第54話 赤い縄は、名前より先に届く
五人分の失敗票は、捨てられるはずだった赤い隔離縄一本で、ばらばらのまま束ねられた。
第九十七日。カルド分校の王都連絡所に臨時に設けられた教材工房。
広い作業机の上には、リーゼ、フィオナ、マリエル、ノエル、バルトの五人が前日までに作成した、五枚の『失敗票』が散乱していた。色も、形も、使われている語彙も全てがバラバラな五枚の紙。
第一期生の五人は、これをなんとか一貫した『統一手順書』にまとめ上げようと、朝から頭を突き合わせて目次案を作っていた。
「……ダメだ。各現場の例外事項や権限の条件を全部網羅しようとすると、目次だけで三ページになっちゃうわ」
「図解や版履歴を入れたら、さらに倍だ。これじゃあ、ただの分厚い本だ」
リーゼがペンを投げ出し、バルトが頭を抱える。
そこへ、グレンが歩み寄り、ドンッ、と彼らの机の上に分厚い紙の束を置いた。
それはかつて、グレン自身が作り上げ、オスカーに『全面撤回』の赤線を引かれた八十六ページに及ぶ未採択案だった。
「俺が作ったこの束は、立派だが重すぎて誰も読まなかった」
グレンは、未採択の束と、五人が作ろうとしている新しい冊子の目次案を交互に指差した。
「聞くが。お前たちの現場の人間は、非常時の暗闇の中で、本当に『それ』を持って走れるか?」
五人は息を呑み、沈黙した。
その静寂を破ったのは、第二期生の受講生として同席していた、中央第二給水所のアニカ・ベルだった。
「一冊の本にするから、重くなるんです」
アニカは机に散らばった五枚の札を手に取り、言った。
「私が給水所で弁を閉める時、治癒院の止血の手順なんて読みません。『一工程につき、一枚』。現場の人間が、自分の持ち場に必要な札だけを綴じ輪から外し、それ一枚だけを持って走れるようにすべきです」
アニカは工具箱から、給水所で使われている『赤い隔離縄(粗縄)』の切れ端を取り出した。彼女は目打ちで札の左上に穴を開け、そこに赤い粗縄を通し、二重結びにして輪を作った。
「現場は停電で真っ暗になり、煙も出ます。厚い手袋をしていても、この縄の『二重結び』と『粗い手触り』があれば、ポケットの中で一番大事な優先票だけを指の感覚で引き抜くことができます。色が見えなくても、触覚で探せる目印にするんです」
バルトは目を見張った。自分が考案した形印のアイデアを、彼女が現場の物理的な制約に合わせてさらに実用的なものへと昇華させていた。
「よし、一工程一枚でいこう」
方針が決まると、第二期生たちから次々と『現場の言葉』による改訂案が出された。
浴場支配人のサビナは、表面に『人を先に数えたか』という太い一文を追加した。設備より何より、まずは逃げ遅れた人数を確定させるためだ。伝令御者のデーンは、裏面の最後に『次の人に教え返させたか(復唱確認)』という項目を足した。術式校正室のロウは、フィオナの札に『器具寸法を確認したか』という確認欄をねじ込んだ。
第一期生たちがひねり出した原文は、第二期生たちの生々しい実務の言葉によって次々と端へ追いやられ、書き換えられていく。
バルトは、自分の作った「手形記号」がまたしても簡略化されようとしているのを見て、一瞬、元の形を守りたくてペンを握りしめた。だが、彼は西生活区の局地空白の翌日、住民のエダたちが自分の印を「暗闇でも見える丸二つ」に書き換えたことを思い出した。
(……俺の原文を守ることより、現場で動けることの方が正しい)
バルトは原文への執着を手放し、札の裏面にある『改訂履歴』の欄へ、第二期生たちの名前と、彼らが直した理由をしっかりと書き込んでいった。改訂の経緯さえ追えれば、形は変わってもいいのだ。
フィオナもまた、自分のL1低消費術の札の裏面に、重い制約を書き足した。
『この規格は都市同期網には依存しない。ただし、個人の魔力が完全に失われた場合は使用不可』
王都の魔術師の基準を、魔力の薄い地方へそのまま押し付けるような傲慢な真似は避けたかった。ノエルも観測札に、分からない時は堂々と『不明』と書ける空欄を設けた。見栄を張って捏造値で埋めさせないためだ。
こうして『赤縄札付き改訂票』の原案が固まった。
だが、第一期生の五人だけで、この札に書かれた医療や設備の正しさを保証することはできない。彼らはあくまで原案者だ。
マリエルは出来上がった救護札の原案を持って街道治癒院へ走り、『診断と投薬は禁止』という医療禁止線について、上位のロザ主任から承認を得た。フィオナの校正札は設備局主任トビアスが、リーゼの伝令札は警備隊長が、それぞれ所管の禁止線を確認して承認印を押した。バルトの荷役札と触覚印は、南物流倉庫長が荷崩れ時の禁止線を確認し、承認した。ノエルの観測札はセラが技術面を確認し、環境局の所管印が押された。第一期生は、最後まで原案者と説明者に留まった。
「よし。各所管の審査は通ったわね」
カルド分校のヘレナが教材としての試行を許可し、王立総合実務院の本院教務局が公開複製の許諾を下す。最後に、都市魔導庁のオスカーが、王都十二基幹現場での訓練使用を承認した。
だが、これは決して全国一律の『完成された標準手順書』ではない。
札の裏面に印字された版番号は『A0・3』。あくまで試験中であり、今後も書き換えられる前提の暫定版だ。
第九十八日の夜。
夜通し輪転機を回していた王都の印刷所から、刷り上がったばかりの真新しい札の束が運び込まれた。
王都十二基幹現場へ配備するための百二十部と、地方の四経路へ送るための『複製母票』の四組。それだけを刷るのが、時間の限界だった。ただし四組の発送承認は、翌日の連成訓練で出る合否の差分と、そこで判明した禁止線を同梱するため、封緘箱の中で保留された。
机の上に山積みにされたその札には、ある共通の特徴があった。
『止める線』の具体的な圧力値や、『再開を承認する役職名』の部分が、すべてインクの乗っていない真っ白な『空欄』のままになっているのだ。
「現場固有の数値や権限は、中央が勝手に決めることはできない」
グレンが、刷り上がった札の空欄を指でなぞりながら言った。
「この札を受け取った現場の責任者が、自らの職場の値を書き込み、署名して初めて、この紙切れは実運用に耐える『手順』になる。現場の署名がない札は、ただのゴミだ」
この赤縄札は、どんな素人でも魔法のように現場を救える万能のお守りではない。現場の人間が責任を持って未記入の欄を埋め、血を通わせなければならないのだ。
夜明けの光が、教官室の机を照らし始める。
積み上げられた百二十四の束。
その左上の穴から、赤い粗縄の二重結びだけが、どれも同じ向きへ真っ直ぐに垂れていた。だが、その中身の空欄の形は、これから配られる現場の数だけ、まだ一枚ずつ違っていた。




