見えない航路、音だけが残る ― 相生サイレント・ハーバー
相生市。
播磨灘に面した港町。造船の記憶が残る岸壁と、入り組んだ湾の地形が特徴だ。海は穏やかだが、音がよく通る。波の返り、係留ロープのきしみ、遠くのエンジン音――目で見えないものほど、耳に残る街だった。
黒鷹は、その“音”を使っていた。
小型船舶による分散輸送。レーダーに映りにくいコースを選び、夜間に短距離で荷を繋ぐ。さらにエンジン音を環境音に紛れ込ませ、追跡を難しくする。見えない航路。残るのは、わずかな音だけ。
「海は任せる。今回は美音に全面委任や」
玲奈の指示は明確だった。
「了解」
河合美音が短く応じる。
バイオレットのショートカットが、海風でわずかに揺れる。
遠州の勇者。
船舶免許、大型二輪、機械知識。すべてが高水準で揃っている。だが何より厄介なのは、“全部を普通にこなす”ことだった。感情の起伏が少なく、状況に飲まれない。海の任務において、これ以上適した人間はいない。
麻衣とあかりが、後方支援につく。
「音、拾う」
美音が呟く。
エンジンをかける。
低い振動。
波に溶ける。
港を出ると、すぐに“音の海”に入る。
遠くの船。近くの波。岸壁の反射音。
(……一つ、多い)
美音は、すぐに気づいた。
規則的すぎる低音。
環境音にしては、整いすぎている。
「……あれや」
針路をわずかに変える。
その時だった。
「美音さん、これから船で沖にお出かけですか~?」
最悪の声。
振り向かなくても分かる。
赤嶺美月。
CS放送の旅番組ロケ。
「乗せて~!」
当然のように言う。
完全に、場違い。
カメラも回っている。
スタッフもノリノリ。
(……無視)
美音は、視線すら向けない。
だが、このままでは厄介だった。
そこで動いたのが――あかり。
「美月さん!」
満面の笑顔で近づく。
「こっちの方が、めっちゃええスポットありますよ~!」
「え、ほんま?」
「はい!インスタ映え確実です!」
単純だった。
美月はすぐ食いつく。
「そっち行こ!」
そのまま引き離される。
麻衣が、さりげなく人の流れを整える。
ロケ班も一緒に流れる。
妨害、消失。
「ナイスや」
彩香の声。
「任しといてください」
あかりが軽く返す。
海は、静かに戻る。
美音は、すでにターゲットを捉えていた。
見えない。
だが、音はある。
一定の回転数。
波の返りと合わないリズム。
(逃がさん)
スロットルを開く。
加速。
水面を切る。
ターン。
美音の動きは、無駄がない。
浜名湖で鍛えた操船技術が、そのまま出る。
「速っ……」
あかりが思わず漏らす。
ターゲットが気づく。
逃げる。
だが、遅い。
美音は、すでに“先”にいる。
逃げ道の外側へ回る。
音の位置を読む。
視界がなくても、距離が分かる。
一気に詰める。
制圧。
すべてが、短時間で終わる。
海は、何もなかったように穏やかだ。
美音は、エンジンを落とす。
バイオレットの髪が、風に揺れる。
表情は変わらない。
「完了」
それだけ。
帰港後。
彩香が腕を組む。
「……美音さん、ありがとうございました」
珍しく、素直な口調だった。
「助かったわ」
玲奈も、短く言う。
「流石やな」
それだけで十分だった。
その少し後。
問題は別の場所で発生する。
「……あのツインテール、ホンマええ加減にせえよ」
彩香が低く唸る。
「今度邪魔しよったらなぁ――鼻の穴から割り箸突っ込んで、下からカッコンしたるわ」
完全にアウトな響きだった。
あかりが素直に聞く。
「それって……やったことあるんですか?」
間。
「誰がそんなアホな事かやるか、このドアホが!」
即答。
鋭い播州弁。
「想像力でビビらせとんねん!」
理屈は通っていた。
あかりが「なるほど……」と妙に納得する。
そのやり取りを見ていた玲奈が――
ほんの一瞬だけ、口元を緩めた。
誰も気づかないほどの、わずかな変化。
だが確かに、笑った。
相生の海は、静かだった。
見えない航路。
聞こえないはずの音。
その中で、確実に任務は終わっている。
河合美音。
遠州の勇者。
騒がず、乱れず、確実に仕留める。
その背中に、無駄なドラマはない。
だが――結果だけは、誰よりも鮮やかだった。




