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魔法が止まっても授業は終わらない ~五十二歳の辺境教官、落ちこぼれ五人に「全員で帰る手順」を教える~  作者: 他力本願寺


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第50話 隣の家へ渡す紙

エダ・モーンは、都市魔導庁の暫定試行印が押された三線票の配布用写しへ、炭のペンで勝手に四つ目の欄を書き足した。


『隣へ渡したか』


 前夜、都市魔導庁は六現場用の三線票を応急複写し、西区共同会館へ運び込ませていた。正式な訓練を受けた者は、まだ一人もいない。紙には公的な印があっても、この街区では誰の手にも馴染んでいなかった。


 西区での局地空白発生から一夜が明けた。


 飲料水、共同治療所、消火用水の三機能はオスカーの決断によって限定復旧したが、西生活区の混乱はまだ収まっていない。


 西区共同会館に設けられた臨時配水所には、まだ給水管の圧力が戻らない区画から多くの住民がバケツを抱えて押し寄せていた。配水列の整理、停電で温くなってしまった薬の保冷、そして何より、昨日の物理的な混乱で倒れた棚の下敷きになり、そのまま動けなくなっている独居老人の安否確認。


 都市側から派遣された復旧班や治癒院の専門職だけでは、とても全戸を回って個別の世話を行うことなど不可能だった。


「お前さんたち、突っ立ってないで手を動かしな!」


 エダのしゃがれた声が、会館の広場に響いた。


 彼女は元助産師の仲間や、手持ち無沙汰にしている近所の顔役たちを次々と捕まえ、自発的に『住民班』を組織していた。


「水をもらったらさっさと帰るんじゃないよ。隣近所の年寄りが息をしてるか、怪我をしてないか、自分の目で確かめてからここへ戻りな」


 エダは、配水支援のために街道治癒院から派遣されていたマリエル・ノースの手元から、配る前の三線票の束をひったくった。


「ノースの嬢ちゃん。あんたらの作ったこの紙は、専門家には便利だろうが、切羽詰まった素人には読めやしないよ」


「えっ、でもそれには、各症状に対する初期対応の手順が……」


「『チアノーゼ』だの『循環不全』だの、昨日の治療所でも言っただろう。生活してる人間にそんな言葉は通じないんだよ」


 エダは炭のペンを握り、マリエルたちが推敲を重ねた美しい手順書の写しを、容赦なく『家の言葉』へと直していった。


 止める線には、『意識のない人には水を飲ませない』という印。


 数える線には、『部屋ごとの動けない人数』。


 切り替える線には、『この共同会館の指定配水所へ来る』。


 抽象的な条件判断が、全て具体的な一つの動作へと落とし込まれていく。


 マリエルは、自分の専門知識が黒々と塗り潰されていくのを見て、思わず身を乗り出した。


「待ってください! 医学用語を削りすぎです! それでは重症度を見誤って、素人が間違った処置をしてしまう危険があります。骨折の疑いがあるのに無理に動かせば――」


「だから、素人がしていいことと、ダメなことの『線』を引くんだろうが」


 エダの言葉に、マリエルはハッとした。


 専門知識で全てを教え込もうとするから破綻する。教えるべきは、どこから先を専門家に委ねるかという境界線だ。


「……分かりました。では、動かしていい怪我と、専門職へ判断を渡すべき症状を、色と形で明確に分けます」


 マリエルはエダからペンを受け取り、赤い斜線を追加した。


『出血が止まらない、または痛みの場所が分からない場合は、動かさずに保温だけして治癒師を待つ』。


 双方が相手の意見を取り入れ、一枚の票を泥臭く直していく。


「おい、ちょっと待て!」


 同じく配水列の整理に回っていたバルト・エッガーが、血相を変えて飛んできた。


 彼は、エダたちが書き直している紙の隅に描かれた『絵印』を見て、太い腕を振り上げた。


「その『手形』のマークと、『二重結び』の印! 俺が倉庫で作った手順の印だぞ! なんで指の数を減らして、勝手に簡単な丸に変えてるんだ! これじゃ二人で持つって意味が変わっちまう!」


 バルトにとって、あの絵印は字が読めない自分が懸命に生み出し、社会に通用したという誇りだった。それを素人の老婆に勝手に書き換えられるのは、自分の価値を否定されるような痛みだった。


 彼がエダの手から紙を奪い取ろうとした時。


 バルトの目は、エダが書き直した紙の最下段、昨日彼自身が定規で引いた『この票を直した人』という空欄に留まった。


『改訂者:西区二十番街 エダ・モーン』


『理由:暗い路地裏の泥で描く時、指の形は潰れて見えなくなる。塗りつぶした大きな丸二つの方が、誰でも早く描けて遠くから見える』


 バルトの息が止まった。


 絵印の意味を壊したのではない。現場の事情――暗闇と泥という西区の環境に合わせて、より伝わりやすい形へと『改良』したのだ。


 改訂者の名前と、元の形を変えた理由がちゃんと残されている。少なくとも、後で誰がなぜ直したかを追える写しにはなっていた。


「……分かった」


 バルトは振り上げた腕をゆっくりと下ろし、自分から一歩下がった。


「指の形より、丸二つの方が確かに暗闇じゃ見えやすい。……俺の作った印より、あんたの印の方が今のこの区画じゃ正しいよ」


 書き換えずに済む手順など存在しない。自分の作ったものが最高だという思い込みを手放し、他人の書き換えを受け入れる。それが、バルトがこの日支払った代償だった。


 エダと住民班は、書き直された複写を手に西区の路地裏へと散っていった。


 彼らは動けない独居老人の人数を数え、マリエルが決めた境界線に従って水と保温の毛布を回していく。


 住民たちは、壊れた魔導配水管を自力で修理したわけではない。重傷者を治癒魔法で治したわけでもない。彼らにできたのは、専門家が到着するまでの間、対象者が死なないように『待つ時間の損失を減らした』ことだけだった。


 それでも、昨日のような混乱による二次被害は、目に見えて減っていた。


 夕方。


 一通りの安否確認と配水を終えた西区の境界、隣の南生活区へと繋がる通りで。


 泥だらけになった一枚の複写が、エダの班の若者から、たまたま様子を見に来ていた隣の街区の少年へと手渡された。


 何度も書き直され、専門用語が消え、絵印が丸に変わり、折り目が擦り切れた一枚の紙。


「なんだよこれ、きったねえ字だな。これ、誰が作ったの?」


 紙を受け取った少年が、顔をしかめて尋ねる。


 彼はグレンの名前も、バルトのことも、マリエルの葛藤も知らない。ただの汚れた紙切れだ。


「知らないよ。俺たちもさっき教わったばっかりだ」


 若者は肩をすくめ、紙の一番上を指差した。


「でも、魔法が止まったら、まず部屋にいる人数を数えるんだってさ。それから配水所へ行くんだと」


「ふーん。人数を数える、ね」


 少年はぶつぶつと復唱しながら、その紙切れをポケットにねじ込み、自分の住む街区へと走っていった。


 教官の手を離れ、作者の名を失った未完成な手順が、初めて社会の中を旅し始めた瞬間だった。

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