第17話 配属の日、五つの時計
試験から十八日が過ぎた。
王都セレストの駅前にある古ぼけた金物屋で、バルト・エッガーは油まみれのカウンターに銅貨を数枚並べた。
「はいよ。ねじ釘二握り、確かに」
店主は手元の木箱からねじ釘をすくい上げると、横に積まれていた古新聞を一枚破り取り、くるくると器用に丸めて包みを作った。
無造作に差し出されたその包み紙の表面を、バルトは太い指で受け取りながら、じっと見つめた。
文字を読むのが遅い彼には、そこに書かれた細かい活字の長文を瞬時に読み解くことはできない。だが、紙面の中央に大きく印刷された写真――泥だらけの自分たち五人と、背後に聳える東区画の崖――と、見覚えのある『英雄』という文字の形だけで、それが何の記事であるかはすぐに分かった。
東区画での十八名の生還。世間を少しだけ沸かせたあの報道は、数日のうちに消費され、今ではこうしてねじ釘の油を吸うただの古紙へと成り下がっていた。
「どうした、兄ちゃん。しけた面して」
「いや……何でもない。釣りは合ってる。ありがとな」
バルトは何も言わず、自分たちの顔が印刷された包み紙を無造作にポケットへねじ込んだ。
新聞の熱はとうに冷めた。自分たちは英雄でも何でもない、ただの仮任用を控えた落ちこぼれの新人に過ぎないのだと、バルトは朝の冷気の中で再確認していた。
*
「今日から三十日間、あなたたちはそれぞれの配属先で仮任用に入ります」
王立総合実務院の王都仮任用待機所で、分校長のヘレナが配属書を読み上げた。
「資格はあくまで入り口に過ぎません。現場に出れば、あなたたちの指導者は私やハルバート教官ではなく、各配属先の主任や隊長になります。それぞれの職場の指揮系統に絶対に従うこと」
並んで話を聞く五人の間に、少しだけ緊張が走った。
配属先は、当然ながらバラバラだ。東区画では五人の欠点を互いに補えたが、今日からは違う。文字を追うのが遅いバルトをリーゼが助けることも、魔力感知のできないノエルを他の者が補うこともできない。
五人はそれぞれ、自分の弱点を抱えたまま、一人で現場の一員になる。
「私からの説明は以上です。ハルバート教官、最後に訓示を」
ヘレナに促され、壁際に立っていたグレンが前に出た。
だが彼は、激励の言葉も、気を引き締めるようなお説教も口にしなかった。代わりに、背負っていた鞄から小さな麻袋を取り出し、五人の前に置いた。
「各自、一つずつ持て」
袋の中に入っていたのは、真鍮製の安価な携帯ばね時計と、数枚の小さな紙片だった。
「時計?」
「そうだ。今後三十日間、仕事中に異常を最初に認めた時刻、判断して対応を始めた時刻、復旧または安全を確認した時刻を、同じ携帯時計で別々の欄へ残せ。職場の魔導記録と食い違っても、絶対に書き直したり消したりするな」
リーゼが不思議そうに時計の蓋を開ける横で、フィオナがむっとした顔で言った。
「どうしてですか? 王都の職場なら、正確な自動魔導記録器があるはずです。教官は、魔導記録を疑ってるの?」
「片方だけを信じるなと言っているんだ」
グレンは静かに答えた。
「試験の前に起きた三秒の瞬断を覚えているな。あの時、魔導記録だけでは、それが器具の個別故障なのか、広域の波なのかを比べる証拠が足りなかった。違いが紙に残っていれば、後からどちらが間違えていたかを調べられる。それに……」
グレンは五人を見渡した。
「人間は焦ると、限界時間を自分の都合のいいように長く見積もろうとする。現場の時計と自分の時計、二つの基準を持て。自分たちで決めた中止条件を守るための、それは命綱だ」
時計は未来を予知しない。ただ、自分が決めた限界を越えていないかは測れる。
五人は渡された真鍮の時計を、制服のポケットへしっかりと仕舞い込んだ。
その後、グレンに連れられて外へ出た五人は、王都の中央広場に立っていた。
目の前には、都市の時間を告げる巨大な機械鐘が聳え立っている。
「時計を出せ。間もなく八時だ」
グレンの指示で、五人とグレンの計六人が、手元のばね時計を開いた。
「いいか。針を無理に鐘へ合わせる必要はない。安物の時計は必ずズレる。鐘が鳴った瞬間に、自分の時計の秒針がどこを指していたか。その『鐘との差』を紙に書いておけ」
ゴオォォォン、と。
重厚な鐘の音が広場に響き渡った。
その瞬間、六人は一斉に手元の秒針を読み、渡された紙片へペンを走らせた。
「……私の時計は、鐘より十秒早い」
「俺のは差なしだ。さすが日頃の行いだな」
リーゼの呟きに、バルトが笑う。ほかの紙片にも、フィオナは『二秒早い』、マリエルは『三秒遅い』、ノエルは『五秒遅い』、グレンは『六秒早い』と残した。進みをプラス、遅れをマイナスとして、六人が符号まで書き添える。
時計の蓋裏には、グレンが配布前日に一つずつ測っておいた簡易歩度票が挟まれていた。前日の四時間検査では、どの時計も追加の進み遅れは一秒未満。秒単位の照合では、朝の鐘との差を戻せば足りる。
「よし。行け」
グレンの短い声に見送られ、五人は別々の方向へと歩き出した。
彼らが次に正式な同期として顔を合わせる予定は、三十日の仮任用が終わった後だった。少なくともこの時点では、五人ともそう聞かされていた。互いに振り返ることなく、リーゼは北へ、フィオナは西へ、バルトは南へと、王都の群衆の中へ紛れていく。
*
配属先には東区画の記事を知る者と知らない者がいたが、五人は等しく、ただの新人として初日の業務に就いた。
そしてグレンの教えの通り、初任記録の余白に『職場の壁時計との差』を書き込んだ。
各職場には、平時の正式時刻を示す魔導同期表示もある。だが、異常でその表示自体が停止・欠測した場合、最初の事故速報には、同期網から独立した壁の機械時計を転記する規程だった。その単独時計は日常の業務目安に過ぎず、平気で数分のズレが生じている。
王都北警備門に配属されたリーゼが確認した門の時計は、彼女の携帯時計より二分遅れていた。
都市給水局西系統のフィオナの職場では、壁時計が一分進んでいた。
王都治癒院外来のマリエルは、一分遅れ。
西郊地脈測量隊のノエルの現場は、二分進み。
南物流組合倉庫のバルトの現場は、ほぼ一致。
そして、カルド分校王都連絡所の教官室へ戻ったグレンは、勤務控えの余白に『連絡所壁時計、一分二十四秒遅れ』と書き込んだ。
五人の新人と、一人の教官。
彼らは互いの現場が今どうなっているのか、知る由もない。グレンもまた、教育者として現場へ割り込む権利を持たず、王都連絡所で報告を待つしかなかった。
チクタク、チクタク、と。
離れた六つの場所で、懐中のばね時計が規則正しい音を立てていた。
誰も気づいてはいない。
正午前。
五つの職場時計は、五つの違う『分』を指す。
その一方で、五枚の差分控えには、朝の鐘から離れずに進んだ秒針の跡が残る。今はまだ、誰も紙を並べてはいなかった。




