引き金の距離 ― 瀬戸内ジャックライン第4話
夜明け前の瀬戸内は、音を失う。
風は止み、波は消え、海はただ黒い鏡になる。
その静寂の上に、白い遊覧船が浮かんでいた。
数十名の人質と、追い詰められた数名の男たち。
限界は、すでに越えている。
――
「突入、決定や」
兵庫県警本部の判断は、ようやく下された。
遅い、と彩香は思った。
だが遅れた判断でも、決まった以上は従うしかない。
「配置、最終確認」
彩香が低く言う。
特殊部隊が頷く。
無駄な声はない。
あかりが拳を握る。
「やっとやな」
その声には、抑えきれない熱があった。
美咲は静かに目を閉じる。
「……必ず、無事に」
迫田ツインズは無言で頷く。
同じ顔、同じ動き。呼吸すら揃っている。
それぞれが、自分の役割を理解している。
――
本部。
玲奈は一人、無線の前に立っていた。
突入の指揮は現場に渡した。
だが“最後の判断”は、まだここに残っている。
モニターには、遊覧船の甲板。
人質が座らされている。
その後ろで、犯人の一人が荒い動きをしていた。
「……様子がおかしい」
あおいの声。
「神経、完全に切れてる」
美音も重ねる。
玲奈は何も言わない。
ただ、見ている。
――
その時だった。
犯人が一人、立ち上がる。
銃を構える。
その向きが――
「……やばい」
あかりの声が無線に乗る。
人質。
高齢の男性。
逃げ場はない。
犯人の指が、引き金にかかる。
その一瞬。
時間が伸びる。
誰も動けない。
突入は、まだ間に合わない。
――玲奈が、撃った。
乾いた音が、海に響く。
一発。
それだけだった。
犯人の身体が、崩れる。
銃が手から落ちる。
静寂。
すべてが止まったように見えた。
――
その瞬間は、全国に流れていた。
「ただいま、警察側から発砲がありまして――」
神戸放送の生中継。
三好さつきの声は、震えていない。
「犯人が倒れこみました」
言葉は明確。
状況は正確。
だが内容は、あまりにも衝撃的だった。
「大変衝撃的な映像となっていますので、子供には絶対に見せないでください」
声量がわずかに上がる。
だが崩れない。
現場を伝える人間としての覚悟があった。
――
「突入や!」
彩香の号令。
全員が一斉に動く。
船尾から特殊部隊が侵入。
同時に側面からも圧をかける。
あかりが先行する。
「どけ!」
一気に距離を詰める。
残った犯人が抵抗する。
だが連携の差は歴然だった。
美咲が動線を塞ぐ。
「こちらです」
逃げ場を切る。
迫田ツインズが背後を取る。
「終わりです」
「抵抗は無意味」
同時の声。
格闘。
短い。
だが激しい。
数分で、すべてが終わる。
――
「クリア」
彩香が告げる。
「人質、全員無事」
その一言で、全てが報われる。
あかりが大きく息を吐く。
「……助かったな」
美咲は静かに頷く。
麻衣の目には、涙が浮かんでいた。
――
本部。
玲奈は、まだ動かない。
無線の向こうから報告が入る。
「現場制圧完了」
「人質安全確認」
それでも、玲奈は何も言わない。
ただ、自分の手を見る。
撃った手。
判断した手。
「……終わったな」
小さく呟く。
だがその声には、何も乗っていない。
――
数時間後。
報道は一斉に動き出す。
「警察官が発砲」
「犯人射殺」
「適切な判断か」
国内メディアだけではない。
海外メディアも反応する。
“人質事件における射殺”
“過剰な武力行使の可能性”
言葉が、独り歩きを始める。
ジェネラス・リンクも動く。
「国家権力の暴力」という形で、この一件を利用し始める。
政治家がコメントを出す。
専門家が議論を始める。
正義か。
暴走か。
――
現場では、誰もそんな話をしていない。
ただ一つ。
「間に合った」
それだけが事実だった。
人質は全員、生きている。
だがその代償として――
玲奈は、一線を越えた。
瀬戸内の海は、また静かだった。
何もなかったように、朝日が昇る。
だがその水面には、確かに残っている。
あの一発の、波紋が。




