暴れる流れ、最後に決める一打 ― 灘クラッシュ・ライン
神戸市灘区。
海と山にはさまれたこの街には、独特の匂いがある。潮の気配に混じる、蒸した米と麹の香り。言うまでもなく、日本酒の街だ。酒蔵が並び、朝になれば仕込みの空気が動き出す。観光客には風情のある町に見える。だが、その整った流れの中には、外から見えにくい動線も多い。蔵、倉庫、搬出路、生活道路。灘は静かに物が動く街だった。
黒鷹はそこを使っていた。
酒樽、瓶箱、出荷用の木箱。
どれも“あって当然”のものばかりだ。その流れに違法物資を紛れ込ませ、小刻みに移し替える。派手さはない。だが、一度流れに乗れば見分けはつかない。静かな酒造りの街に、静かな犯罪を走らせる。嫌なやり口だった。
「今回は、あかりや」
玲奈の声が落ちた。
「え、ウチですか?」
「そうや。走れる、飛べる、勘もある。問題は頭だけやけどな」
彩香が横から切り捨てる。
「ひどないですか!?」
だが、それも事実だった。
山本あかりには、異様な身体能力がある。反応、加速、瞬発、切り返し、無茶な姿勢からでも立て直すバランス。粗削りだが、持っているものは大きい。ファイブツールプレーヤー。トリプルスリーを達成したプレーブスのイケメン外野手の蓑田浩二みたいな女だと、彩香は内心で認めていた。問題は、そういう天賦の才を持った人間にありがちな“余計なことも全部やる”ところだった。
「外すなよ」
彩香が言う。
「今回は酒蔵の搬出路や。見誤ったら全部抜かれる」
「分かってますって」
その“分かってます”が信用ならないのも、いつも通りだった。
灘の酒蔵通りは、朝から空気が張っている。
仕込みの時間、人の動き、搬出の時間帯。どれも規則正しい。美咲が路地裏へ回り、麻衣が見学客の流れを整え、双子が受け渡しの継ぎ目を探る。美音は搬出タイミングを読み、あおいが上からルートのズレを拾う。
その中を、あかりは動いた。
(あれやな)
最初の見立ては悪くなかった。
視線は速い。足も出る。箱の持ち方の癖、台車の止め方の違和感、そういう小さなズレを拾う感覚は確かにある。
だが――
「こんにちはー!今日は“灘の酒造り”をお届けしまーす!」
嫌な声が、最悪のタイミングで入ってきた。
三好さつき。
神戸放送の情報番組レポーター。長い黒髪、上品な立ち居振る舞い。灘の町並みによく似合う。似合いすぎて、余計に邪魔だった。
そして、さつきは迷いなくあかりを見つけた。
「あかりちゃーん!」
「うわっ」
「あれ、何してるん?」
カメラが寄る。
マイクが向く。
普通なら逃げるところだ。
だが、あかりは気のいい女だった。
「いやぁ、ちょっと見学みたいな感じで」
「そうなんや! 灘のお酒ってどう?」
「ウチのパパ、日本酒大好きなんですよね〜」
――始まった。
「毎晩晩酌してますよ。なんか“今日は辛口や”とかよう分からんこと言うてますけど、めっちゃ嬉しそうなんですわ」
「へぇ〜、いいですねえ」
「うちのママは“飲みすぎ”って怒ってますけど、パパ全然やめへんのですよ」
完全に取材モードだった。
気持ちよく喋っている。
そして時間だけが失われていく。
彩香がインカムの向こうで呟く。
「……あのアホ……」
声が低い。
かなり危ない。
「今すぐ黙らせたい」
「待て」
玲奈が止める。
だがその間にも、黒鷹のラインは半拍、ズレて動く。
(まずい)
誰もがそう思った。
その時だった。
さつきのカメラが少し右へ振れた。
そこに映った一つの荷車。見学客の流れに紛れた、不自然に速い動き。
あかりの目が変わる。
「……あれや!」
取材をぶった切って走り出した。
「え、ちょ、あかりちゃん!?」
さつきの声を置き去りにする。
速い。
とにかく速い。
荷車の前に滑り込み、相手の進路を潰す。
そのまま一人を追えばいいのに、途中で急に壁を蹴って高く跳ぶ。二段の階段をまとめて越え、横道へ逃げたもう一人の影を視界に入れる。
「なんやそれ……」
あおいが上から呟く。
「人間か?」
あかりは止まらない。
一人目の荷車を足で払って転倒させ、二人目の肩口へ回り込んで進路を切る。三人目が裏手から抜けようとすると、反射で振り向き、そのまま積まれた酒箱の脇をすり抜けて追いつく。身体能力だけで場面をひっくり返していた。
「今や!」
彩香が叫ぶ。
双子が閉じる。
美咲が影から締める。
麻衣が見学客の流れを自然に逸らす。
一気に収束した。
取材で空いた数分。
その損失を、あかりは身体能力だけで強引に取り返した。
息を切らしながらも、本人は妙に晴れやかだった。
「いやー、危なかったですね!」
「お前が言うな」
彩香の声が飛ぶ。
だが、そこで少しだけ間を置いた。
「……でも、今のはようやった」
珍しい言い方だった。
あかりがぱっと顔を上げる。
「ほんまですか!?」
「壁蹴ったとこはアホやと思たけど、結果オーライや」
「やっぱりウチ、やればできる子なんですよ!」
「調子乗るな」
そう言いながらも、彩香は完全には否定しなかった。
蓑田浩二みたいな女だと、改めて思う。何をやるか分からない。危うい。だが、ああいう一瞬の試合を変える力は本物だ。
しかも、顔だけはやけに整っている。
そこもまた、妙に腹が立つ。
任務後。
酒蔵通りの外れで、さつきがまだ感心していた。
「あかりちゃん、あんな動けるんや……」
「いやー、まあ、ちょっとだけ」
照れたように笑う。
その瞬間だった。
足元に置いてあった酒蔵見学のパンフレット立てに、自分の踵を引っかけた。
「うわっ」
がしゃん、と派手な音を立てて倒す。
全員が止まる。
彩香が額を押さえた。
「お前って……」
もうそれ以上、言葉が続かなかった。
せっかく褒めた直後にこれだ。
最後まで締まらない。
やっぱりあかりは、あかりだった。
その光景を見ていた玲奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
誰も指摘しない。
だが彩香だけは、その変化を見ていた。
(……まあ、ええか)
灘の風は、酒の匂いを乗せて流れていく。
街はいつも通り、静かに物を動かし続ける。
その裏で、今日も一つのラインが断たれていた。
山本あかり。
粗くて、危なっかしくて、頭は少し足りない。
だが、流れをぶち壊し、最後に決める一打を持っている。




