第49話 全部は戻せない
黒板に残された復旧作業の枠は『三つ』。
だが、手動での再起動と配水を待つ機能の候補は、「飲料水、治療所、消火用水、浴場、街灯、染色工房」の『六つ』だった。
西生活区での局地空白発生から数十分後。
都市魔導庁に設けられた暫定運用室は、怒号にも似た各部署からの報告で沸き返っていた。
外部の魔力同期の乱れ自体は、すでに収束している。だが、安全停止状態に入った大型の給水昇圧機や魔導配電盤を再び動かすためには、単に起動つまみを戻すだけでは済まない。管内の空気抜きや、過負荷を防ぐための手動弁の段階的な開放など、専門の復旧人員による物理的な作業が必要不可欠だった。
「西区へ派遣できる復旧班は、現在三チームのみだ! それ以上は他区の安全維持に支障が出る!」
設備局の幹部が声を荒らげる。
グレン・ハルバートは、壁の遠話器から飛び込んでくる五人の生徒たちからの現場報告を書き留め、都市魔導庁長官オスカー・ルイスの机へ提出し続けていた。
ノエルからの観測値、エダと行動するマリエルからの治療所の状況、バルトからの配水路の物理的構造。
グレンも五人も、現場の正確な情報を上げることはできる。だが、限られた三つの枠にどの機能を割り当てるのか、都市の優先順位を単独で決める権限はない。
各専門の責任者たちが、それぞれに必要人員と復旧の所要時間をオスカーへ提示する。
「長官! 西三区の染色工房から悲鳴が上がっています! このまま水が止まり続ければ、今日仕込んでいる高価な染料と布がすべて斑になり、莫大な損害が出ます!」
「街灯の魔導回路を先に戻さなければ、夜間の治安が維持できません!」
喧騒の中、オスカーは提出された報告書と、黒板の六つの候補を、表情を動かさず見比べた。
全員を救う魔法はない。
「……優先順位を決定する」
オスカーの低く通る声に、暫定運用室が静まり返った。
「第一に飲料水、第二に共同治療所への給水、第三に火災延焼を防ぐための消火用水。この三つの系統を先に戻す。……浴場、街灯、染色工房の復旧は、その後へ回せ」
「長官! それでは工房の仕掛品が全滅します! 商人たちの怒りをどう収めるおつもりですか!」
「怒りは私が受ける。工房の損失額、浴場の営業停止による違約金、街灯停止で必要になる警備増員の人件費。すべて正確に記録し、損害票として明日の公表資料へ添付しろ」
オスカーは、都合よく「非常時だから」と損失を隠蔽したり、奇跡的な魔法で全てを解決したりはしなかった。商人の怒りも住民の不満も、すべて逃げずに真正面から行政が引き受ける損失として記録する覚悟だった。
「ルイス長官」
焦った一部の役人が、オスカーにすがりつくように言った。
「被害をこれ以上拡大させないために、例の『主中継核切離し』の決断を! 都市核を切り離して、喰魔種や魔力低下の影響を物理的に遮断すれば――」
「却下する」
オスカーはその甘い誘惑を、一刀両断に切り捨てた。
「あの手段は、都市の基幹系統が崩壊する直前の最後のカードだ。一区画の局地空白と数時間の設備停止に対して都市全体の心臓を物理的に破壊し、全域を数年にわたる復旧へ追い込む気か。手段の重さを履き違えるな」
禁じ手は、便利には使われない。
オスカーの揺るぎない判断に、運用室の役人たちは弾かれたように自らの持ち場へと戻り、指定された三系統の復旧指示を現場へ飛ばし始めた。
だが、それでもまだ現場の復旧人員は足りていない。
グレンは壁の時計と、自分の手帳に挟まれた『九十日試行・訓練予定表』を交互に見つめた。
今日この後も、王都の六現場では、万が一の危機に備えるための限定試行訓練が組まれている。そこには、カルド分校から派遣された貴重な教員(講師)たちが張り付いていた。
(……備えは必要だ。だが)
グレンは、傍らに立つヘレナ・ヴェイスへ視線を向けた。彼女もまた、小さく頷いている。
「運用室、聞いてくれ」
グレンは声を張り上げた。
「本日の午後から予定されていた、六現場での限定試行訓練はすべて『中止』する。各現場へ指導に出ているカルド分校の教員と技術員を、全員西区の飲料水と治療所の復旧支援へと回してくれ」
「ハルバート教官。よろしいのですか?」
オスカーが眉をひそめて問う。
「あなたが心血を注いで制度化した訓練だ。ここで中止すれば、九十日試行の日程に遅れが出るぞ」
「構わん。制度を守るために、目の前の現場を犠牲にはしない」
グレンは自らの理想を後回しにする痛みを引き受けた。未来の危機への備えよりも、今日の西区の喉の渇きを癒すことの方が、今は重いのだ。
数時間後。
カルド分校からの応援人員が合流したことで、西区の飲料水、共同治療所、消火用水の三系統は、限定的ではあるがようやく復旧した。
遠話器越しに、五人の生徒たちの働きが断片的に伝わってくる。
だが彼らは、魔法で一気に街を救ったわけではない。
フィオナのL1低消費術は、暗闇の配水所で作業員が弁番号を読むための小さな灯りを提供しただけだ。バルトの絵印札は、給水車に並ぶ人々の列を少しだけ整然と分けただけ。リーゼの定めた権限票は、通信が途絶した数十分の間に、現場の独断で避難路を確保する根拠になっただけ。
彼らが旧坑道調査から九十日試行にかけて積み上げてきた小さな手順は、決して万能の魔法などではなく、ただ物理的な復旧作業を少しだけ助ける、地味な歯車の一つに過ぎなかった。
夕闇が迫る頃。
優先順位から外された西区の染色工房では、高価な布が色斑のまま廃棄され、街灯の点かない暗い裏通りには、警備隊の足音だけが重く響いていた。
全部は戻せなかった。その現実の重さが、王都を覆っている。
連絡所の教官室で、グレンは一人、机の上に広げた『九十日試行・訓練予定表』に向かっていた。
彼は赤いインクのペンを取り、今日から数日間の訓練日程の上に、太く真っ直ぐな中止線を引いた。
「備えを止めて、今日を守る」
グレンの呟きは、誰に聞かせるわけでもなく、静寂の中に溶けて消えた。




