第4話
扉の向こうは、驚くほど静まり返っていた。
案内役の上級侍女が、息を殺してわたくしを部屋の中へと導く。
「皇子様、新しい侍女のセリアにございます」
天蓋付きの広大なベッド。カーテンが固く閉ざされ、薄暗い室内には、乾燥した薬草と消毒液の匂いが混じり合って、重く澱んでいた。
そのベッドの上で、一人の青年が上半身を起こして書物を読んでいた。
彼が、レオルド・フォン・エルミット第一皇子。
窓から差し込むわずかな光が、彼の横顔を照らし出す。磨き上げられた黒曜石のような髪、彫刻のように整った鼻梁、そして、固く結ばれた薄い唇。その美しさは、まるで人間離れしているかのようだった。
しかし、それ以上にわたくしの目を引いたのは、彼の肌の青白さと、瞳に宿る深い絶望の色だった。
病が彼の生命力を蝕んでいるのが、痛いほど伝わってくる。
「……また新しい者か。下がらせろ。騒々しいのは好かん」
書物から目を離さぬまま、彼は冷たく言い放った。
その声は、冬の夜気のように凍てついていて、人を寄せ付けない鋭さがあった。彼が「氷の皇子」と呼ばれている所以を、一瞬で理解した。
「ですが、殿下……。彼女は薬草の扱いに長けておりまして……」
「聞こえなかったか? 下がらせろと言った。どうせすぐに辞める者に、名を覚える手間をかけさせるな」
有無を言わせぬ、絶対零度の声。
上級侍女は、「申し訳ございません」と小さく謝罪し、わたくしの腕を引いて部屋から出ようとした。
(このまま、引き下がるわけにはいかない)
わたくしは、その手をそっと振り払うと、一歩前へ進み出た。そして、背筋を伸ばし、はっきりとした声で言った。
「わたくしは、辞めません」
その言葉に、レオルド皇子が初めて書物から顔を上げた。
射抜くような、鋭い黒い瞳が、まっすぐにわたくしを捉える。その視線に、思わず息を呑んだ。
「……ほう。面白いことを言う」
彼は、皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「俺のそばにいて、何ができる? 国の最高峰の侍医も、高名な治癒術師も、誰も俺の病を治せなかった。薬草に詳しいだけの小娘に、一体何ができるというのだ」
「治療は、わたくしの役目ではございません。ですが、殿下のお側で、少しでも心安らかにお過ごしいただけるよう、環境を整えることはできます」
「心安らか、だと? 死を待つだけの男に、安らぎなどあるものか」
自嘲的な笑みが、彼の美しい顔を歪ませる。
けれど、わたくしは彼の瞳の奥に、絶望だけではない、別の色を見つけていた。
それは、諦めきれない、生への渇望。
あまりに強すぎる光は、深い闇を生み出す。彼はきっと、誰よりも強く生きることを望んでいるのだ。
「……好きにしろ。だが、俺の視界に入るな。目障りだ」
それだけ言うと、皇子は再び書物に目を落としてしまった。
それは、拒絶の言葉でありながら、同時に滞在の許可でもあった。
わたくしは黙って一礼し、部屋の隅へと下がった。
それから、わたくしの静かな戦いが始まった。
皇子の目に付かないよう、気配を殺して部屋の掃除をし、空気を入れ替える。
乾燥しすぎないよう、水盤に安眠効果のあるハーブを浮かべた。
食事には、消化を助ける温かいスープを必ず一品添えるよう、厨房に頼んだ。
わたくしは、決して彼に話しかけなかった。
ただ、彼の呼吸が少しでも楽になるように、彼が眠る夜に悪夢を見ないように、それだけを願って、黙々と仕えた。
わたくしが彼の部屋付きになって、一週間が過ぎた頃。
変化は、ごくごくと僅かな形で現れ始めた。
「……咳が、少しだけ治まっているような……」
「夜も、以前よりは眠れているご様子だ」
他の侍女たちが、そんな風に囁き合うようになった。
もちろん、わたくしの力のおかげだなんて、誰も思っていない。偶然か、これまで投与されてきた薬がようやく効き始めたのだろうと、誰もが考えていた。
(違う。これは、わたくしの力……)
腕輪で封じているとはいえ、わたくしの持つ癒やしの力は、微かにオーラのように身体から発散されているらしい。
それは、病そのものを完治させるほどの力はないけれど、すぐそばにいる人の苦痛を、ほんの少しだけ和らげる効果があるようだった。
そして、その変化に最も早く気づいたのは、レオルド皇子自身だった。
その日、わたくしはいつものように、彼の飲む白湯の準備をしていた。
すると、背後から、不意に声がかけられた。
「お前」
呼ばれたことに気づかず、作業を続けていると、少し苛立ったような声が続く。
「おい、そこの侍女。お前のことだ」
はっとして振り返ると、レオルド皇子がベッドの上から、じっとわたくしを見つめていた。
初めて、彼の方から話しかけられた。
「……はい。何か、御用でございましょうか」
「お前がこの部屋に来てから、少しだけ、呼吸が楽になった気がする」
彼の黒い瞳が、探るようにわたくしの目を見る。
心臓が、どきりと跳ねた。
「……気のせい、ではございませんか。わたくしは、何も……」
「気のせいではない。長年この苦痛と付き合ってきた俺が言うのだから、間違いない」
彼は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「お前が淹れた薬湯を飲んだ時も、そうだった。……お前は、一体何者だ?」
まっすぐな問い。
嘘はつけない。けれど、本当のことも言えない。
わたくしが言葉に詰まっていると、彼はふっと息を吐いて、視線を逸らした。
「……まあ、いい。何者でも構わん。もう少し、近くにいろ。……俺が眠るまででいい」
それは、命令でありながら、どこか子供が助けを求めるような、弱々しい響きを帯びていた。
心を閉ざした氷の皇子が見せた、初めての綻び。
わたくしは、静かに頷いた。
「……御意のままに」
その夜、わたくしは彼のベッドのそばの椅子に座り、彼が眠りにつくまで、静かに寄り添った。
規則正しい寝息が聞こえ始めた時、彼の顔を見ると、その表情がほんの少しだけ、穏やかになっているように見えた。
わたくしの左手首で、祖母の腕輪がひんやりとした熱を帯びている。
この小さな温もりが、彼の深い孤独を少しでも癒やすことができるのなら。
今はまだ、それで十分だと思った。
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レオルド皇子がわたくしを側に置くようになってから、彼の様子は目に見えて落ち着いていった。
もちろん、病が快方に向かっているわけではない。相変わらず彼の身体を蝕む『魔力枯渇病』は、じりじりとその生命力を奪い続けていた。
しかし、少なくとも、彼の表情から常時浮かんでいた険しさが、少しだけ和らいだのは確かだった。
眠れない夜には、わたくしに古い歴史書や詩集を読み聞かせるよう命じるようになった。彼の低い声で紡がれる物語を聞きながら、椅子に座って静かに寄り添う。それはいつしか、わたくしたちの間の、ささやかな習慣になっていた。
「……その本は、建国王の英雄譚か。子供の頃、よく読んだ」
「まあ。どのようなお話なのですか?」
「竜を退け、国を興した偉大な王の物語だ。……今の俺には、眩しすぎるな」
時折、彼がぽつりと漏らす言葉に、わたくしは相槌を打つ。
彼の孤独、無念、そして王族としての責任感。言葉の端々から、彼の内面が少しずつ見えてくるようだった。
彼もまた、わたくしと同じように、見せかけの価値ではなく、その本質を見ようとする人なのだと感じた。
「お前は、あまり自分のことを話さないな」
ある日、読み聞かせの途中で、彼が不意に言った。
「なぜ、城で働くことにした? お前ほどの知識があれば、街で薬師として十分にやっていけるだろうに」
「……わたくしには、果たさなければならない目的があるからです」
それ以上は、言えなかった。
皇子様の病を治すためです、などと、どうして言えるだろう。
わたくしが口ごもるのを見て、彼もそれ以上は追及せず、「そうか」とだけ呟いた。
そんな穏やかな日々は、しかし、唐突に破られた。
嵐が王都を叩きつける、激しい雨の夜だった。
夜半過ぎ、皇子の部屋から、侍女の悲鳴が上がった。
わたくしが駆けつけると、そこにはベッドの上で激しく咳き込み、身体を海老のように折り曲げて苦しむレオルド皇子の姿があった。
「皇子様! しっかりなさってください!」
「侍医を! 早く侍医をお呼びして!」
部屋は大混乱に陥っていた。
皇子の顔は土気色になり、唇は紫色に変色している。ぜいぜいと鳴る喉からは、空気を求める苦しげな音だけが漏れていた。
今までで、最も激しい発作だった。
すぐに駆けつけた侍医も、ただ首を横に振るばかりだった。
「もはや、手の施しようが……。今夜が、峠かもしれん……」
その絶望的な言葉に、周囲の侍女たちが泣き崩れる。
わたくしは、ただ茫然と立ち尽くしていた。
駄目だ。このままでは、彼は死んでしまう。
わたくしがここに来た意味が、なくなってしまう。
(どうすれば……。どうすれば、この苦しみを取り除いてあげられるの……?)
腕輪の力が、無意識に漏れ出すだけでは足りない。
もっと強い力を、彼の身体に直接注ぎ込まなければ。
でも、もし失敗したら?
かつて、薔薇園を枯らしてしまったように、彼の生命力を、逆にすべて奪い尽くしてしまったら?
恐怖が、全身を縛り付ける。
足が震え、動けない。
その時だった。
苦しみ喘ぐ皇子が、最後の力を振り絞るように、わたくしの方へとかすかに手を伸ばした。
その黒い瞳が、助けを求めるように、まっすぐにわたくしを捉えている。
(……ああ)
その瞳を見て、わたくしの迷いは消えた。
失敗するかもしれない。
彼を殺してしまうかもしれない。
わたくし自身、この力が暴走してどうなるか分からない。
でも、このまま彼が死ぬのを、黙って見ていることだけは、絶対に嫌だ。
わたくしは、侍医や他の侍女たちを押し退け、彼のベッドサイドに駆け寄った。
そして、ためらうことなく、冷たくなった彼の手を、両手で強く握りしめた。
「セリア! 何をしている!」
誰かの制止の声が聞こえたが、もう耳には入らない。
(お願い、この人に、力を……! 生きて……!)
心の底から、強く、強く願う。
左手首の腕輪が、まるで悲鳴を上げるように、じりじりと熱くなった。
抑制されていた力が、堰を切ったように溢れ出す。
わたくしの手のひらから、柔らかな、金色の光が放たれた。
その光は、瞬く間にレオルド皇子の身体を包み込む。
それは、祖国の聖女様が使うような、きらびやかで派手な光ではない。まるで陽だまりのような、温かく、穏やかで、生命力に満ちた光だった。
「……っ、これは……!?」
「ひ、光……? 治癒魔法か……!?」
周囲の驚愕の声を背景に、奇跡は起きた。
あれほど激しかった皇子の咳が、ぴたりと止んだのだ。
苦痛に歪んでいた彼の表情が、まるで安らかな眠りに落ちたかのように、穏やかになっていく。
土気色だった肌に、わずかに血の気が戻り、紫だった唇も、常の色を取り戻していた。
やがて、光が収まった時。
部屋には、嵐の音と、皇子の静かで規則正しい寝息だけが響いていた。
「……発作が、治まった……? 馬鹿な……」
侍医が、信じられないものを見る目で、皇子とわたくしを交互に見ている。
わたくしは、自分の手のひらを見つめた。
まだ、じんわりと温かい。
これが、わたくしの本当の力。【聖癒】。生命を与え、育む、原初の力。
ほっと安堵のため息をついた、その時。
意識を取り戻したレオルド皇子が、わたくしの腕を、弱々しいながらも確かな力で掴んだ。
「……今のは……お前の、力か……?」
彼の黒い瞳が、驚きと、そして確信の色を帯びて、わたくしを射抜いていた。
もう、誤魔化すことはできない。
わたくしは、彼のまっすぐな視線を受け止め、静かに、そして強く、頷いたのだった。




