来るべき一打のために ― 影の準備線
ヒロ室西日本分室の夜は、長くなった。
灯りは消えない。だが外から見れば、ただの残業だ。
西日本特別諜報班――NSTは、書類の上では止まっている。
止まっている。
だが、止めてはいない。
「……このログ、時系列で組み直した」
あかりが紙束を置く。軽い口調に反して、線は鋭い。
彩香は一瞥して頷く。「助かる」
言葉はそれだけ。だが通じる。
今は踏み込めない。押さえられない。逮捕もできない。
できるのは、削ること。見落としを。
「抜け、全部潰すで」
彩香が言う。「今はそれしかない」
凡事徹底。
当たり前を、当たり前以上にやる。
――
頭のどこかで、別の時間が流れる。
鉄の匂い。曇った空。止まる高炉。
大日本製鉄広畑。父、西川剛史のいた場所。
不況で一基停止。製鉄所は縮む。
社会人野球部も同じように息を詰める。
新入団は細り、試合は減る。他所の製鉄所では休部の報が回った。
「次は広畑やろな」
そんな声が、練習の外からも中からも聞こえた。
剛史は三十手前で、右翼の定位置を若手に譲った。
スタメンを外れ、代打に回る。
代打。
いつ呼ばれるか分からない役割。
呼ばれない日もある。
それでも、父は腐らなかった。
「準備してるヤツが、舞台に立つ資格がある」
言葉は短い。
あとは背中だ。
朝一番にバットを振る。
夜まで振る。
試合に出ない日でも同じだけ振る。
誰に見せるでもない。
だが、誰よりもやる。
――
都市対抗近畿予選、代表決定戦。
終盤、一打で勝ち越しの場面。
ベンチがざわつく。
「……西川」
代打コール。
“ミスター広畑”。
呼び名は後からついた。だが、その瞬間、場は彼を知っていた。
一振り。
乾いた音。三遊間を裂く打球。
勝ち越し。
あの一打で、チームは本戦へ行った。
偶然じゃない。
準備の結果だ。
――
「……今は、代打やな」
彩香は小さく言う。
NSTは今、試合に出ていない。
だが試合は続いている。
黒鷹は動く。
ジェネラス・リンクも、静かに広げている。
現場は止まらない。
なら――
「準備するしかない」
椅子を引く音。ペンを持つ。
「ここ、もう一回洗うで」
迫田ツインズが即座に反応する。
「了解」
「精査する」
同じ声、同じ間合い。無駄がない。
美咲が横に入る。
「重複、潰します。流れ、綺麗にしますね」
柔らかいが、手は速い。
麻衣がデータを繋ぐ。
「このログ、時刻ずれてます。合わせます」
細い指が、歪みを整える。
美音は物流を追う。
「この便、三日周期やったのに、二日になってる。急いでる」
低い声。確信がある。
あおいは俯瞰する。
「空域の通過ログと一致。隠す気はあるけど、雑」
淡々と、事実だけ置く。
あかりは現場の欠片を拾ってくる。
「港の南、顔見たことない連中増えとる。喋り方もちゃう」
何気ない情報。だが効く。
――
地味だ。
派手さはない。
だが、線は出る。
点が繋がる。
「……ここや」
彩香が紙を叩く。
複数のルートが、同じ地点に収束する。
搬入、保管、再分配。
新しい“腹”だ。
「確定までは持っていけん」
あおいが言う。
「でも、見えてる」
美音が頷く。
「十分や。次に繋がる」
彩香は短く答える。
――
深夜。
分室は静かだ。
時計の音と紙の擦れる音だけが残る。
誰も帰らない。
急がない。
だが止まらない。
彩香は窓に立つ。
大阪の光はいつも通りだ。何も知らない顔で流れている。
玲奈はいない。
だが、いないことで見えるものがある。
NSTがいないことで、現場が歪む。
なら、戻る価値がある。
「……来る」
声は小さい。だが確信はある。
出番は、来る。
いつかは分からない。だが必ず。
その時、振れるかどうか。
それだけだ。
彩香は振り返る。
仲間がいる。
それで十分だ。
「続けるで」
短い一言。
全員が頷く。
――
紙の上で、線が太くなる。
見えないところで、形が固まる。
NSTは表に出ない。
だが、消えてはいない。
次の一打のために、振り続けている。
誰にも見えない場所で。
音もなく。
確実に。




