神戸、ガラス越しの約束 ― ふたりの午後
神戸の午後は、どこか映画のワンシーンみたいにやわらかい。
港から吹く風が、過去と未来の境界をそっとぼかしていく。
その日、岡本玲奈は“影”ではなく、“光”の側にいた。
――
「玲奈さん、今日は絶対キュンとさせるけんね」
博多から呼び寄せたスタイリスト・浜崎莉央が、鏡越しににこっと笑う。
「大丈夫、任せとき。玲奈さん元が良すぎるけん、ちょっと手ぇ入れるだけで別格やけん」
柔らかなベージュのロングコート。
シンプルなニットに、身体のラインを美しく見せるスカート。
控えめなアクセサリーが、逆に存在感を引き立てる。
「……似合うとるよ。ほら、自信持って」
背中を軽く押される。
鏡の中には、いつもの自分とは少し違う“女性”がいた。
「……ありがとう」
その一言に、莉央は満足そうに頷いた。
――
待ち合わせは、メリケンパーク。
海と空が溶け合うような光の中で、玲奈は立つ。
その姿は、通りすがりの人間が思わず足を止めるほどだった。
「……お待たせしました」
振り返ると、東條悠真がいた。
「いえ、僕も今来たところです」
爽やかな笑顔。
体育会系らしい無駄のない体躯に、柔らかな物腰。
自然と、歩き出す。
――
港を抜け、北野へ。
石畳の坂道。
異人館の街並み。
どこを切り取っても絵になる風景。
「……いい街ですね」
玲奈が呟く。
「ええ。少し時間がゆっくり流れる気がします」
悠真の声は穏やかだった。
並んで歩く距離が、自然と縮まる。
(……不思議やな)
無理をしていない。
気を遣いすぎてもいない。
ただ、心地いい。
――
ベンチに腰を下ろす。
玲奈は静かに、自分の過去を話す。
両親の事故。
祖父母との暮らし。
そして、今の自分。
悠真は、最後まで黙って聞く。
「……そうでしたか」
それだけ。
だが、その言葉には軽さがない。
――
「じゃあ、今度は僕の番ですね」
悠真が笑う。
「大学時代、アメフト部だったんですが」
玲奈は頷く。
「藤堂隼人、ご存知ですか?」
「ああ……」
「一つ下の後輩でしてね」
少し楽しそうに続ける。
「あいつ、外から見ると完璧なんですよ。真面目で頭も良くて、隙がない」
玲奈も小さく笑う。
「……そんな印象ですね」
「でもね、ちょっと抜けてるんですよ」
声が少し弾む。
「大事な試合前にプレーブック忘れてきたり」
「……それは致命的では」
「ですよね?でも本人は“頭に入ってるから問題ないです”って真顔で言うんですよ」
玲奈の口元が緩む。
「猪突猛進で、周り見えなくなることもあって」
「……ありそうですね」
「でも、だからこそ放っておけない。可愛い後輩でした」
悠真は、楽しそうに話す。
その明るさに、玲奈は引き込まれていた。
(……ええ人やな)
自然に、そう思う。
――
夕暮れ。
三宮へ。
案内されたのは、神戸ビーフの名店。
落ち着いた照明。
ガラス越しに見える夜景。
テーブルに運ばれてきた一皿。
焼き上げられた肉は、艶やかに光っている。
ナイフを入れると、抵抗がない。
「……」
口に運ぶ。
――ほどける。
肉が、溶ける。
旨味が一気に広がり、舌の上で消えていく。
「……すごいですね」
思わず言葉が漏れる。
「ええ、特別な日にふさわしい味です」
ワインが注がれる。
深いルビー色。
「こちら、ボルドーの赤です。神戸ビーフにはよく合うんですよ」
一口。
肉の甘みと、ワインの渋みが重なる。
完成された味だった。
――
食事の終わり。
悠真が静かに言う。
「玲奈さん」
名前を呼ぶ。
「結婚を前提に、お付き合いしていただけませんか」
まっすぐな言葉。
「警察官としても、ヒロインとしても」
一拍。
「続けたいなら、そのまま続けてください」
玲奈の目が揺れる。
「全部含めて、あなたですから」
――
胸の奥が、ほどける。
今まで感じたことのない感情。
気づけば、涙が一筋こぼれていた。
「……」
玲奈はゆっくり頷く。
「……はい」
それだけで、十分だった。
――
神戸の夜。
ガラス越しの街の灯りが、静かに揺れている。
影に生きてきた女が、
初めて光の中で涙を流した。
それは、確かに“約束”だった。




