黒い名簿 ― 神戸シャドウライン 第二章 闇に立つ影
神戸の夜は、昼よりも静かだ。
港の風が街を抜け、
元町の石畳にはネオンの残光が滲んでいる。
だがその夜の底には、
人の欲望が沈んでいる。
白浜麻衣は、指定された場所へ向かって歩いていた。
神戸港近くの古いホテル街。
観光客が立ち寄ることはまずない場所だ。
携帯に届いた短いメッセージ。
――客がついた
――指定の場所へ来い
麻衣は深呼吸した。
(落ち着いて)
胸の鼓動は早い。
だが足は止めない。
紀州の舞姫は逃げない。
――
少し離れた場所。
黒い車の中で彩香が無線を押さえる。
「目標確認」
声は低い。
「麻衣、予定通り進んどる」
その隣で迫田ツインズ――
澄香と澪香が双眼鏡をのぞく。
「距離十五メートル」
澪香が言う。
「尾行は問題なし」
澄香が静かに続けた。
「ただし警戒レベル高め」
彩香が頷く。
「いつでも踏み込める準備や」
――
ホテルの裏口。
そこに一人の男が立っていた。
大柄な体。
がっしりした肩。
夜でも分かるほどの存在感。
麻衣は近づいた。
男が振り向く。
その瞬間、麻衣の背筋が寒くなる。
目が笑っていない。
「新人か」
低い声だった。
麻衣は俯いて頷く。
「……はい」
男はゆっくり近づく。
その歩幅は大きい。
圧力がある。
麻衣の本能が警告を鳴らす。
(危ない)
男の手が伸びる。
その瞬間だった。
「そこまでや」
鋭い声が夜を切った。
次の瞬間。
黒い影が飛び込む。
彩香だった。
男の腕を払い、
体を踏み込みながら一気に距離を詰める。
格闘術の動き。
鋭い。
速い。
男が驚く。
「誰だ!」
彩香は一歩も引かない。
目は真っ直ぐだ。
「その子から離れろ」
男が腕を振る。
だが彩香はそれをかわし、
逆に体勢を崩す。
足払い。
男がよろめく。
迫田ツインズが周囲を封鎖する。
澪香が言う。
「逃げ場なし」
澄香が静かに続けた。
「大人しくした方がいい」
男は荒く息を吐く。
その顔を見て、彩香の目が細くなる。
「……やっぱりや」
麻衣が小声で聞く。
「知ってるんですか?」
彩香は頷く。
「知っとるも何も」
苦笑した。
「有名人や」
男は日本プロ野球の投手だった。
某チームのエース。
国際大会で先発した男。
だがその試合で打ち込まれ、
敗戦投手になった。
日本中から叩かれた。
SNSも、メディアも。
「……」
男は視線を逸らす。
彩香は静かに言った。
「アンタの試合、覚えとる」
男が顔を上げる。
「父が社会人野球やっとった」
「日の丸背負ったこともある」
「プレッシャーがどれだけのもんか、
父の話で聞いてきた」
少し間を置く。
「せやから」
彩香は真っ直ぐ見た。
「潰れそうになる気持ちは分かる」
男の拳が震える。
だが彩香の声は変わらない。
「でもな」
「こんな組織使う理由にはならへん」
沈黙。
夜の風だけが流れる。
その時、麻衣がぽつりと言う。
「私、十八歳です」
男が止まる。
「大学生です」
次の瞬間。
男の顔から興味が消えた。
「……大学生?」
彩香が吹き出す。
「そらあかんわ」
男が頭を抱える。
「……最悪だ」
彩香が腕を組む。
「取引しよか」
男が顔を上げる。
「今回のことは公にせえへん」
「その代わり」
一歩近づく。
「この組織のこと、全部話してもらう」
沈黙。
やがて男が言った。
「……分かった」
そして小さく続けた。
「このサービスを教えたのは」
彩香が聞く。
「誰や」
男は低い声で言った。
「メジャーリーガーだ」
その名前は――
世界中の野球ファンが知っている。
彩香の表情が変わる。
「……そういうことか」
神戸の夜の奥で、
黒い名簿の影が広がっていく。
NSTの戦いは、まだ始まったばかりだった。




