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最終話





 ジュールという名前の青年を探していた。


 体調を崩したとかいう話で、彼と違う人間が食事を運んできた。


 そっけない態度で、食事を置くと、すぐに部屋から出て行った。


 食事は相変わらず上等なものだったが、味も何もわからなかった。


 ジュールに一緒にいて欲しかった。


 そうすれば、不安も、恐怖も、いなせる気がした。


 胸元のクルスを手繰り寄せながら、きょときょとと、視線をさまよわせる。


 恐ろしいばかりのタピスリーを壁から引き剥がしてしまいたい衝動に駆られる。しかし、近づくのすら、厭わしかった。


 みごとな城だ。


 しかし、陰気な城だ。


 陰気で、不穏な、城。


 それは、城主にも言えた。


 あまりの美貌に、恐怖を覚える。


 赤いくちびるが紡ぐのは、ここちよい言葉だった。


 喉の奥で鈴が転がるような笑い声もまた。


 しかし、ふと気がつけば、その琥珀のまなざしは、凍えた月のように冴え冴えとして、非人間的だった。


 ひとを人として見てはいない。


 どこか、自分を蔑んでいる。


 後頭部が逆毛立つような感覚に、城主との対話が苦痛になった。


 早く嵐がやめばいいのだ。


 そうすれば、ここから出て行ける。


 窓を開けて、雨風に、溜息をついた。


 時間の感覚はすでにない。


 今が朝なのか昼なのか、夜なのか、もはやわからなかった。


 はためくタピスリーに、血の気が引く。


 怖い。


 司教はジュールを探す足を速めた。








「ちょっ、ちょっとまってくれっ」


 ジュールの声には、明らかに狼狽と恐怖とが含まれている。


「なんでっ。事が終わるまで好きにしろっていったの、あんたじゃないかっ」


「あれのやり方は、悠長すぎる」


 いいかげん、待つのも飽きた。


 きっかけを作ってやろう。


「なんのっ」


 くつくつと喉の奥で噛み殺す笑い声。


「ま、まだ痛いって」


 焦った声が、己の窮状を訴える。


「オ、オレを殺す気かっ!」


 甲高い悲鳴が短く響き、布を裂く音が鋭く空気をかき乱した。


 黒い髪黒い瞳の壮年の男が、ジュールを組み敷く。


 肉付きの薄いからだが、赤く染まる。


 首の後ろで褐色の髪を束ねている赤い布がほどけて落ちた。


 それは、室内を照らす炎の色なのか、それとも、羞恥の色なのだろうか。


 司教は、薄く開いたドアの隙間から、ジュールが見知らぬ男に犯される場面を見ていた。


 ジュールの肌は絹よりもすら滑らかそうに、司教の脳裏に刻み込まれた。


 まがうことなき劣情が司教の腰骨をとろとろと焙っていた。








 滴り落ちる水滴の音がやむ。


 カラカラと回る糸車から音が消えた。


 織機のたてる音がやんだ。


「おお」


「おお」


「おお」


 喚起の音色が混じる三つのしわがれた声が、やがて高らかに王子の名を呼ばわった。








 ぼんやりと目を開けた。


 うっすらと光る室内は、見たことがないくらい、きれいだった。


 信じられなくて、目を擦る。


 白と金とやわらかな色調。


 花のいい匂いがする。


 そうして。


「……………」


 自分の手を握り目を閉じている青年。


 そのつややかな黒髪に、整いすぎて見える白皙に、鼓動がひとつ大きく打った。


「ユ……ジィン」


 渇いた喉が、引き攣れて痛い。


 驚いたように自分を見下ろす、琥珀の眸が、まるで泣きそうに、細められた。


「ラウル」


 甘く響く、低い声。


 とても懐かしく思えた。


 涙が出そうなくらい懐かしくてたまらなくなる。


 一目で恋に落ちた相手が、そこにいる。


 恋に落ちて、そうして、すぐ、離れなければならなかった、相手だった。


「なんで? オレ」


 ユージーンに助けられて上半身を起こしたラウルは、差し出されたコップの水がとても美味しく感じられて、貪るように、飲み干した。


 優しく笑まれて、ラウルの頬が赤く染まる。額を合わされて、頭を撫でられた。そのままもう一度、ベッドに横たえられると、すぐに睡魔が襲ってきた。とろとろと瞼が下がる。


「今しばらく眠っていてください。どうやら、準備はすべて整ったようです」


 静かにつぶやくユージーンの瞳には、さっきまでのとろけるようなやわらかな光は宿っていなかった。








「い、いやだぁっ」


 感極まった声と濡れた音に、司教の息が荒くなる。


 目を閉じることすら出来なかった。


 乾いたくちびるを司教が舌で湿らせたとき、男の下になっていたジュールの体勢が変えられた。


 男の上になった刹那、欲を煽る短い悲鳴が、ジュールの喉からほとばしった。


 赤く染まった象牙色の背が弓なりに撓る。


 そのくぼみに、かすかな記憶を引っかくものを、司教は見出した。


 赤く禍々しい痣。


 その、こうもりの羽の形をした烙印を見た瞬間、


「うおっ」


 司教は叫んでいた。


 口を押さえても今更である。


 抜けた腰が、床を打つ。


 痛みなど感じる余裕もありはしなかった。


 動きを止めた二人の瞳が、司教に向けられていたのだ。


 濡れた褐色の瞳が、たちまちのうちに凝固する。そこにたたえられた感情が羞恥などではなく、紛れもない憎悪であることを、司教は怯えたままで見上げていた。


 漆黒の瞳から、たちまちのうちに、艶冶なまでの熱が消滅する。冷酷なまでの冷ややかさがとって代わるのを、司教はただ見ているだけだった。


 司教のからだが、小刻みに震える。


 ずくずくと、冷たい汗が、全身をしとどに濡らす。


 あれと同じ烙印を、何十年も前に見た記憶があった。


 あれと同じ烙印を同じ位置に持つ少年を、自分がどうしたのか。


 まざまざと思い出す。


 屈辱と、それよりも勝る、壮絶なまでの恐怖の記憶が、司教の脳裏を過ぎり、彼の動きを縛めた。


 司教の震えがひときわ大きくなった。


 立ち上がろうとして、力の入らない足が、自分自身を裏切る。


 尻でいざるものの、すぐに壁にぶつかった。


 するりするりと、タピスリーが次々と壁から滑り落ち、床にとぐろを巻く。


 しかし、ふたりから視線をはがすことも出来ずにいる司教は、それに気づいてすらいなかった。


 人間ではない。


 この黒い目の男は、人間ではない。


 では、何者なのか。


 色鮮やかなタピスリーが、まるで氷が解けるかのようにとろけ、赤い溜まりをつくってゆく。


 ぴちゃり。


 ぬりゃり。


 水音が、司教を取り巻く。


 だらしなく投げ出されたままの足を、赤い液体が、ぬるりと、捕らえた。









「みごとなものです。とても」


 矯めつ眇めつするユージーンの手の中には、老婆たちが織り上げた最後のタピスリーがあった。


 それには何の絵柄も織り込まれてはいない。


 ただ、赤黒いばかりの布だった。


「まだ、なにが起きたのか理解しておらんらしゅうてな」


「そうじゃな。何の図柄も、織り出せなんだ」


「他の色には染め上げられなんだ」


「さすがですよ。最後の作品にこれ以上ふさわしいものは、ありません」


 にっこりと笑うユージーンに、皺深い老婆たちの頬がかすかに染まった。


 ふと、ユージーンの表情が、空白になった。


「父上のおいでのようですね」


 よほどジュールがお気に召されたようだ。


 ユージーンのつぶやきに、老婆たちの顔が強張りつく。


「これ以上悠長に構えていては、どうやら父上の逆鱗に触れそうです。そろそろ最後の仕上げと行きましょう」


 そう言うと、ユージーンはその場から姿を消した。

 後には、三人の老婆たちが残された。








 悲鳴がくちからほとばしる。


 逃げる先々に、タピスリーが溶け崩れ、赤い液体へと変貌を遂げる。


 司教を包み込むのは、怨嗟の声。呪の声。苦痛を訴える、あまたの、声。


 生臭い液体が、小さな手となって、司教を捕らえようとする。


 それらを引き千切り振り払い、司教は、城館の奥へとただ闇雲に走った。








「何事です」


 聾がわしい音を立ててまろぶように駆け込んできた司教を、ユージーンが見下ろしている。


 城主の居間に通じる控えの間だった。


 穏やかそうな琥珀のまなざしに、司教の緊張が、少しばかりゆるくなる。


「た、助けて……」


「いったいどうなさったのです。お偉い司教さまらしくありませんよ」


 言葉に含まれるかすかな毒にも気づかず、司教は、ユージーンの着衣の裾を握り締めた。


「あ、あ、あああああ」


「私などに助けを求めるより、あなたの神に助けを求められてはいかがです」


 あざけるような言葉にも、司教は気づかなかった。


 ただ、きつく握り締めたままで、震えるばかりである。


「水でも飲めば落ち着くでしょう」


 差し出されたコップを受け取り飲み干した。少しは落ち着いたらしく、司教はようやく立ち上がる。


「あ、あなたの家礼は、魔女ですぞ」


「魔女ですか?」


「笑い事ではありません」


 司教がいきり立てば立つほど、ユージーンは笑いを深くしてゆく。


「処刑しなければ」


 ついには、堪えきれないとばかりに、声を上げて、笑った。


「ご城主どの?」


「処刑と言われても困るのですよ」


 肩を竦める。


 ふと気がつけば、いつの間にか、背後にひとの気配があった。


 振り向いた司教は、そこに、


「ひっ」


「ジュール。父上が申し訳ありません」


 幾分か青ざめた表情を赤く染めて、ジュールが肩を竦めた。


 逃げようとする司教の腕を掴み、顔を覗き込む。


「まだ、懲りてないんだな」


「?」


 目を白黒させる司教に顔を近づけて、


「あなたの都合で処刑された者たちが、どれほどの苦痛に嘆きつづけているのか、知らないままというのは、罪なことですよ」


 ユージーンがささやいた。


「眠れないと泣くんだ」


 ジュールが付け加える。


「痛いと、悲鳴を上げるのです」


「無実だと」


「魔女などではないと」


「熱いと」


「苦しいと」


「助けてと」


「自分たちをこんな目に合わせたものに、罰をと」


 ふたりが交互に言葉にするたびに、ほろりとタピスリーが解け崩れる。


 赤黒い血だまりが、少しずつかさを増してゆく。


 ひたひたとかさを増して、驚愕に逃げることすら忘れた司教を包み込んでゆく。


「た、あ、たすけてくれっ」


 ねっとりと絡みつく赤い液体にともすれば溺れそうになりながら、司教が叫ぶ。


「オレにしたみたいに、足を砕いて、目を刳り貫いてやろうか」


 それから、鞭打ちか。


 死ぬまで鞭で打たれたんだ。


 それとも、妹にしたみたいに、骨が砕けるまでからだを伸ばしてやろうか。


 蛇のように長い半透明の影が、うっすらと現われる。


 砕いたガラスの刃の上を馬で引っ張ってやってもいい。


 血まみれの影が密やかに現われた。


 車輪に括りつけてもな。


 いびつに歪んだ影が現われた。


 あんたが手を変え品を変えした拷問の数だけ、それが、どんだけ苦しくて痛いか。あんたに教えてやりたいんだ。


 みんなそうさ。


 ジュールが一言言うたびに、半透明の人影が姿を現し、その濁ったようなまなざしで、司教を無表情に睨めつける。


 みんな、あんたにされたことがどれだけ苦しいことだったか、あんたに知って欲しいんだ。


 味わって、苦しんで、それでも、狂って欲しくはないんだよ。


 狂ったら、わからなくなるからな。


 死にそうになったら、生き返らせてくれるって、ユージーンが言うんだ。


 だから、大丈夫。


 死ぬなんて怖がらなくていいんだ。


 正気のままで、味わい尽くしてくれよ。


 どれだけの時間がかかるか、オレにはわからないけど。


 そうしてくれたら、みんな、眠れるって言うんだ。


 安らかに、眠りにつけるって。


「わ、わたしが、手を下したわけじゃっ」


「同じことだ。あんたが、魔女だといわなければ、拷問にかけさえしなければ、オレは、オレたちは、誰も、こんな目にはあわなかった」


 だから、おねがいだよ。


 強請るようなまなざしと声音とに、司教の背中が逆毛立った。


「い、いやだっ」


 魂消るような絶叫が司教の口からほとばしる。








「ユージーン?」


 突然眠りから追い出された。


 ベッドから降りようとして、足に力が入らないことに気づいた。


「な、なんだ、これ」


 椅子に縋って立ち上がり、ラウルは一歩一歩ゆっくりと進んだ。


 ひとの気配を、ドアの向こうに感じていた。


 かなりな時間をかけてドアを二つ開けたラウルが見たものは、たくさんのうごめく影だった。


 地響きを立てるような背筋が凍りつきそうになるような呻き声が、その、たくさんの半ば透けたような影から発せられている。


 その中にあってなによりも明瞭なふたつの人影に、ラウルは、近づいていった。


「ラウル」


 最初に気づいたのは、ユージーンだった。


 静かな声に惹かれるようにして視線を声のほうへとそらせたジュールの褐色のまなざしが、大きく見開かれた。


 ラウルがユージーンに抱きしめられている。


 うっとりと目を瞑り、全身を預けている。


「ラウル…………」


 安心しきった弟のようすに、ジュールの復讐の快美感に酔っていた心が現実へと立ち返る。


 後は、家族や仲間の霊に任せればいい。


 彼らはこれで、安息を得るだろう。


 すべての苦痛を司教に肩代わりさせ、そうして、安らかに消えてゆくことが出来る。


 しかし、自分はどうなのだろう。


 安心しきってユージーンに抱きしめられているラウルに、ジュールは密やかな羨望を覚えずにはいられない。


 愛し合っているのが傍目にもわかる。


 何故ともわからない涙が、ジュールの頬を流れ落ちた。


「なにを泣くことがある」


 気配もなく背後に現われた魔王に肩を抱かれた。


「今更後悔か」


「違うっ。後悔なんかしてない」


 そう。


 後悔はしていない。


 恨みを晴らすことが出来たのだ。


 後は、契約どおり、魔王にすべてを差し出すだけだ。


 ジュールは振り返った。


「オレの全部をあんたにやる」


 見上げた先で、黒いまなざしが、ほころんだような気がした。







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