第1話 先生のいない試験場
同期音が不規則な唸りを上げ始めた時、それがただの不具合ではないと気づいた者は少なかった。
ハイゼル実地試験林、東区画。
王立総合実務院の統一資格試験、その最終実地課題の最中だった。
十八名の受験生は、旧坑道の上に架かる魔導橋の半ばにいた。
青白い中継核が二度脈打ち、谷から色が失われた。魔導灯が消え、地図の像が崩れ、通信器は沈黙する。身体強化を失った者が硬い床材へ膝をつき、装甲の金具が暗闇で鈍く鳴った。
「地図が消えた!」
「予備通信も繋がらない!」
「待って、外気と同調できない。術式が崩れる……!」
優秀な中央校生を含め、声が橋の上でぶつかり合った。能力が消えたのではない。それを支えていた前提が、まとめて抜け落ちたのだ。
「セドリック、指示を!」
呼ばれた首席候補は、動かなくなった装甲板を外した。
「僕では無理だ、リーゼ。外部同期を使わない君たちの手順へ替える」
その一言で、リーゼは胸元の紙片を握った。
「全員、その場から動くな! まず人数確認! 私の声が聞こえる者は返事をして!」
返事が暗闇を一周する。十八。まだ全員いる。
「ノエル、異常の兆候は」
「事実。橋の下で、予備ロックが二度空打ちしました。右の斜面から水が出ています。転倒で、全員の重さが右へ寄った」
細身の青年は一度息を吸った。
「推測。橋脚側の斜面が滑ります。確信、七割」
直後、足元で石が擦れ、泥の中を斜面が動いた。
そのさらに奥から、別の音が近づいてくる。岩を噛み砕くような、規則的な音だった。
ここに先生はいない。魔法の補助も届かない。
それでも、生き残るための手順は残っている。
これは、才能のない五人が、先生抜きで十八名の返事を数え、その先でも授業を終わらせないための物語。
時を遡ること、七十四日。
北西の辺境、王立総合実務院カルド分校の一室から、すべての授業は始まった。
*
「……最悪の気分ね」
木張りの床が軋む小さな教室で、小柄な少女フィオナが深いため息をついた。淡い金髪を指で弄りながら、彼女は周囲を見渡す。
教室にいるのは、フィオナを含めて五人だけだった。年齢も志望職もばらばらで、誰も隣と目を合わせない。扉の上には、まだ木の匂いのする『補完実務班』の札が掛かっている。
第一期生。聞こえはいい。専門課程で基準に届かなかった者を集めた班だということを、五人とも知っていた。
「新しい教官って、どんな人なんだろうな。どうせ俺たちを見下して……」
バルトが太い腕を組んでぼやきかけた時、教室の扉が音もなく開いた。
現れたのは、灰色の混じった短髪に、日に焼けた肌を持つ中年の男だった。年齢は五十代前半。筋骨隆々というわけではないが、無駄な肉がなく、長時間の過酷な労働に耐えうる現場作業員のような体つきをしている。左手には古い傷跡があった。
彼は教卓の前に立つと、名簿を一瞥した。
「グレン・ハルバートだ。実地基礎を担当する」
声は静かで、余計な抑揚がなかった。威圧感はないが、彼の深い瞳に見つめられると、五人は不思議と背筋を正さずにはいられなかった。
グレンは自己紹介もそこそこに、持っていた麻袋をドン、と教卓の上に置いた。中から出てきたのは、さび付いた手動の滑車と、留め金が歪んだ機械錠、そして数本の擦り切れたロープだった。
「挨拶はいい。中庭に、土の詰まった木箱が三つ置いてある。魔法で箱を直接動かすのは禁止。この道具と人力で、十メートル先の枠へ移せ。時間は三十分だ」
それだけ言うと、グレンは教室を出て中庭へと向かってしまった。
残された五人は顔を見合わせる。能力測定でもなく、座学でもない。ただの力仕事に、しかも壊れかけの道具。意図が全く読めなかった。
中庭に出ると、確かに重そうな木箱が置かれていた。
五人は戸惑いながらも作業に取り掛かったが、結果は見るも無惨なものだった。
「待って、この滑車、軸が歪んでるわ。魔法で軸を真っ直ぐに――駄目、私の出力じゃ鉄は曲げられない」
「フィオナ、退いてろ。俺が手で運ぶ」
バルトが力任せに木箱を持ち上げようとするが、一人で抱えられる重量ではない。腰を痛めそうになるバルトを見て、マリエルが慌てて駆け寄る。
「駄目です、そんな無理をしたら筋繊維が断裂します! やめてください!」
「でも、魔法も道具も使えないなら力業しかないだろ!」
「ノエル! 何かいい方法はないの!?」
リーゼが叫んでも、ノエルは木箱と滑車を見比べたまま答えない。口が一度だけ動き、閉じた。
リーゼはバルトを止めるべきか、滑車を直すべきか、残り時間を数えるべきか決められず、同じ場所で二度足踏みした。
結局、三十分が経過しても、木箱は一メートルたりとも動かなかった。
五人は息を切らし、泥に汚れ、互いに険悪な視線を向け合っていた。魔法が使えない、最新の補助もない状況下で、彼らは見事に瓦解した。
その間、グレンは少し離れた場所で、懐中時計と五人の足元を交互に見ていた。ノエルの口が閉じた時、リーゼが二度足踏みした時、短く紙へ線を引いた。
「時間だ」
グレンの静かな声で、五人は動きを止めた。
リーゼが唇を噛み締め、俯く。能力不足を見せつけた自分たちは、ここで「お前たちには才能がない」と切り捨てられるのだと思った。
しかし、グレンは彼らの能力を責める言葉を口にしなかった。
彼は教室に戻ると、黒板に白墨で一つの言葉を書き記した。
『できないことを隠さない』
五人はその文字を呆然と見つめた。
グレンはチョークを置き、振り向いて彼らを見た。
「お前たちが各課程で落第した理由は知っている。だが、私はお前たちの欠点を直してやるつもりはない」
フィオナが顔を上げた。グレンは声を強めなかった。
「魔法が止まった時、できないことを隠す人間から死んでいく。才能がないなら、才能がなくても失敗しない手順を覚えろ。欠点があるなら、それを全員で共有し、道具と役割分担で補え」
グレンは黒板の文字を指差した。
「明日の授業は、自分が『何ができないか』を全員の前で言ってもらう。以上だ」
五人が退出した後も、黒板の白い文字だけは消されなかった。




