う。
「今日は助かりました。麻衣の動きも生きたし、あかりも暴走せんかった」
あかりが胸を張る。
「里緒さんの合図、分かりやすかったです!」
彩香が即座に言う。
「私の合図も分かれや」
「彩香さんのは怖いんですよ」
「怖いから分かるやろ!」
里緒が笑う。
「彩香さんの指示も的確ですよ。あかりちゃんが緊張しすぎるだけで」
「里緒さん、もっと言ってください!」
「調子乗るな」
そのやり取りに、玲奈の口元がわずかに緩む。
里緒は麻衣の隣に立った。
「麻衣ちゃん」
「はい?」
「麻衣ちゃん、幼稚園教諭志望でしょ?」
「はい」
里緒は優しく笑った。
「絶対ええ先生になると思うよ」
麻衣は目を丸くした。
「ほんまですか?」
「うん。子どもが安心する顔、ちゃんとできる人やもん」
その言葉に、麻衣の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます……!」
素直な喜びだった。
任務で褒められた時とは、少し違う表情。
玲奈が静かに言った。
「守る形が違う二人やな」
彩香も頷く。
「麻衣は子どもを守る。里緒さんは現場を守る。ええコンビや」
麻衣は少し照れて、里緒は穏やかに笑った。
海上空港の夜は、またいつもの顔に戻っていた。
到着ロビーには次の便の旅客が流れ、案内放送が穏やかに響く。
誰も知らない。
ひとりの子どもが利用されかけたことも、その小さな手が守られたことも。
だが、それでいい。
海上空港非常線。
第20話の警戒線は、銃声でも怒号でもなく、やさしい声と責任感で引かれた。
白浜麻衣。
真砂里緒。
小さな手を守るために、二人はそれぞれの場所で強かった。




