黒い証書は恋を喰う 第8話 ピラニアは恋を知らない
水野亮介は、岡本玲奈の名前が表示されたスマートフォンを、しばらく裏返したまま見つめていた。
画面はもう暗い。
それでも、そこにさっきまで彼女の名前があったことだけが、妙に鮮明に残っている。
次、いつ会える?
たったそれだけの文面だった。
軽い。明るい。恋に浮かれた女の言葉でもなければ、重たい確認でもない。
けれど亮介には、その短さの方がきつかった。玲奈は自分を疑っていない。疑う必要すら感じていない。亮介が少し黙れば忙しいのだと思い、笑えば安心し、差し出された理屈をそのまま信じる。男慣れしていない女ほど厄介だと、亮介は知っていた。だが玲奈は、それだけではない。信じ方が、あまりにまっすぐすぎた。
神戸支店の朝は今日も異様だった。
ロビーのガラスケースの中で金の延べ棒が照明を受け、いかにも“本物”の顔をしている。そのすぐ奥では、営業マンたちが濃紺のスーツ姿で一列に並び、眠気と恐怖を抱えたまま怒号を待っていた。
亮介はその先頭に立つ。
「俺たちは何や」
声は低いが、空気を裂くようによく通る。
「ピラニア軍団です!」
怒鳴るような唱和。
「ピラニアはどうする」
「食らいついた獲物は絶対に離しません!」
「迷った客は?」
「押して押して押し切ります!」
亮介は一人ずつ視線を走らせる。
昨日まで一緒に酒を飲んでいた部下も、今は数字でしかない。成績下位の若い営業が目を逸らした瞬間、亮介は足を止め、その胸倉を掴んで壁へ叩きつけた。
「情けを持つな」
顔を寄せる。
「年寄りの不安は、こっちの数字や。お前が躊躇った分だけ、向こうの生活はどうでもよくなる。そういう仕事やと、何回言わせる」
若い営業は青ざめて何度も頷く。
亮介は手を離し、何事もなかったように次の数字を読み上げる。
その顔に、玲奈の前で見せる柔らかさは一片もない。
だが朝礼が終わり、誰もいない会議室に一人残ると、亮介は深く息を吐いた。
会議机の上には、支払遅延の報告、解約申し込みの山、広告費名目の送金一覧。会社はもう長くない。新規資金で配当を繋ぎ、解約を引き延ばし、帳尻を合わせるだけの自転車操業。表向きはまだ笑っているが、内側は腐っている。亮介はその匂いに慣れきっていた。だからこそ分かる。日協商事は近いうちに沈む。
会長室へ呼ばれたのは、その直後だった。
田宮宗一郎は、いつものように高そうなスーツでソファにふんぞり返り、港の方角を眺めていた。机の上には海外送金用の書類と、政治関連のダミー団体名が並ぶ。黒鷹、元県知事側、選挙ブレーン、警備会社――兵庫の混乱に群がる名が、紙の上で繋がっている。
「まだまだ足りん」
田宮は書類から顔も上げずに言った。
「何がです」
「金に決まっとる。会社が傾いてる時ほど、入る金が要る。常識や」
亮介は黙る。
田宮がようやく笑った。
「お前のところの“警部補さん”から、もっと引けるやろ」
その言い方だけで、亮介の胸の奥がざらついた。
「……あれは慎重な相手です」
「慎重? 惚れた女ほど簡単なもんはない」
田宮は薄く笑う。
「警察だろうが何だろうが、女は女や。落とせる時に落とし切れ。金を出させろ。ついでに情報も引けたら上出来や」
亮介は返事をしなかった。
できなかった。
田宮の言うことは、今までなら正しかった。実際、亮介はそうやって生きてきた。女を落とし、金を引き出し、別れ際の涙すら営業経費に変えてきた。離婚歴二回。慰謝料。ギャンブル。父の借金。障害を抱えた子の治療費。必要な金はいつだって山ほどあった。だから女など、引き出せるだけ引き出せばいい。そう思ってきた。
玲奈だけが、違った。
きっかけは顔だったのかもしれない。
だが今、亮介を苦しめているのは、あの冷たい美貌ではない。
玲奈が見せる、ほんの少し遅れて緩む口元。
仕事の話をする時だけ妙に低くなる声。
恋をしているくせに、恋に慣れていないことを隠しきれないぎこちなさ。
そして何より、一度信じたらまっすぐにこちらを見る、あの目だ。
亮介は玲奈を“案件”として落とした。
その自覚は消えない。
玲奈から金を引き出した時も、やろうと思えば平然としていられた。
だが、その後で玲奈のメッセージを見るたび、自分がどこまで腐っているのかを思い知らされる。
他の女なら切れた。
他の客なら次に行けた。
玲奈だけは、切れない。
切り方が分からない。
その日の夜、亮介は玲奈に会った。
旧居留地のはずれの、灯りを落としたバー。
玲奈はいつもより少しだけ柔らかな服を着ていて、椅子に座る時の仕草まで女らしかった。
警部補でも、NSTのボスでもない。
ただ一人の恋する女が、そこにいた。
「忙しかった?」
玲奈が聞く。
「少し」
「顔が疲れてる」
「あなたに言われると堪えますね」
玲奈は小さく笑った。
その笑いを見て、亮介は思う。
田宮の命令どおり、もっと金を引き出すことはできる。
玲奈は今の自分を信じている。
だが、もうそれをやれば、自分の中で本当に何かが終わる。
亮介はグラスを持つ手に力を込めた。
この女はもう客ではない。
獲物でもない。
守りたい、などという綺麗な言葉では片づかない。
だが少なくとも、田宮の口から“あの女”と呼ばれた瞬間に、自分の中で何かが決定的に変わってしまった。
玲奈は何も知らず、亮介を見ている。
その視線は温かく、危うく、そして残酷なくらい無防備だった。
亮介は笑顔を作る。
詐欺師としてではなく、男として。
そうしてしまった時点で、もう負けなのだと知りながら。
夜の神戸は綺麗だった。
だがその光の下で、恋も会社も、音を立てずに崩れ始めていた。
ピラニアは恋を知らない。
亮介はずっとそう思ってきた。
だがもし知ってしまったのなら、その牙はもう昔のようには使えない。
問題は、使えなくなった牙で、この先どう生きるかだった。




