第55話 教官を外へ出す
開始鐘が鳴ると同時に、五人の教官札は観察室の外側から分厚いガラス扉と共に封印された。
試行暦第九十九日。公開審査会後の補完講習は、最終関門の日を迎えていた。
王都に指定された六つの試行現場には、それぞれ平時の業務網から切り離された『分離訓練区画』が設けられていた。空き処置室、閉鎖された訓練水路、使われていない旧配電室。
第二期補完実務班の十二人が挑むのは、九日枠を締める『連成訓練』だった。
無通告なのは、試験を受ける第二期生たちだけだ。各現場の責任者や周辺住民、そして採点を行う独立監督者には、事前に訓練の時間帯と安全のための即時中止権が通達されている。生きた都市設備を誤操作で破壊する危険は排除されていた。
十二人の受講生は二人一組になり、六つの現場へと散った。彼らがやるべきことは、自分が設備を直すことではない。自職場から持ち込んだ『一工程一枚の赤縄札』と模擬盤を使い、その現場にいる「初見の作業員」に対して、非常時の手順を教え込むことだ。
中央給水圧調整所に設けられた観察室。
分厚い防音ガラスの向こう側に隔離されたグレン・ハルバートと第一期生の五人は、腕を組んでその様子を見下ろしていた。
彼らはここから拡声管を使って指示を出すことはできない。ただ見守るだけだ。
独立監督者が持つ採点表の判定基準は厳しい。『三十秒以内の停止権限確認』『三分以内の人数確認』『八分以内の教え返し』、そして『禁止操作ゼロ』。一つでも漏れれば、設備をどれだけ速く直せたとしても不合格となる。
ガラスの向こうの模擬給水室で、受講生のアニカ・ベルが初見の作業員二名を相手に、手動弁の切り替え手順を教えていた。
順調に進んでいるように見えたが、バルト・エッガーが不意にガラスに額を押し当てた。
「おい、待て。あいつ、給水札から『飲料水を先に戻す』って一文を削って教えてやがるぞ」
バルトの言う通りだった。アニカが黒板に書いた指示は、『当直主任が選んだ一系統だけを開ける』という言葉に書き換えられていた。西区二十番街の局地空白の際、オスカー長官が下した『飲料水を優先する』という一回限りの復旧順位を、彼女は普遍的な規則にはしなかったのだ。
「教官、止めなくていいんですか。俺たちの作った原案と違います!」
バルトが振り返るが、グレンは首を横に振った。
「見ていろ。あれが現場の正解だ」
もし火災が起きていれば消火用水が優先される。その時々の状況に応じて優先順位を変える権限は、中央の原案ではなく、現場の『当直主任』に委ねられるべきだ。アニカは権限と現場値を残すという、三線票の真の目的を理解し、自分の言葉で別解を提示していた。
バルトは口出ししたい焦りを堪え、教え子が自分たちの原案を越えていく姿を黙って見守った。
*
別の現場、南二区共同浴場に設けられた臨時配水拠点の観察室。
ここでは、浴場支配人のサビナ・ハルトが住民役の作業員たちに『人を数える線』を教えていた。
サビナは赤縄札の人数欄を、独自に『動ける人/動けない人』の二つに分けて説明していた。
それを見たマリエル・ノースは、ヒヤリとしてガラスに手をついた。
(ダメ、それじゃあ『動けない人』を分類する過程で、怪我の重症度を素人に診断させることになってしまう……!)
素人に医療判断をさせてはならない。それがマリエルが何度も失敗の上に引いた絶対の禁止線だった。マリエルが思わず観察室の扉のノブに手をかけようとした、その時だ。
「いいかい、あんたたち」
サビナのよく通る声が、拡声管越しに観察室まで聞こえてきた。
「怪我の種類や病気なんか、絶対に見るんじゃないよ。血が出てるかどうかも関係ない。『自分の足で歩いてここまで来れるか、来れないか』。それだけを見て数を数えな。歩けない奴がいたら、迷わず治癒師の先生を呼ぶんだ」
マリエルは扉のノブからゆっくりと手を離した。
サビナは医療行為としての診断をさせたわけではない。あくまで「物理的な移動能力」という生活者の視点に絞り、住民の安否確認の範囲に留めていた。エダから学んだ『してよいことと、専門家へ渡すことの境界』が、確実に守られている。
マリエルは安堵の息を吐き、サビナの背中に向かって小さく頷いた。
北門の中継詰所では、伝令御者のデーン・コールが指導を行っていた。
彼は第一期生が苦労して作った印や形を、作業員に丸暗記させるような真似はしなかった。彼は手順を一通り教えた後、すぐにその作業員を別の初見の作業員の前へ立たせ、「今俺が言ったことを、こいつに説明してみろ」と『教え返し』を要求した。
作業員がしどろもどろになり、説明が崩れた箇所を見つけると、デーンはその場で赤縄札を裏返し、改訂履歴の欄へ「ここは間違えやすいから、別の言葉に直す」と追記していく。
それは、教官から与えられた正解を盲信せず、常に現場で使える形へ更新し続けるという、最も実践的な継承の姿だった。リーゼは彼の手法を、誇らしげな目で見つめていた。
*
だが、全員が順調だったわけではない。
都市設備局・術式校正室の分離訓練区画。
受講生のロウ・メルクは、異径制限器を使った『規格L1・低消費術』の起動手順を教えていた。
ロウは前回、フィオナの講習で訓練封を溶かす失敗を犯したが、魔力操作の腕自体は確かだった。彼は初見の作業員の前で、極小の魔力を安定して制御し、見事な三秒の灯りを点灯させてみせた。
作業員たちから感嘆の声が上がる。ロウは得意げに笑い、自分の持っていた赤縄札を作業員へ手渡した。
「さあ、この通りに制限器を術環にはめて、やってみてください」
観察室にいたフィオナは、ロウが渡した札を見て顔面を蒼白にさせた。
ロウが渡した札の『器具寸法・放熱許容量』の欄が、真っ白な空欄のままだったのだ。
彼は自分の技術を見せることに満足し、一番肝心な『現場ごとの器具の差異を確認して数値を書き込む』という安全の要を、初見の作業員へ教え忘れていた。試験用札でも、空欄を空欄のまま使わせてはならない。未記入欄を見つけたら、『現場責任者が数値を入れるまで起動しない』と教えること自体が、この課題の採点対象だった。あの空欄のまま、違う寸法の制限器を使って術を起動させれば、また確実に熱暴走を起こす。
(ロウくん、待って! 寸法を書かせて!)
フィオナは観察室の拡声管のボタンに手を伸ばした。
ここであと一言、「寸法は?」と囁いてヒントを出してやれば、彼は思い出し、合格できる。公的に派遣できる指導補助が一人増える。教え手不足という深刻な問題が、一つ解決するのだ。
しかし、グレンが『できることと、教えてよいことは違う』と黒板に書いたあの一文が、フィオナの脳裏をよぎった。
ここで甘やかして合格させれば、彼はいつか本物の現場で、数値を教えないまま他人に術を使わせ、誰かに重い火傷を負わせる。
フィオナは震える手を引き戻し、拡声管のボタンから指を離した。
直後、ガラスの向こうで独立監督者の笛が甲高く鳴り響いた。
「そこまで。器具寸法未確認による操作指示。禁止線超過により、訓練を強制停止する」
ロウが呆然と立ち尽くす。
「待ってください! 俺の操作自体は正確だったじゃないですか!」
「操作が成功したかは採点しない。君は他人に安全を渡せなかった。不合格だ」
独立監督者の規定通りの宣告が響く。
フィオナはガラス越しに、うなだれるロウの姿をじっと見つめ、己の介入したい焦りと未練を胸の奥へ押し込めた。
*
夕刻。全現場での連成訓練が終了した。
カルド分校の教官室に集まったグレンと第一期生たちの前で、ヘレナが最終結果を読み上げた。
「十二名中、合格八名。不合格、四名」
全員を合格させるという、耳障りの良い奇跡は起きなかった。
ロウを含む四名は、操作自体には成功していても、権限超過、教え返し不能、改訂版の取り違えといった『伝える側としての致命的なミス』で無情に落とされた。彼らは通常職や給与を失うわけではないが、暫定指導補助の資格は得られず、後日監督下での再受講へと回ることになる。
これで、公的に現場へ派遣できる教え手は、グレンと第一期生五人の六人に、新たに合格した八人を加えた『十四人』へと増えた。
だが、十二人の受講生のうち四人を落としたということは、王都十二基幹現場のうち『四つの現場』は、地元の指導補助(教え手)を得られないまま、危険窓の期間を迎えることを意味していた。
十四人に増えても、王都の全現場と地方からの要請を同時に受け持つことなど到底できない。安全が全国へ広がったという錯覚を、数字は許してくれない。
机の上には、真新しい《暫定指導補助》の合格印が押された八枚の書類と、その隣で、無記名の四枚の再受講票が乾いていた。
その時だ。
窓の外、カルド分校の正門前に、泥跳ねで汚れきった馬が荒々しく停まった。
馬から飛び降りたのは、王立魔力環境局の制服を着た急使だった。彼は血相を変え、連絡所の階段を駆け上がってくる。
それは、第九十日の審査会で設定された『危険窓』の見直しを迫る、新たな観測記録の知らせだった。




