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無能才媛と蔑まれた私の魔力が【聖癒】だと誰も知らない~婚約破棄されたので、隣国の不治の病に苦しむ皇子をこっそり救いに行きます~  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第3話

満月が西の空に傾き始めた頃、わたくしは小さな荷物一つを背負い、誰にも気づかれずにヴァイスハイト公爵家を抜け出した。

祖母が密かに用意してくれていた隠し通路は、庭の片隅にある古い礼拝堂の地下へと続いていた。ひんやりとした石の階段を下りるたび、これまでの人生を一段ずつ葬り去っていくような、不思議な解放感があった。


通路の先は、屋敷から随分と離れた森の中へと繋がっていた。振り返っても、もうあの息の詰まる屋敷の灯りは見えない。


「さようなら、セレスティア・フォン・ヴァイスハイト」


小さく呟き、わたくしは過去の自分に別れを告げた。

これからは、ただのセリア。

誰にも縛られず、自分の意志で歩む、一人の人間だ。


祖母が遺してくれた金貨と宝石は、当面の生活には十分すぎるほどの額だった。それを元手に乗り合いの幌馬車に揺られること、数日。国境を越え、隣国エルミットの王都にたどり着いた時には、すっかり庶民の娘らしい、くたびれた旅装が板についていた。


エルミットの王都は、質実剛健でありながら、どこか活気に満ちていた。

石畳の道を陽気な人々が行き交い、露店からは香辛料や焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。わが祖国グランデールが華美と格式を重んじるのとは対照的な、自由で穏やかな空気が流れていた。


(けれど……)


街の人々の明るい表情の裏に、ふと影が差す瞬間があることに、わたくしはすぐに気がついた。

それは、城の方角に目をやった時や、国の未来について語り合う時。


「レオルド皇子様、お可哀想に……」

「ああ、あの方こそが我らの希望だったというのに……」

「原因不明の病とは、神も見放されたものだ……」


宿屋の食堂や市場の片隅で、そんな囁きが聞こえてくる。

聡明で慈悲深く、次期国王として国民から絶大な支持を得ていた第一皇子レオルド。彼の病は、この国全体に重く暗い影を落としているのだ。

その事実が、わたくしの決意をより一層固くさせた。


問題は、どうやって皇子様に近づくか、だ。

正面から城の門を叩き、「わたくしが皇子様を癒やします」などと叫んだところで、頭のおかしな娘として衛兵に追い返されるのが関の山だろう。


わたくしは、まず情報を集めることにした。

数日間、城下で暮らしながら、城で働く人々の噂に耳を澄ませる。

すると、一つの好機が舞い込んできた。


王城の薬草園で、人手が足りずに困っているらしい。

皇子様の病状が悪化するにつれ、あらゆる薬草や治療法が試されるようになり、薬草の管理と調合を行う侍女や庭師たちが、猫の手も借りたいほど多忙を極めているというのだ。

しかも、その仕事は専門知識を要するため、通常の侍女募集とは別枠で、身元が多少不確かでも、薬草の知識がある者なら見習いとして雇い入れる可能性がある、とのことだった。


(これしかない……!)


公爵令嬢としての教育は、こんなところで役に立つものなのね。

王太子妃教育の一環として学んだ薬学と植物学の知識は、そこらの侍女には負けない自負がある。


わたくしはなけなしの金で一番粗末だが清潔な服を買い求め、髪を無造作に一つに束ねると、城の通用門へと向かった。

名前は、セリア。

遠い田舎の村で、薬師の祖母から薬草について学んだ、と身の上を語った。もちろん、すべて作り話だ。けれど、長年虐げられ、感情を押し殺すことに慣れていたせいか、嘘をついても顔色一つ変わらない自分に、少しだけ嫌気がさした。


幸運にも、面接官だった初老の侍女長は、わたくしがいくつかの薬草の名前と効能を淀みなく答えると、深く頷き、その場で見習いとしての採用を決めてくれた。


「ほう、大したものだ。若いのに随分と勉強しているようだね」

「ありがとうございます。お役に立てるよう、精一杯頑張ります」

「期待しているよ、セリア。……皇子様のためにも、頼む」


最後の言葉に込められた切実な響きに、胸が締め付けられる。

こうしてわたくしは、驚くほどあっさりと、エルミット王城での居場所を手に入れたのだった。


薬草園での仕事は、想像以上に過酷だった。

早朝から薬草を摘み、種類ごとに仕分けし、乾燥させ、保管する。一日中土と植物の匂いに塗れ、指先はささくれ、爪の間には土が入り込んだ。夜は、侍女たちが共同で使う屋根裏の小さな部屋で、固いベッドに倒れ込むように眠る毎日。


けれど、不思議と苦ではなかった。

誰かの指図ではなく、自分の意志で働き、自分の力で一日を終える。その充足感が、肉体的な疲労を上回っていた。

ヴァイスハイト公爵家で、ただ息を潜めて生きていた頃に比べれば、今の生活はずっと自由で、人間らしい。


働き始めて一月が経った頃。

わたくしの真面目な働きぶりと薬草に関する知識は、侍女たちの間でも少しずつ認められるようになっていた。


そんなある日、わたくしは侍女長に呼び出された。


「セリア、お前に新しい役目を与える」


てっきり、見習いから正式な薬草係に昇格でもするのかと思っていたわたくしに、侍女長は思いもよらない言葉を告げた。


「明日から、レオルド皇子様の部屋付き侍女の一人になってもらう」


「……え?」


思わず、素っ頓狂な声が出た。

聞き間違いだろうか。一介の、しかも身元不確かな見習い侍女が、皇子の部屋付き? あり得ない。


「どうして、わたくしが……?」

「お前の調合した薬湯を皇子様にお出ししたところ、ほんの少しだが、呼吸が楽になられた、と仰ったのだ」


侍女長は、縋るような目でわたくしを見つめる。


「もちろん、気休め程度のことかもしれん。だが、今の我々にとっては、藁にもすがりたい思いなのだ。お前が管理した薬草には、何か特別なものがあるのかもしれない。それに、お前のその、落ち着いた佇まいも気に入った。今の皇子様の側には、お前のように物静かで、気の利く者が必要だ」


(わたくしの、調合した薬湯……?)


特別なことなど、何もしていない。

ただ、教えられた通りに薬草を調合し、皇子様が少しでも安らぎますように、と心の中で祈っただけだ。


まさか。

あの力が、腕輪で封じているはずの力が、無意識のうちに漏れ出して、薬湯に影響を与えたとでもいうのだろうか。


だとしたら、これは千載一遇の好機。

危険な賭けでもあるけれど、この機会を逃すわけにはいかない。


「……謹んで、お受けいたします。セリア、身命を賭して、皇子様にお仕えいたします」


深く頭を下げるわたくしに、侍女長は「頼んだぞ」と、震える声で言った。


翌日、わたくしは真新しい侍女服に身を包み、城の最上階にある皇子の私室へと向かった。

分厚く重々しい扉の前で、心臓が早鐘のように鳴る。

これから会う人は、わたくしがこの国に来た目的そのもの。

そして、わたくしの人生を懸けた、希望そのものだった。

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