第2話
公爵家の屋敷に帰り着いたわたくしを待っていたのは、予想通りの嵐だった。
「我が家の恥晒しめが!」
応接室に入るなり、父親であるヴァイスハイト公爵の怒声が飛んできた。
重厚な執務机に置かれていたであろう高価なガラスペンが、彼の怒りに任せて床に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散る。
その破片が、パーティーで履いていた豪奢なドレスの裾を飾るレースに、ちりりと引っかかった。
「殿下から婚約を破棄されたばかりか、聖女様を突き飛ばすとは! お前はヴァイスハイト家の顔に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ!」
母親はソファで泣き崩れ、妹のアナスタシアは「お姉様のせいで、わたくしの縁談にまで響いたらどうしてくださるの!」と金切り声を上げている。
いつもの光景。
魔力がないと判明したあの日から、何度も繰り返されてきた光景だった。
わたくしは何も答えず、ただ床の一点を見つめる。
言い返したところで、火に油を注ぐだけだ。
この家で、わたくしに人権などない。あるのは、公爵家のための道具としての価値だけ。そして今日、その価値は完全に失われた。
「もはやお前を置いておく価値もない! 自室で謹慎していろ! 追って沙汰を言い渡す!」
父親の言葉を合図に、わたくしは一礼し、静かに部屋を出た。
背後で扉が閉まる重い音が、まるで監獄の門が閉ざされたかのように響いた。
自室に戻り、一人になる。
メイドたちも、今日の出来事を知ってか、遠巻きにわたくしを見つめるだけで誰も近寄ってはこない。
重たいドレスを自分で脱ぎ捨て、簡素な部屋着に着替えると、どっと疲れが押し寄せてきた。
窓際の長椅子に腰を下ろし、ぼんやりと月を見上げる。
今夜は満月。
静かな月の光が、がらんとした部屋を銀色に照らしていた。
(これから、どうなるのかしら……)
修道院に送られるのが、関の山だろうか。
あるいは、どこか辺鄙な土地の、物好きな貴族の後妻にでも押し付けられるのかもしれない。
どちらにせよ、ここにわたくしの居場所はもうない。
ふと、左手首にはめられた腕輪に目が留まった。
細かな傷のついた、古びた銀の腕輪。
これは、五年前に亡くなった、唯一の味方だった祖母の形見だ。
『セレスティア。お前の力は、特別なもの。決して、その身を苛む呪いなどではないのですよ』
優しかった祖母の声が、耳の奥で蘇る。
腕輪にそっと触れると、ひんやりとした金属の感触が肌に伝わった。
これはただの形見ではない。『魔力抑制の腕輪』。
わたくしの、制御できない力を封じ込めるための、最後の枷。
そう。わたくしには、魔力がある。
『無』なんかではない。
むしろ、ありすぎるほどに。
わたくしの魔力は、あまりに特殊で、強力すぎた。
通常の魔力とは異質の、生命そのものに干渉する力。
魔力測定器では計測できず、『無』と判定されただけ。
その力に気づいたのは、八歳の時だった。
母が大切にしていた薔薇園。色とりどりの薔薇が咲き誇る、屋敷で一番美しい場所だった。
ある朝、わたくしが可愛がっていた小鳥が、弱って庭に落ちているのを見つけた。助けたい、元気になってほしい。そう強く願って、小鳥を両手で包み込んだ。
すると、手のひらから温かい光が溢れ出し、小鳥は瞬く間に元気を取り戻して空へ飛んでいった。
奇跡だと思った。
嬉しくて、わたくしは庭の薔薇たちにも、もっと美しく咲いてほしいと願った。
力を、注いだ。
翌日、薔薇園はすべて枯れていた。
黒く、しなびて、まるで生命をすべて吸い取られたかのように。
やり方を間違えたのだ。
わたくしの力は、与えることも、そして奪うこともできる、あまりに危険な力だった。
その日から、わたくしは家族に『不吉な子』と呼ばれ、疎まれるようになった。
わたくしは自分の力が怖くなり、祖母にもらったこの腕輪で、力を固く封印した。
それ以来、力を解放したことは一度もない。
『無能』と呼ばれ、蔑まれる方が、誰かを傷つけるよりずっとましだったから。
そんな過去を思い出していると、部屋の外から侍女たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「聞いた? 隣国エルミット皇国の、レオルド皇子様のこと」
「ええ、なんでも原因不明の『魔力枯渇病』とかで、もう長くはないって……」
「お可哀想に。あれほど聡明で、お優しい方だったのに。どんな治癒魔法も効かないんですって」
(魔力枯渇病……?)
その言葉に、胸がざわりと音を立てた。
エルミット皇国の第一皇子、レオルド様。
わたくしより五つ年上で、その賢君ぶりは我が国にまで聞こえてきていた。数年前から原因不明の病に伏せっているという噂は、耳にしたことがある。
(生命力を、奪われる病……)
それはまるで、かつてわたくしが薔薇園にしてしまったことと同じではないか。
もし。
もし、わたくしの力が、与える力と奪う力、その両方を内包しているのだとしたら。
奪われたものを、もう一度与えることができるのではないだろうか。
今まで、自分の力を役立てようなんて、考えたこともなかった。
怖いだけだった。
また何かを壊してしまうのではないかと、怯えていただけだった。
でも。
このままここにいて、価値のない人間として静かに朽ち果てていくくらいなら。
誰かのために、この禁忌の力を使ってみても、いいのではないだろうか。
たとえそれで、わたくし自身がどうなろうとも。
わたくしは、すっくと立ち上がった。
窓の外の満月が、まるでわたくしの決意を肯定するように、煌々と輝いている。
幸い、公爵家から追放されるのは時間の問題。ならば、その前に、こちらから出ていってしまえばいい。
祖母が、万が一のためにと残してくれた隠し財産もある。旅の支度には十分だ。
行き先は、隣国エルミット。
もう誰にも『無能才媛』だなんて言わせない。
わたくしは、わたくしの価値を、わたくし自身で証明するのだ。
左手首の腕輪を、ぎゅっと握りしめる。
長年、わたくしを縛り付けてきた銀の枷。
それが今、未来への扉を開く鍵のように思えた。




