第25話 水が止まると荷も止まる
蛇口が一度咳き込み、細い水流が途切れた。
「主任。別棟の洗浄管、水が止まりました」
王都治癒院の外来処置室で、助手が空の洗浄桶を抱えている。
救護主任ロザ・ヘルムは患者の気道を確保したまま、壁の配管図を見た。
「本院の幹線は生きてる。止められたのは、この別棟だけね」
外来別棟は、古い商業倉庫を改装した建物だった。給水局の台帳では、今も商業用枝管のまま残っている。病院幹線を守り、商業枝管を閉じたガルムの判断は、台帳上は正しい。現実の建物用途だけが、その後に変わっていた。
午前の異常直後は、屋根裏の貯水槽が水圧を保っていた。一時間近く経ち、その蓄えが底をついたのだ。
マリエルは携帯時計を開いた。十二時四十七分。洗浄待ちの処置札は九枚あり、残った樽をこれまで通り使えば三十分も持たない。
「次の補給予定は?」
「通常便なら十五時です」
助手の答えに、待合の家族たちがざわめいた。腕に砂を噛んだ擦過傷の少年が、母親の膝で泣いている。すぐに洗えば感染の危険を下げられるが、隣室には深い切創の患者が二人いる。全員へ同じ量を使うことはできない。
「ノース。清潔水の残りは」
「大樽二つ、小樽一つです」
「小樽は重処置用。軽症の洗浄を後ろへ回す。布と水の追加を物流組合へ」
マリエルは処置札を並べ替えた。水のいらない圧迫と固定を先へ、洗浄が必要な処置を後へ送る。正しい処置を消すのではなく、順番を変えて残量を持たせる。これまで通りなら十三時十七分前に尽きる。だが、使用を制限すれば、十三時半の切替時刻までは延ばせる。
「深い傷を先に洗います。浅い傷は乾いた清潔布で覆って待ってください。十三時半までに補給が来なければ、井戸水を煮沸する手順へ切り替えます」
マリエルは残量、患者数、切替時刻を処置板へ書いた。少年の母親は不安そうに唇を結んだが、順番と次の手が見えたことで、何も言わず清潔布を受け取った。
その横で、エダ・モーンが緊急搬出票を覗き込んだ。
「この紙、倉庫の連中には読めても、途中で手を貸す御者には分かりにくいね」
エダは余白へ、水滴、畳んだ布、急ぐ荷を示す走り車輪の絵を描いた。ロザは一度だけ見て頷き、責任者欄へ署名する。
「絵は補助。品名と数量は消さないで」
「分かってるよ。字の横へ道しるべを置くだけさ」
十二時五十二分。要請内容は復旧した遠話網で先に送り、絵印の付いた搬出票の原紙は伝令へ持たせた。遠話の文面には品名と数量が、原紙には途中で必要になる動作が残った。
*
第三倉庫で票を受け取ったネラ・ドムは、出荷台帳へ赤線を引いた。
「清潔布三十束、水樽十。高級酒と浴場向けの清掃水を後ろへ回す。損失欄には私の名を入れな」
荷主から苦情が来る。一般便も遅れる。それでも、治癒院の残量が尽きる前に一便は出さなければならない。
「主任、浴場組合との定時契約はどうします。向こうも給水停止で、備蓄水を待っています」
帳場係が台帳を抱えて訊いた。治癒院だけが困っているわけではない。浴場では湯を抜いたまま客を待たせ、洗濯場では濡れた布が積まれている。
ネラは治癒院の搬出票にある『清潔水残り三十分』と、浴場便の違約金欄を見比べた。
「浴場へ遅延を知らせる。違約金は組合間で精算。人の傷口は、あとから帳簿で洗えない」
彼女は浴場便の繰下げ欄へ署名した。帳場係も反論せず、治癒院便を出荷列の先頭へ移す。
「主任、中央大通りが北門の渋滞で詰まっています」
「さっき応援便から戻った御者がいたね。ユート!」
馬の鼻面を拭いていた若い御者が顔を上げた。
「北門からここまで、どの道が動いていた」
「北の石畳です。中央大通りは、馬が耳を伏せるくらい騒いでました」
「なら、お前が医療便を引け」
ユートは緊張した顔で頷いた。
治癒院外来別棟は北門寄りにあり、南倉庫からは王都を縦断しなければならない。ネラは道路図を広げ、中央大通りと北の石畳へ指を置いた。
「最短は中央。ただし止まっていたら、待った時刻を書いて北へ回れ。近い道に固執するな」
「はい。十三時十分に出ます」
荷台では、作業員が水樽を一人で持ち上げようとしている。樽の側面には、バルトが残した大きな泥の手形があった。
「手形は二人だ!」
午前に危険通路へ入れられかけた交代要員が声を上げ、反対側を持った。
別の新人は二重結びを『さらに締めろ』の印だと思い、縄へ手を伸ばす。ネラが手首を止めた。
「二重結びは触るな、だ。印だけで分かったふりをするな。意味を声に出せ」
医療優先の樽へ二重結びを足し、全員で意味を復唱した。
ユートは御者台へ上がる前に、治癒院から来た搬出票を手綱の横へ結んだ。水滴と布と走り車輪。荷台を振り返れば、手形と二重結び。
北門で見た停止の手信号と同じだ。知らない者にも、次の一動作だけは渡せる。
「出ます!」
医療便が倉庫を離れる。
治癒院では水の残量が減り、公共浴場では給水再開を待つ列が伸びていた。どの判断も撤回されていない。正しい判断同士の隙間を、紙と荷車が埋めに走った。




