潮騒の追跡線
瀬戸内海は、穏やかな海だと言われる。
だが、それは半分だけ本当だ。
淡路島から播磨灘にかけての海は、島影が多く、潮の流れは複雑で、夜になれば航路灯だけがぽつぽつと浮かぶ。昼は観光船や釣り船が行き交い、海はのどかに見える。だが一度、追う側と逃げる側に分かれれば、この海は途端に顔を変える。島影は隠れ場所になり、穏やかな波は油断を誘う。
古くから船乗りが知っていた通り、瀬戸内は“やさしい海”ではなく、“考えさせる海”だった。
その夜、西日本特別諜報班――NSTは、播磨灘の夜を睨んでいた。
リコールされた元県知事の私兵集団、黒鷹。その構成員が淡路島沿岸の島影を利用して、何かを動かしている。金か、武器か、あるいは人か。いずれにしても、陸から見ていては追い切れない。
そこで玲奈が選んだのが、海からの追跡だった。
「今回、海は任せる」
ヒロ室西日本分室でそう告げられた時、部屋の空気が少しだけ変わった。
前に立っていたのは、河合美音。浜松市出身。船舶免許、大型自動二輪、普通大型自動車――いくつもの免許を持つ、静かな万能人材。
遠州の勇者、と呼ばれている。
だが、NSTの面々と彼女の距離はまだ微妙だった。
美音は優秀すぎた。
動きに無駄がなく、声も小さく、必要以上に馴れ合わない。助けられているのは全員が分かっているのに、こちらから一歩近づくと、自分の未熟さばかりが浮き上がってくる。そういう種類の人間だった。
玲奈が静かに言った。
「河合さん、播磨灘の流れは」
「問題ありません」
美音は短く答えた。
「今夜は北東の風が弱い。潮も読みやすいです」
彩香が腕を組んで、その横顔を見た。
「……ほんまに頼もしい人ですね」
「せやな」
玲奈は頷くだけだった。
だが目は、確かに信頼の色を帯びていた。
——
高速ボートは、夜の海を切り裂くように進んでいた。
操舵席に立つ美音の姿勢はほとんど動かない。
手首の角度、視線の置き方、エンジン音の聞き分け方。そのどれもが静かで、正確だった。
彩香が助手席で双眼鏡を覗く。
「島影の向こう、灯りひとつ」
「見えています」
美音は短く言う。
その声を聞いて、彩香はふと、以前聞いた話を思い出す。
浜名湖のボートレース場で行われたエキシビション。冗談半分で乗せられたはずの美音が、現役レーサーを相手に普通に勝ってしまったという、あまりにも嘘くさい本当の話だ。
実際に隣でその操船を見ると、嘘とは思えなかった。
ボートは波に乗るんじゃない。
美音に言わせれば、波を読むのでもない。
「波は、会話です」
以前そう言ったことがあった。
「向こうがどう来るか、聞くだけです」
その意味が、彩香にも少しだけ分かる気がした。
ボートは島影へ滑り込み、エンジン音を抑えながら夜の筋をなぞる。
玲奈の無線が入る。
「彩香」
「はい、玲奈さん」
「相手、二隻に分かれる。手前を追え」
「了解です」
玲奈の声はいつも通り、低く、無駄がない。
海の上でも、あの人の指示は地面みたいに足場になる――彩香はそう思う。
その時だった。
彩香の端末に、別の回線が割り込んできた。
「彩香やーん!」
頭痛のするような明るさ。
赤嶺美月だった。
「今どこおるん!?」
彩香の顔が引きつる。
「……は?」
美月は上機嫌だった。
「こっち今、CSの旅番組で淡路島来とんねん! 海めっちゃ綺麗やで! あ、なんか速い船おる!」
彩香が唸る。
「なんであいつ、また居るねん……!」
美音は無言のまま前を見ている。
だが口元だけ、ほんの少し硬くなった。
美月の声はさらに続く。
「もしかして彩香らへん!? ねえ、いま手ぇ振ったら分かる!?」
「振るか!」
彩香は思わず大きな声を出し、すぐに口を押さえた。
その瞬間、前方の黒鷹の船がわずかに進路を変える。
警戒した。
「最悪や……」
だが、美音は動揺しない。
「変針、想定内です」
「え?」
「むしろ、港側に寄りました」
淡々とそう言うと、美音は操舵を切る。
ボートが大きく弧を描き、波を裂く。
「この潮で右に振るなら、次に取れる逃走路は限られます」
玲奈の声が無線から落ちる。
「河合さん」
「はい」
「任せる」
「了解」
短い会話。
それだけで十分だった。
美音はエンジンをさらに上げる。
夜の播磨灘を、高速ボートが一本の刃みたいに走る。島影を縫い、潮目を越え、黒鷹の船の外側へ出る。逃げ道を塞ぐ位置取りだった。
彩香が息を呑む。
「そんなライン、通せるんですか」
「通れます」
本当に通した。
黒鷹の船が慌てて旋回する。
そこへ、別方向から待機していたNSTの海上支援艇が浮かび上がる。完全に包囲だ。
玲奈の声。
「確保や」
任務は終わった。
——
帰港後。
湾岸の風は少し冷えていた。
彩香は岸壁で腕を組み、美音を見た。
「……助かりました」
素直な礼だった。
美音はわずかに頭を下げる。
「任務ですから」
玲奈も静かに近づいてくる。
「見事やった」
美音は一瞬だけ玲奈を見た。
その視線には、感情を表に出さない人間特有の慎重さがある。
「ありがとうございます」
短い返答。
それでも、ほんの少しだけ声が柔らかかった。
遠くで、美月のロケ車がまだ騒いでいた。
「淡路島の夜景、最高やなー!」
何も知らない声が、海風に乗って飛んでくる。
彩香がため息をつく。
「ほんま、よう任務完了できましたね」
美音は海を見た。
黒い水面の向こうに、淡路島の灯りが滲んでいる。
「海は、騒がしくても進めます」
それだけ言って、小さく息を吐いた。
任務は成功。
確保もできた。
だが喜び方を忘れたように、美音の横顔は少しだけ苦かった。
完璧にやれて当然。
失敗しないのが前提。
そう見られている人間だけが持つ、静かな孤独がそこにあった。
玲奈はそれを見ていたが、何も言わなかった。
ただ、同じ海の方を向いて立つ。
播磨灘の夜は静かだった。
その静けさの中で、遠州の勇者は、誰にも見えないほど小さく任務の完了を噛みしめていた。




