医学の分岐点
部屋の片隅に置かれた木箱の中では、異世界から画面をすり抜けてやってきた【聖解毒ポーション】のガラス瓶が、部屋の照明を反射してエメラルドグリーンに妖しく輝いていた。
「……これ、どうしようかなぁ。」
私はベッドの上でゴロゴロと転がりながら、綺麗だけど怪しさ満点のガラス瓶を指先でつついた。
万が一、風邪をひいたときに自分で飲むとしても、効果が強すぎてお腹を壊すかもしれないし、何より部屋の貴重なスペースを圧迫しているのが鬱陶しい。メルカリに出品してみることも一瞬頭をよぎったが、偽物扱いされてアカウントが永久停止されるか、あるいは本物だとバレて怪しい秘密組織に追われる破目になる未来しか見えなかった。
「……よし。日本の医学の発展に貢献したってことにしよう。」
部屋から一歩も出たくない私は、指先だけでスマホを操作し、大手宅配便の即日集荷サービスを申し込んだ。
ダンボール箱の底に緩衝材代わりに古い漫画雑誌を敷き詰め、そこにポーションの瓶をゴロゴロと適当に放り込む。
お届け先の住所には、ニュース番組でよく名前を耳にする国内最高峰の『国立先端医療科学研究所』を入力した。
品名欄の入力フォームには、適当に【清涼飲料水(試供品・味覚モニター用)】とだけ打っておく。差出人欄は迷わず「匿名希望」を選択した。
箱のフタをガムテープで適当に止めると、私はそれを玄関のドアの前にポンと置いた。
それから数分後、チャイムが鳴り、インターホン越しに「置き配用の荷物、お預かりしまーす!」と気さくな配達員さんの声が聞こえてきた。足音が遠ざかるのを確認してドアを少しだけ開けると、箱はすでに消え去っていた。
「よし、部屋がスッキリした。じゃあ、届いたカレーでも食べよっと。」
私は異世界からやってきた未知の神薬を「粗大ゴミを処分した」くらいの軽いノリで手放すと、デリバリーのカレーに舌鼓を打つのだった。
◇
翌日——東京都内。
数重もの厳重なセキュリティゲートと身元確認システムを抜けた最深部に位置する『国立先端医療科学研究所・地下第三特殊解析室』。
ここは、世界中で発生した未知の致死性病原体や、テロ等で用いられるおそれのある未確認化学物質を安全かつ確実に解明するために建造された、日本国内における最高レベルのバイオセーフティ基準(BSL-4相当)を誇る極秘研究施設であった。
分厚い特殊強化合金製の巨大な気密扉によって外部の世界から完全に遮断された室内では、専用の陽圧式防護服を身にまとった熟練の研究員たちが、本日も世界各地の医療機関や研究施設から送られてきた多種多様な検体を、淡々と、そして機械的に処理し続けていた。
しかし、本日持ち込まれた無数の検体の中に、一つだけ圧倒的に異質な空気を放つ荷物が混ざり込んでいた。
「……また差出人不明の荷物ですか。」
若手研究員である佐藤健一は、プラスチック板に挟まれた配送伝票の記載事項を眺めながら、半ば呆れたような苦笑いを浮かべた。
品名欄の不鮮明な印刷文字。
『清涼飲料水(試供品・味覚モニター用)』
送り先は、他でもないこの国内最高峰の医学研究機関。
そして、差出人の欄にはただ一言、
『匿名希望』とだけ記載されていた。
「わざわざこんな物々しい研究施設に向けて、素性も明かさずに清涼飲料水なんて送ってくる意図がまったく分からないな……。」
「まあ、年に何件かは必ずありますよ。自分の作った怪しい健康食品を『自称・万能薬』だの『不老長寿の聖水』だと言い張って送りつけてくる変人はね。」
隣の作業台で別の検体を扱っていた先輩研究員が、防護服越しに肩をすくめて同意する。
「今回届いたそれも、どうせその手の怪しげなオカルト商品の類いでしょう。」
佐藤も「でしょうね」と苦笑しながら、マニュアル通りに淡々と不審物検査のプロセスを開始した。
大型のX線透過装置による内部構造の確認。
強力な放射線検知器による線量測定。
爆発物反応テスターによる化学反応チェック。
さらには微量の有毒ガスや未知のウイルスのリークテスト。
規定されたすべての安全検査のランプが、青色に点灯していく。
「安全確認、すべて終了しました。これより慎重に開封作業に入ります。」
静かな機械作動音とともに、厳重に密封されていた段ボール箱のテープがカットされ、ゆっくりとフタが開けられた。
箱の中を覗き込むと、緩衝材の代用品として使い古された新聞紙と、いつの時代のものか分からない古びた娯楽漫画雑誌が乱雑に詰め込まれていた。
「……日本最高峰の研究所へ送る荷物にしては、梱包があまりにも適当すぎますね。」
呆れながら漫画雑誌を脇へどけた、まさにその時だった。
コロン。
軽やかな音を立てて、箱の底から一つの小さなガラス瓶が転がり出た。
それは、現代の工業製品では決して再現できないほど高い透明度を誇る、まるで一つの巨大な天然水晶を極限まで精密に削り出して作ったかのような美しい小瓶であった。
そしてその瓶の内部には、自ら微かな発光を放っているかのように幻想的で美しい、エメラルドグリーンに輝く液体が満たされていた。
天井のLED照明の光を受けるたび、液面がゆらゆらと妖しく、しかしどこまでも清らかに煌めく。
「……なんて綺麗な瓶だ。」
佐藤は思わず作業の手を止め、感嘆の声を漏らしていた。その加工技術の精度は、市販されている高級香水の瓶どころか、研究用として特注されたどの実験器具と比較しても見たことがないほど完璧なものであった。
「佐藤、進捗はどうだ。」
背後から、低く重みのある声が響いた。
この解析室の責任者であり、数々の世界的業績を上げてきた主任研究員の田中が、厳しい表情で部屋へと入ってきたのだった。
「あ、主任。また差出人不明の不審な荷物ですよ。」
「中身は何だ?」
「見た目だけは、まるでゲームやファンタジー映画に出てくるポーションのような怪しい薬品ですね。」
田中は防護手袋をはめた手で慎重に小瓶を手に取り、蛍光灯の光にかざして透かしてみた。
液体の中には、目に見える浮遊物もチリひとつとして存在せず、不純物が完全に削ぎ落とされた完璧な透明感を誇っていた。それはまるで、エメラルドという宝石そのものが融解して液体へと姿を変えたかのようであった。
「……まあいい、一応規定通り成分分析だけサッとおこなって、何もなければ廃棄処理に回そう。」
「了解しました。」
佐藤はマイクロピペットの先端を小瓶に差し込み、ほんのひとしずく——わずか〇・一ミリリットルだけの液体を慎重に採取すると、最新鋭の全自動成分分析装置の試料スロットへと投入した。
と同時に、彼は研究所が保有するあらゆる実験用サンプルとの反応テストもルーティンとして開始した。
シャーレ内に培養された大量の「悪性ガン細胞」。
あらゆる抗生剤を無効化する恐ろしい「多剤耐性菌」。
人体に致命的な影響を及ぼす各種の「致死性ウイルス」。
毒素反応試験、細胞毒性試験、そしてDNAの損壊状態を測定する遺伝子修復試験。
現代の医学と科学が持ち得る、ありとあらゆる安全性評価のプロセスが同時にスタートした。
「分析結果の出力まで、およそ三分というところですね。」
「ふむ、今のうちに温かいコーヒーでも飲んでおくか。」
田中が疲れた様子でパイプ椅子へ腰掛け、息を吐いた、まさにその瞬間だった。
ピーーーーーーーッ!! ピーーーーーーーッ!!
解析室の静寂を切り裂き、天井に設置された非常警報スピーカーから鼓膜を刺すような高音のアラート音が一斉に鳴り響いた。
「!?」
同時に、室内のすべての大型モニター画面が不気味な警告の赤色一色に染まる。
【解析エラー:測定不能】
【データ許容範囲外】
【未知の物理現象・物質を検出】
「なんだ!? 装置の故障か!?」
田中が弾かれたように椅子から立ち上がる。
「すぐに確認します!」
佐藤は青ざめた顔でキーボードを叩き、分析装置の内部ログを緊急確認する。
メインCPUの動作状況、超精密レーザーの出力、各種センサーの感度、温度管理システム。
「……装置には一切の異常が見当たりません! 機械は完全に正常動作しています!」
「ならば、なぜこんなエラーが表示されるのだ!」
モニターに表示されたリアルタイムの顕微鏡映像と解析数値を直接確認した瞬間、二人は言葉を失ってその場に氷付けとなった。
「……え……? 何だ……これは……?」
試験プレートを捉える高倍率カメラの映像。
画面の中には、数千万個という膨大な密度で急速増殖を続けていた最も凶悪な「末期ガン細胞」が映し出されていたはずだった。
しかし、そのガン細胞群は、あの緑色の液体が微量に接触したコンマ一秒の瞬間に、まるで最初からこの世界に存在すらしていなかったかのように、跡形もなく消滅していたのだ。
「あ……あり得ない……。こんな現象、生物学的にあり得ないぞ……!」
佐藤の声がガタガタと激しく震え出す。
隣のシャーレでテストされていた危険な病原体たちも、全く同じ道を辿っていた。
猛威を振るう多剤耐性菌も、凶悪な真菌も、不治の病を引き起こすウイルスも。
そのすべてが、液体との接触からわずか〇・二秒という極小の時間内に完全に消失していた。
死滅した細胞の死骸が残るわけではない。
化学薬品によって溶解・分解されたわけでもない。
文字通り、その"存在そのもの"が世界から消去されていたのだ。
「……再試験だ!!」
田中が血走った目で即座に怒号のような指示を飛ばす。
「すべての培養系を新品と交換しろ! 装置の校正をやり直せ!」
「は、はいっ!」
別ロットの細胞サンプル。
別の培養液。
別の分析装置。
別の隣接研究室。
考え得るすべてのエラー要因を排除するため、すべての試験が同時並行で再実施された。
十分後。
叩き出された結果は——
そのすべてが、一回目のテストと寸分違わず完全に同一であった。
「……嘘だろ……こんなことが起こってたまるか……。」
百戦錬磨の研究者である田中の声から、完全に余裕が消え失せていた。
さらに、その横にある別の精密モニターの画面。
強力な放射線を意図的に照射され、ズタズタに破壊されて死滅を待つばかりだった実験用の細胞組織。
通常であればどんな最先端医療を用いても修復不可能なレベルで損傷したその組織へ、緑色の液体がたった一滴落とされる。
次の瞬間、傷ついた細胞たちが眩い光を放つかのように急速に活性化を開始した。
切断され、バラバラに崩壊していたDNAの二重螺旋構造が、まるでビデオの映像を巻き戻しているかのような異常なスピードで、元通りの完璧な配列へと再結合されていく。
「修復率……ひゃ、百……パーセント……!?」
佐藤は自分の目を疑い、何度も画面を擦った。
「違う。」
田中は青ざめた顔で静かに首を振った。
「百パーセントなどという生ぬるい数字じゃない。」
「え……?」
「測定限界を超えているんだ。」
この最高峰の解析装置プログラムは、構造の完全修復率を上限「一〇〇%」までしか数値表示できない仕様になっている。
しかし、装置の最深部にある内部プログラムログを確認すると、そこにはただ一言、
【計測不能(測定上限突破)】
という恐ろしいエラー表示が出力され続けていた。
つまり、人間が作り出した最新鋭の測定器では計り知れないほど、あまりにも「絶対的かつ完全」に細胞が元通りに復元されていたのだ。
「…………。」
地下解析室に、息が詰まるほどの重苦しい沈黙が落ちた。
もう誰も喋ることができない。誰も指一つ動かすことができない。
無限とも思える沈黙の後、田中がようやく乾いた唇を開いた。
「これは……もはや人間が知る『薬』などという概念ではない。」
佐藤は返事すらできなかった。
「現代の医学という学問の枠組みすら、完全に超えすぎている。」
田中はガタガタと小刻みに震える指先で、真っ赤に点滅するモニター画面を指差した。
「これは……生命現象という世界の理そのものを、根底から書き換えているんだ。」
その言葉を吐き捨てると同時に、田中は壁に設置されていた研究所長直通の重厚な「赤電話」の受話器をひったくるように持ち上げた。
「私だ、田中だ。」
普段の冷徹な彼からは想像もつかないほど、その声は激しく震えていた。
『田中主任か。どうした、そんな慌てた声を出して。』
「……直ちに、本研究所に『緊急事態レベルA』を発令してください。」
『何だと……!? レベルAだと!? 一体何が起きたというんだ!』
「今ここで口頭で説明したところで、長官も所長も絶対に信じてはくれないでしょう。」
「……。」
「ですが。」
田中は大きく息を呑み、己の科学者としての人生で最も重く、そして最も恐ろしい一言を受話器へ向かって口にした。
「人類が数千年の歴史の中で積み上げてきた『医学』という概念が、今この瞬間に完全に終わりました。」
『なに……?』
「これまで世界中の偉人たちが血を滲ませて積み上げてきたあらゆる医学知識は、たった今、このたった一滴の液体によって過去の遺物と化しました。」
電話の向こう側から、すべての音が消え去った。
「至急、内閣危機管理センター、防衛省、厚生労働省のトップへ直接連絡を繋いでください。」
『……君は、本気でそんなことを言っているのか……?』
「死ぬほど本気です。」
田中は画面に静かに鎮座する、エメラルドグリーンに輝く小さなガラス瓶を見つめながら、絞り出すように呟いた。
「それから……この箱を我が国へ送ってきた人物を、国家の威信と全戦力を賭けて、最優先で保護してください。」
『保護……だと……?』
「ええ。」
田中は確信に満ちた、しかし恐怖に怯えた目で呟いた。
「この差出人は……日本という国にとって、いや全人類にとって二度と現れない最高の最重要人物です。」
「もしこの事実が外部へ漏れれば……世界中の大国やあらゆる権力機構が、なりふり構わずこの人物を奪い合い、地球規模の争奪戦が始まります。」
その重々しい一言を切り札として、研究所全体が一斉に激しい混乱と緊迫の渦の中へと動き始めた。
館内中に重厚な緊急アラートの放送が鳴り響き、防犯警備システムが即座に史上最高の警戒レベルへと移行していく。
重厚な電子ロックが「ガシャン! ガシャン!」と音を立てて次々と遮断され、自動小銃で武装した特殊警備員や機動隊員たちが、息を呑みながら施設内の各フロアへとなだれ込んでいく。
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