深夜の襲撃
総介はあてがわれたベッドの上でまんじりとしていた。
ホテルではろくに眠れなかったし、疲れているはずなのに、なかなか睡魔が訪れてくれない。
総介は自分の年齢を知らない。もう死んでしまったが、彼を知っていた者は二十七歳だと言っていた。つまり、優より十以上離れていることになる。そんな子供、しかも女の子の瞳から溢れた涙は、総介の心を抉った。こんな後味の悪さは初めて味わう。さっき飲んだコーヒーなど比較にならないほどの苦味が、舌ではなく胸に広がっている。
「くそ……」
誰に対してでもなく、総介は悪態をついた。
闇の中では、時が経過するのが遅い。起き上がるのもうっとうしく、無機質な天井をじっと見つめていると、場所も時期も曖昧になった回想を繰り返しては、再び忘却の彼方へ追いやるを繰り返す。
眠れぬストレスがはっきりと苛つきに変わった頃、近づいてくる足音が耳に滑り込んだ。
「…………」
総介は音も立てずにベッドから降りると、傍らに置いてあったシースからナイフを抜いた。月からの蒼い光を集めて、刃自体が発光しているようにぼやけて浮かぶ。
壁を背にして、扉のすぐ横で身を屈めた。
足音は総介の部屋の前で止まった。一秒、二秒と経過し、同時に扉を隔てた空間がピンと張り詰めていった。
ドアノブが捻られ、扉がゆっくりと開いた。
総介は僅かな隙間に手を差し込むと同時に扉を蹴り開け、ドアノブを握っている相手の手首を掴んで思い切り引っ張った。腕の力だけではなく、腰の回転も加えた引きだ。
「きゃあっ!」
総介は、室内に引き入れた人物の背後に回り込み、頸動脈にナイフを当てた。
だが、脅し文句を言う必要はなかった。掴んだ手首と短い悲鳴で、訪問者は優だとわかった。
「なんだ? 夜這いにしちゃ色気のない格好だな」
総介はナイフを収めながら軽口を叩いた。
「なに言ってんのよ、バカ。離してよ」
優は身を捩って束縛から逃れようとする。総介がいきなり手を離したので、勢い余って転びそうになる。
「ホテルの一件と言い、おまえ男に襲われる願望でもあるんじゃないのか?」
「そーゆー冗談、やめてくれる?」
「なら、こんな夜更けに男の部屋に忍び込もうとした理由はなんだ?」
「……さっきは怒って悪かったわ。総介にも事情があるのを考えないで、一方的に押し付けようとした……」
「………………」
「でも、それでもお願いする。力を貸して。ほんの少しの可能性でも残ってるなら、助けに行かないなんて選択できない」
総介は、やはりという思いをため息で吐き出した。ただし、今度は優に聞こえないようにさり気なくだ。
「しかし……亜希がいなくなったのは、三日も前なんだろ? もう手掛かりさえ見つけるのは困難だ」
消極的な内容ながらも、協力することを肯定した発言だった。それは総介自身も気づかないで、せせらぎのように流れた言葉だった。
「奴らにつながるヒントは? 総介、アダムの性質には詳しいんでしょ」
「性質ったってな……野生動物を狩るのとはわけが違う。動物には習慣があってそいつを利用してハンティングする。毎回同じ道を通るとか、捕らえた獲物を隠しに来るとか……。アダムの知能は人間と同等かそれ以上だ。そんな単純にはいかんよ」
「なにかないの? ほんのちょっとしたことでも……」
まるで、犯人にあと一歩まで迫っている刑事の如き執念だ。はじめは投げやりだった総介も、わずかな情報を組み立てて考えてみることにした。
「そうだな……もし俺が懸念している通り、奴らが集団で行動しているとしたら……」
いったん言葉を切り、先程まで眺めていた天井を見上げた。
「……この街はけっこう広い。ばらばらに散らばっているよりは、一ヶ所にまとまって生活するのが望ましいな。連絡が密に取り合えるし、緊急の事態にも対処できる。数人あるいは数十人が暮らしていても怪しまれない建物……マンション、いや……」
再び言葉が止まった。考えを整理しながら喋っているので、用意された台本を読むようにはいかなかった。
優は辛抱強く待つ。
「それに、人間をさらったところで、血を抜き取れなきゃただのお荷物だ。数日は生かしておいても、何週間、何ヶ月も生かしてはおけない。弱らないうちに処理をして、鮮度のいい……」
「総介」
オブラートに包まない総介の表現に、優は思わず顔をしかめた。
「ああ、すまない。つまり、それなりに設備の整った環境じゃないとダメってことが言いたかったんだが……」
「ぎゃああぁあぁぁっ!」
「いやあああぁぁああっ!」
思わず身震いしてしまう絶叫が、建物内にこだました。優は驚きのあまり甲高い悲鳴を上げて総介に飛びついた。
「今の……子供たちの声?」
総介は優の肩を抱きながら、床に置いてあったバックパックまで後退った。
「優。扉を見張っててくれ。こいつを持ってろ」
ナイフを優に手渡した。
「え? そんな。こんなもの、私使えない……」
「構えていろ。ほんの数秒でいい」
総介は優から離れ、バックパックの中に手を突っ込んだ。
「総介……まだ?」
「もういいぞ」
総介が取り出したのは、ホテルでアダムを撃退したM9だった。
シースを腰に装着し、優に預けておいたナイフをしまった。代わりに銃を構えて扉に近づいた。
「様子を見てくる。おまえはここに隠れていろ」
「え? やだ。私も一緒に行く」
総介はこの施設内で起こっていることを想像してみた。
今の叫びが寝言でないことは明白だ。賊が侵入したのだ。しかし、なぜよりにもよって今夜なのだ? まさか、さっきのアダムの仲間か? ホテルから尾行されたのか? いや、そんなはずはない。充分過ぎるほど警戒していたし、これまで追跡など許したことはなかった。
戦力にならない少女を連れ歩くのはデメリットでしかないが、建物はけっこう広く、敵が何人侵入したのかわからない。自分が離れたところに襲われたら、間に合わなくなるかも知れない。もっとも、一緒だからといって助けられる保証もないが。
「よし、ついてこい。離れるなよ。ただし、今のように俺を掴むのもなしだ」
「うんっ」
総介は、扉からゆっくりと頭を出して通路の様子を伺った。静まり返っている。しかし、先程の凄まじい叫び声の後では、この静寂が恐怖だった。
「行くぞ」
「うん……」
薄暗い通路は、一歩進むだけでもかなり精神を消耗させる。自分ですらそうなのだから、優は息苦しいくらい鼓動が速くなっているだろう。
カタン。
前方の部屋から微かな音が聞こえた。総介は足を止めた。
「なに?」
優が怯えた声を出す。
「しっ」
総介は人差し指を立てた。意識を集中させる。音はしなかったが、気配を感じ取った。それに……
「この匂いは……」
総介は立てた人差し指をそのまま横にして、前方の部屋を指した。
「あの部屋が?」
「そう。あの部屋が子供たちの寝室……」
その答えに、全身に鳥肌が立った。
「子供たち……全員あそこで寝るのか?」
「私と亜希は二人部屋だけど、他の子はまだ小さいから八人全員で寝てるけど……」
総介の態度が只事ではないことを感じ取り、優には途端に落ち着きをなくした。総介の袖を摘む。
「なに? いったいなにが起きてるの?」
「優。おまえはここにいるんだ」
「えっ? やだ。やだよ」
総介は彼女の指を優しく離すと、まっすぐに目を見つめた。
「そこの部屋に入る。おまえは入らない方がいい。大丈夫。壁を隔てるだけだ」
宥め諭すと、優は「…わかった」と呟き、総介の袖を離した。
総介は優の頭をぽんと叩き、壁伝いに扉に近づいた。今度は室内の様子を伺うことはせず、勢いよく叩き開け飛び込んだ。
「動くなっ!」
総介は叫んでから敵を素早く探した。濃密な血の匂いに、むせ返りそうになる。
ロボットのアームのように直線的な動きで、銃口を素早く移動させた。そして、奥の角に狙うべき目標を見つけた。
闇の中に蠢くそれは、あまりにもおぞましかった。理屈抜きに恐怖心を駆り立てるなにかをまとっている。
奥に進むのに躊躇したが、ここで背を向けるのは却って危険だと本能が警笛を鳴らした。
「銃で狙っている。動くと撃つ」
長い髪を振り乱し、一心不乱になにかにむしゃぶりついていた。総介の声などまったく無視している。
「灯りを点けろ」
総介は音声操作で照明を点けた。電灯の光が薄暗さに慣れた目に痛い。
「ううっ?」
飛び込んできたのは、血の海と化した室内。無造作に転がっている子供の死体。そして、その内の一人に歯を立てている女だった。
女はまだ二十代半ばだとも思われたが、そう判断したのは豊満な肉体からで、凄まじい形相はもはや人のそれではなかった。
「うおおっ!」
総介は思わず引鉄を引いた。狙ったのは目前の女だったが、撃ち抜きたかったのはパニックに陥りそうになる己の精神だった。
焦りに駆られて撃った弾丸が当たるはずもなく、逸れた弾丸は派手な音を立てて窓ガラスを破った。
女は弾けるように床を蹴り跳躍した。
「くあっ!」
そのジャンプ力に驚愕したが、その後がさらに凄まじかった。
女は天井に張りつき、落ちてこなかった。僅かな突起を抓んで、全体重を片手で支えている。逆さになったまま四白眼で総介を睨んだ。
短いスカートが捲り上がり、肉感的な太ももも凝った刺繍が施された下着も顕になっているが、今の総介には眼中にも入らなかった。
「おお…?」
あの人間離れした跳躍力は、間違いなくアダムだ。しかし、片手の指の力だけで自分を支え天井に張り付くなんて、常軌を逸している。それに、こいつは子供の死肉を貪っていたんじゃないか? これではまるで、怪奇小説や漫画に登場する吸血鬼ではないか。
「きいぃぃぃあああぁぁ……」
女は威嚇してきた。地獄の底から湧き出るような奇声は、大声で吠えられるより背筋が凍った。




