事故調書は嘘をつく
神戸の雨は、どこか冷たい。
港町の雨は海の匂いを連れてくるからだ。
その日も、そんな雨だった。
中学二年の岡本玲奈は、学校帰りに坂道を下っていた。
港のクレーンが霧の向こうでぼんやり揺れている。
携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
「岡本玲奈さん……ですね?」
男の声だった。
低く、少しだけ疲れた声。
「はい」
「兵庫県警です」
その一言で、世界が少しだけ歪んだ。
玲奈は、後になって思う。
人間の人生は、音もなく壊れる瞬間がある。
男は淡々と続けた。
「ご両親が交通事故に遭われました。
今すぐ病院へ来てください」
その言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
玲奈は走った。
雨の坂道を滑りながら。
病院の廊下は白すぎた。
人の顔がみんな同じに見える。
医者が何か説明した。
看護師が肩に手を置いた。
だが玲奈は、何も覚えていない。
覚えているのは一つだけだ。
両親は、もういない。
交通事故。
それが公式の説明だった。
夜遅く、玲奈の前に一人の男が現れた。
背の高い老人だった。
よれたコート。
煙草の匂い。
男は帽子を取った。
「兵庫県警の黒川や」
黒川玄蔵。
刑事だった。
定年退職まで、あと数ヶ月。
いかにも昭和の刑事、という顔をしていた。
鋭い目。
だがどこか優しい目でもある。
黒川は椅子に座り、ゆっくり言った。
「つらいこと聞くが、ええか」
玲奈は頷いた。
黒川は事故の説明をした。
国道で、トラックが追突。
過積載だった。
ブレーキが利かなかった。
不幸な事故。
それが警察の結論だった。
玲奈は静かに聞いていた。
泣かなかった。
泣くという感情が、どこかへ行っていた。
黒川は玲奈を見た。
この子は普通じゃない、と感じていた。
普通の中学生なら泣き崩れる。
怒鳴る。
叫ぶ。
だが玲奈は違った。
ただ静かに考えている。
黒川はため息をついた。
「……事故いうのはな」
黒川は煙草を取り出し、火をつけた。
「誰かがミスした結果や」
玲奈は黒川を見た。
「そのトラックは」
黒川は続ける。
「荷物を積みすぎとった」
過積載。
それが事故原因だった。
玲奈はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
過積載。
荷物を積みすぎた。
だから止まれなかった。
だから両親は死んだ。
黒川は玲奈の表情を見ていた。
この子は怒らない。
だが忘れない。
そんな目をしている。
黒川は事故現場を思い出していた。
ブレーキ痕。
潰れた車。
散乱した荷物。
そして、妙な違和感。
過積載。
確かにそれが原因だ。
だが——
何かが引っかかる。
黒川はその疑問を、口にしなかった。
警察という組織は、
すべてを追えるわけではない。
調書には、必要なことしか書かれない。
それが現実だ。
黒川は煙草を消した。
「玲奈」
初めて名前を呼んだ。
玲奈は顔を上げた。
黒川はゆっくり言った。
「お前の人生は、ここで終わらん」
玲奈は黙って聞いていた。
黒川は続けた。
「つらいのは当たり前や。
だがな」
黒川は少し笑った。
「生きる段取りは、今からや」
玲奈の目に、初めて光が戻った。
その夜、黒川は玲奈の手続きを全部やった。
親族への連絡。
葬儀。
役所。
刑事の仕事ではない。
だが黒川はやった。
玲奈はその背中を見ていた。
不器用で、口数が少なくて、
でも逃げない男。
黒川玄蔵。
玲奈はその時、心の中で決めた。
この人のような警察官になりたい。
そして、もう一つ。
玲奈はノートを開いた。
震える手で書いた。
過積載
その文字を、何度もなぞった。
事故は終わった。
警察の調書も完成した。
だが玲奈は知っていた。
事故調書は、すべてを書かない。
書かれないものがある。
それを見逃さない。
それが岡本玲奈という人間の、始まりだった。




