第1章
この物語は、世界でいちばん美しい魔法使いと騎士さまのおはなし。
◆
昔々あるところに――
おはなしはいつもそこから始まります。
昔々あるところに、高い山と深い森がありました。
森は絶えず濃い霧に包まれており、迷い込んだ人たちの多くは行方知れずになってしまうというおそろしい森です。
そんな森の奥に、古い小さな塔がありました。
ある人が言いました。あの塔には怖ろしい魔法使いが住んでいて、人々を惑わせて食べてしまうのだと。
ある人が言いました。あの塔にはあわれな年老いた男が一人いるだけで、迷い込んだ人々は霧に惑わされてしまうだけなのだと。
ある人が言いました。迷い込んだ人々が帰って来ないのは当然だ。何故ならあの塔にはこの世のものとは思えない美しい姫君が囚われているのだと。
そうして長い長い時間の間に、たくさんの噂はいつしか形を変えてひとつの噂になりました。
あの森にはその昔から、迷い込んだ人を食べてしまう「この世でいちばん美しい魔法使い」が住んでいるのだと――。
***
やはり、森を迂回するべきだった。
旅人フォルカーは、道に迷ってから己の選択を後悔した。
今はあてもない一人旅の途中で、急ぐ道でもない。酒場では森に入るなと言われ迂回する道を教わったのだから、素直にそちらを選べばよかったのだ。
――あの森には、迷い込んだ旅人を襲う「この世でいちばん美しい魔法使い」が住んでいる。
噂とは言え、森に何者かがいるというのも、迷い込んだ人間がいなくなるというのも、まるで事実無根ではないようだった。
フォルカーは魔法使いという者達のことも知っていた。かつて騎士だった頃、城を訪れたところを見たこともある。そのため魔法使いに変わり者が多いということも、知識としてあった。
にも関わらずわざわざおそろしい噂のある森に入ったのは、フォルカー自身が幾らかやけを起こしていたからにほかならない。
彼はかつて真面目な騎士だった。騎士とは規律を守る真面目なものだが、仕えていた王子に心からの忠誠を誓い日々鍛錬に励むフォルカーは、主人である王子からも信頼されていた。
だがその王子を数年前に病で失ったことで、彼は突然この世の全てのことがどうでも良くなってしまった。殉死も考えたが城にそういった習慣はなく、周囲の心優しい人々はこぞって彼を慰め、労った。
しかし彼は優しい人々に首を振り、王子の思い出の残る城には居られないと騎士を辞めた。それからこうして今まで、あてのない旅を続けている。
酒場で森の魔法使いの噂を聞いた時も、フォルカーはもし自分の旅を邪魔するようであれば退治してやろうなどと酔った頭で考えた(酒というものは時に魔法使いよりもおそろしいものだ)。
もはや騎士ではないとは言え、その剣の腕は完全に錆びついたわけではなかった。姿を見れば、旅の簡素な服の下にも鍛えた身体が分かっただろう。
つまり、彼にはそれなりに戦うことへの自信もあったのだ。
そして、彼が森の魔法使いを怖れなかったのにはほかにも理由があった。
――《この世で一番美しい魔法使い》。
その言葉を聞いた時に、フォルカーは思わず笑った。何と大袈裟な通り名だろう。少なくとも、彼にとってその名前は嘘でしかない。
フォルカーがこの世で最も美しいと思える存在は、かつて仕えたあの王子のことだった。たとえどんな女神や美姫や妖精や仙人が現れようとも、惑わされるつもりなどない。
しかし、もしその美しさに王子よりも心惹かれることが出来たのなら、この重く石のような心も少しは楽になるだろう。彼は半ば皮肉な気持ちでそう考えた。
それらが、彼にこの森を迂回させなかった理由だ。
しかし魔法使いどころか、鹿一匹に会う前にも森に迷ってしまうとは我ながら情けない。
「またさっきの場所か……」
フォルカーは先程目印に折ったばかりの木の枝を見つけ、悔しげに唸った。
気付けば、いつの間にか同じ所ばかりぐるぐると歩いてしまう。
それならばと直線を歩いてみても、今度はその前の目印に戻る。
そのうちに段々と日も暮れてきた。予定ではとうに森を抜けていたはずの頃だ。
馬鹿にされているような気がして辺りの岩に腰を下ろすと、今度は少しずつ霧が出てきた。
「まずいな……」
フォルカーは持っていた干し肉を囓る。唾液と塩分は少しだけ気分を落ち着かせたが、このままではここで夜を明かさねばならない。
せめてもう少し野宿に良い場所はないかと立ち上がり、霧の中を再び歩き出した。
◆
突然、森がひらけた。
急に堂々巡りから解放されたフォルカーは目を疑った。すぐ近くを散々歩き回っていたはずなのに、霧があるとは言えこんな場所があるなんてまるで気付かずにいたのはおかしい。
これも魔法使いの仕業ではないかと辺りを窺ったが、相変わらず生き物の気配はない。
周囲を見るとこの場所もあくまで森から出られたわけではなく、森の中の空間であるということがかろうじて分かった。
目を凝らすと霧の中に明かりが見えた。小さいが塔がある。
あそこで一晩の宿を借りられるかも知れないと胸をなで下ろしかけたが、これがもしや魔法使いのすみかではという考えがフォルカーに過ぎる。
しかし段々と気温も下がっており、温かい明かりがあるすぐ横で霧の中で野宿をして風邪を引くのもばからしい。
そもそも、魔法使いなど退治してもかまわないと思って森へ入ったのではなかったか。
フォルカーはしばらく考えたが頭を振った。
――ええい、ままよ。
そうして、彼は塔へと足を向けた。
◆
近付いてみると、塔は古めかしい割に扉の周囲は案外掃除がされており、大して老朽化もしていなかった。
この塔の中に怖ろしいものが住んでいるようにはあまり見えず、フォルカーは少しだけ肩の力を抜く。
「失礼する! 一夜の宿をお借り出来ないだろうか!」
戸を叩いて、声を張った。
「森に迷い、霧が出てきて往生している! さぞご迷惑だろうが――」
再度ノックをしようとした手が、扉がゆっくり開いたことで空振りする。
塔の中から、フォルカーより少し小柄な体つきの人影が姿を現した。
「旅の人かい?」
その声は、噂されていた女や老人のものではなく澄んだ青年のものだ。
「あ、ああ、そうだ。迷ってしまって――」
言いかけ、相手の顔を見てフォルカーは息を飲んだ。
「どうしたんだい、旅の人」
青年がフォルカーに尋ねる。
細身の身体を、質のよさそうな美しい衣服に包んでいる。こんな森の中で暮らしているにしてはやや奇妙だが、フォルカーが驚いたのはそのせいではなかった。
その顔が、数年前に病に倒れた王子とうり二つだったからだ。
「あ……いや、そんなはずは……」
「旅の人、さては私が誰かに見えておいでだね。気にすることはないよ。皆『そう』さ」
フォルカーのよく知る王子の顔で、青年が笑う。
混乱でフォルカーの鼓動が急速に早まる。
だが王子なはずはない。彼は数年前に儚くなり、今この目の前にいる青年は「亡くなった時の王子」と同じ年格好だ。むしろ王子本人だとしたらもう少し変化があるだろう。
どうにか冷静にそこまで考え、フォルカーは深呼吸をした。
「し、失礼。知り合いによく似ていたもので」
「声も姿形もだろう?」
青年の言う通りだった。
服装こそ王子のものではないが、背格好、髪の色、目の色、まるでそのままだ。似ている、という言葉では足りない。
フォルカーはおそるおそる青年の耳を見た。
外耳の形状は人によって異なるという。そこにあったのは、かつて見慣れた王子の耳の形をしていた。
彼が王子のはずはない。
だがこれは、ここにいるのは、誰だ?
ぐらりと世界が歪む。フォルカーは血の気が下がるのを感じた。
足下をふらつかせると、王子そのものに見える青年がフォルカーの腕を掴んで支えた。
「気分が悪そうだね」
「あなたは……彼は……亡くなったはずだ……」
「ああ、君に見えておいでなのは死んだ人間か。さぞ驚いたことだろうが、心配しなくていい。私は死人ではないよ」
確かに青年の言う通り、フォルカーを支えるその手には生きた人らしい温かさがある。
「だが、どうして、その……」
「ひとまず中へお入り。外は冷えてきたろう」
青年が腕を引いた。つられるようにフォルカーの足は進み、扉から離れる。
「ここに住む人は私一人だが、食べ物とベッドくらいは用意出来るさ」
――人。
彼はそう言うが、本当に人なのだろうか。
見た目だけなら確かに人に見える。夭折した王子は美しい人だった。その王子と同じ外見のこの青年も、無論そうである。
「ああ、運が悪かったね旅の人。どうやらタチの悪い霧が出ている」
青年は外の様子を見てそう言うと扉を閉めた。
「霧が晴れるまではここにいても構わない。ただしここの霧は気まぐれだから、いつになるか分からないけどね」
人を惑わす魔法使いにしては、先程から彼の言っていることは(時折理解出来ないことはあるが)、会話の成立するようなものばかりだ。
それすらも策の一つなのかも知れないが、フォルカーはその不釣り合いさを奇妙に感じていた。
「……お前が、この森の魔法使いなのか」
森の魔法使いは人を惑わせるという話だった。噂や予想とは少し違っていたが、少なくともフォルカーは青年の容姿のせいで大いに心惑わされている。
「今はどういう噂になっているかは知らないけど、おそらく私のことだね」
青年――魔法使いが苦笑した。その笑い方まで王子に似ていて、フォルカーは言いようもない懐かしさを感じる。
「ではその外見も、俺を惑わすためにやっているのか。だとしたら大したものだ。どうやって俺のことを知ったかは分からないが、本当に、頭がどうにかなりそうだ」
フォルカーは半ば無意識に、持っていた剣に助けを求めるように手をかけた。
王子と同じ顔の相手を切れるかどうか、自信はない。だが騎士になって王子から授かったこの剣は、今のフォルカーにとって数少ないよすがとなる物だった。
「おいおい、その物騒なものを使うのは止めて欲しいね」
魔法使いが肩をすくめる。
「別に私はきみに悪さをするつもりはないさ。きみが何を見ても、それは私の意志ではないんだ旅の人」
そう言って、王子の顔で微笑む。王子ではないと分かっていても、フォルカーの胸は苦しくなる。
「だがこうやって、お前は今までも人を惑わせてきたのだろう」
「……いいや。人が勝手に惑わされるんだ」
王子と同じ色の魔法使いの瞳に、一瞬翳りが宿る。
「私は――私を目にする人は、そこにこの世でいちばん愛する人の姿を見るんだ。そういう存在なんだよ、私は」
その言葉に、ようやくフォルカーは噂の意味を思った。
そして自分にとって、王子こそがこの世で最も美しいと思う存在だったということも――