ep9
塔の周囲の森の霧が晴れた。
フォルカーは夕日に染まる森を塔の窓から眺めながら、まるで実感がない自身に驚いていた。あんなにも待ち焦がれていたはずの出来事だというのに、まだこの場所でやることがあったように思えてならない。
川で先日釣り損ねた大物を捕まえてもやりたいし、裏の畑に見慣れない芽が出ていたのも気になる。小竜のランベルトも最近ではフォルカーに懐き、もうすぐ自分から膝に乗ってくれそうな気配もあるのだ。
それにまだ──
「まだ、あいつの本当の姿を見せて貰っていなかったんだがな……」
いずれは彼の正体を知ることができるのではないだろうかと楽観していた。いつの間にか、自分がここを出て行く日のことを想像できなくなっていたようだ。
エリオにとっては厄介な来客でしかなかっただろうが、今となってはこの森に足を踏み入れたことを幸運だったとさえ思う。
とにかくここを出る前に礼を伝えなければなるまいと、フォルカーはエリオのいるであろう研究室へ向かった。
「なんだ、君はまだこんなところにいるのかい」
地下の研究室では、エリオがいつも通りいつもの椅子に腰掛けていた。古そうな書物から顔も上げずにフォルカーに言う。
「せっかく霧が晴れたんだから、ここを出るのなら早いうちがいいよ」
「なんだ、お前も知っていたんだな。ランベルトが教えたのか」
塔に篭もりきりの魔法使いが塔の周囲のことをよく把握しているのが、フォルカーはいつも不思議だった。以前それを尋ねたことがあるが、どうやら小竜のランベルトがいるおかげらしい。
「そうだね。君の言っていた討伐隊とやらも、そろそろ動き出すのではないかな。彼らだってこれから日も暮れようかとする森へ入るほど、愚かではないだろうけどね」
そこでエリオがようやくフォルカーをちらりと見た。
「おい、そう人を玩具にするな。ここへやって来たときとは違って今は酒も飲んでいないんだ。そんな無謀な真似はもうやらん」
この森へ入ったきっかけが酔って自暴自棄になったせいだと打ち明けた際、よく野垂れ死ぬ前にこの塔までたどり着けたとエリオに散々呆れられたものだった。今となってはそんな馬鹿げたやりとりさえも、打ち解けた友人との楽しい思い出のようにも感じる。
「だとすると、出立は明日の朝早くかな。隊と鉢合わせないように気を付けるといい。万が一魔法使いと関わりがあるとでも思われたら、君も面倒なことになるよ」
「……なあ、本当にお前は討伐隊が来ても大丈夫なんだろうな?」
エリオから死を遠ざける呪いの力はフォルカーにも分かっていたが、たとえ討伐隊に殺されずとも捕らえられてしまうのではないかという懸念はある。
「大丈夫だよ。少なくともここ百年は危ない目に遭った覚えはないさ」
「それより前はあったのか?」
「今よりはまだ魔法も未熟だったからね。それに心配はありがたいが、私が危険を感じるほどの相手なら、悪いが君など一人いても何の助けにもならないよ。足手まといになる可能性だってある」
だから安心してここを出ていくといい、と意地悪く口角を上げる。悔しいが、その通りなのだろう。
「そうか……。では悪いが、もう一晩だけ世話にならせてくれないか」
「かまわないさ。この期に及んで滞在が一晩延びたところで、何も気にすることはないよ。もし君が気にすべきことがあるとするなら、そもそもこの森へ足を踏み入れたことぐらいだからね」
「それはもしや、ほぼ全てという意味か……?」
魔法使いに引き留められるなどとはまるで思っていなかったが、こうもいつもと変わりない態度をとられると、改まった別れなどは告げづらくなってくる。
だがそれでも礼だけは言わねばなるまいと、フォルカーは頭を掻いた。
「あー、何というか、その……。……長い間、邪魔をして悪かったな。お前には本当に世話になった。塔に置いてくれたことだけではなく、お前とランベルトには随分と慰められた。本当に、感謝している」
「別に……私の噂のせいで森で野垂れ死ぬ者が増えると、後味が悪いからね。噂にこれ以上余計な尾ひれがついてしまうのも困るんだ。理由はそれだけだったよ」
珍しく言い訳めいた言葉を口にして、エリオが顔を背けた。こちらから見える目尻の少し下、白い顔の中にぽつりとある小さな泣きぼくろが目に入る。
その横顔が妙に寂しげに見え、フォルカーは我知らずエリオへ手を伸ばしそうになる。右手を途中まで浮かしかけ、その手をどうするつもりだと自問したところでふと違和感を覚えた。
──ほくろ?
ヴァレンテ王子の目元に、そんなものがあっただろうか。たとえ己の記憶が曖昧になっていたとしても、この塔にいる間にほくろの有無に一度も気づかなかったというのも奇妙だ。
「どうかしたのかい?」
フォルカーの妙な動きを察知したのか、エリオがこちらに向き直る。ヴァレンテ王子と同じ造作のその顔に、泣きぼくろなどはどこにもない。
「いや……気のせいだった。何でもない」
中途半端な位置で止まった右手を慌てて下ろすと、ごまかすように言葉を続けた。
「ああ、そうだ。もし良かったら、お前も一緒に旅に出る気はないか」
エリオは少し驚いた様子で目を見張り、だがすぐに首を横に振った。
「その言葉は嬉しいが、私の身では人間のいるところに行くと面倒が多いんだ」
フォルカーは、我ながらバカなことを聞いてしまったものだと渋面になった。一度口から出てしまった言葉は取り消すことができない。人々の中にいられなかったからこそ、彼はこうして長い間森の奥に隠れ住んでいたのだろう。
「勝手な頼みだけど、私についての話はあまり言いふらさないでいてくれると助かる」
「そんなことは、お前からすれば当然のことだろう。長居をさせて貰った恩もあるし、勝手だなどとは思わん」
「やっかいな客人だと思ったけど、やはり恩は売っておくものだね」
エリオはそう言ってからかうように笑った。
その笑いはフォルカーに気を遣わせまいとするものだろう。こんな時ですら余裕を見せる魔法使いに、フォルカーは憂いと苛立ちを覚えた。
エリオの姿は、他人の目には『その人の愛する者の姿』として映る。そのせいでここにたどり着くまでに、何度も面倒ごとに巻き込まれてきたのだろう。
それがある限り、人目を避けて暮らすほかない。もしこの場所を訪れる人間が増えるようになってしまったら、また次の居場所を探すことになるはずだ。
一度ここを立ち去ってしまえば、再度エリオに会える保証などない。フォルカーはようやくそのことに思い至った。
「ついでにランベルトにも挨拶していくかい?」
「ああ、無論だ」
そのようにして、塔での最後の夜は暮れていった。




