出汁とルンバ
翌日——。
「……ふぁぁぁぁ……」
正午を少し過ぎた頃、カーテンの微かな隙間から差し込んでくる柔らかな日差しを全身に浴びながら、私は口を大きく開けて深くて長い欠伸をひとつ漏らした。
昨夜はここ最近では記憶にないほどじっくりと深く熟睡することができたのだが、その理由は言わずもがな、昨日異世界から手に入れた『氷の最上位魔石』の圧倒的な効果によるものであった。
ただ部屋の隅に転がしておくだけで、まるで高級ホテルの空調施設のようにひんやりとした清涼な空気が部屋全体に満たされ、外が厳しい猛暑日であることを完全に忘れさせてくれるほど快適な室温を一定に保ち続けてくれているのだ。
エアコン特有の嫌な肌の乾燥を感じることもなければ、室外機が立てる重苦しい振動音もしないため、そこにはただ静寂と快適さだけが存在していた。
「……文明の利器より、遥かに文明的で素晴らしいじゃん……」
あまりの居心地の良さに、私は布団の中へと深く顔を埋めながら、至福に満ちた吐息を静かに漏らした。
許されるのであれば、このまま一生このベッドの上から一歩も外に出ることなく過ごしていきたいと本気で思ってしまう。
十二時間という現代人としては理想的すぎる睡眠時間を存分に堪能した私は、ごろりと重い腰を上げて寝返りを打ち、枕元に転がっていたスマートフォンへゆっくりと手を伸ばした。
「さてと……今日も部屋から一歩も外に出る予定なんて皆無だし……」
スマートフォンのホーム画面をぼんやりと眺めてみるものの、面白い動画は昨日の夜のうちにすべて見尽くしてしまっていた。
アプリゲームのスタミナはまだ回復の途中でプレイできず、大学のオンライン講義に至ってはあとでまとめて倍速視聴すればいいやと開き直っているため、残された娯楽はただ一つしか存在しなかった。
私は迷うことなく、ホーム画面の端にひっそりと配置されている『異世界ザッピング』という怪しいアプリのアイコンをタップした。
画面が一瞬だけ暗転し、ザザッという微かなノイズが響いた直後、黒い背景の上に【CH.04 グランベル王国・王宮調理場】という明朝体の文字が浮かび上がる。
「さて、今日のあのおじさんたちは何をして遊んでるのかな——」
そう思いながら映像が画面に映し出された瞬間、私は思わずガバッと身を起こしてスマートフォンを二度見してしまった。
「……え、待って……何これ、怖……」
画面の向こうに広がっていたのは、昨日まであれほど怒号が飛び交い、調理の煙が充満していたはずの王宮調理場であったが、そこには包丁の音も鍋をかき混ぜる音も一切なく、薪が弾ける音すら静まり返る異様な空間へと変貌していた。
なんと数十人ものプロの料理人たちが、石畳の床へ寸分の狂いもなく整然と正座し、背筋をぴんと垂直に伸ばしたまま、じっと天井の一点を見つめ続けていたのだ。
誰一人として微動だにせず、誰一人として喋ろうともしないのだが、その両目だけがランランと、恐ろしいほどの熱量と狂気を帯びて光り輝いている。
それはまるで、古代の地下神殿で恐ろしい神の降臨と神託をただひたすらに待ち続ける、狂信的な教団の集団そのものであった。
(……え、なにこれ、怪しい宗教の儀式でも始まったのかな……?)
しかも、微動だにしない彼らの鋭い視線が画面越しにビンビンと伝わってくるため、部屋にいる私まで妙な圧迫感と恐怖を覚えてしまう。
私は若干引き気病み気味になりながらも、画面の端にあるマイクアイコンを指でタップしてオンにした。
『……えっとー。』
あまりの異様さに一拍置いてから、意を決して声をかけてみる。
『……みんな、そんなところで正座して暇なの?』
その一言がマイクを通して異世界へ響いた、まさにその瞬間だった。
「「「ハルナ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」」」
厨房全体が揺れるほどの爆発的な叫び声がスマホのスピーカーを突き破り、激しい音割れを起こしながら部屋中に響き渡った。
全員が一斉に石畳の床へ額を強打するかのような勢いで叩きつけ、ドドドドドッ!! という激しい地鳴りのような音を立てて平伏した。
「お待ち申し上げておりました!!」
「本日もありがたい神託を賜りたく!!」
「夜明けより誰一人として持ち場を離れることなく、正座してお待ちしておりました!!」
「…………。」
私は冷や汗を頬に伝わせながら、画面越しに彼らの姿を見つめた。
『……夜明けからずっと?』
「はい!」
『一回も休まずにずっと?』
「はい!」
『本業の料理すら作らないで?』
「はい!!」
「…………。」
(……本当に暇で仕事がないのはそっちの方だったじゃん。)
私は言葉を失い、なんとも言えない引きつった表情を浮かべるしかなかった。
すると、最前列で床に額を擦り付けていたバルド料理長が、感極まった様子で顔を上げ、その目には大粒の涙すら浮かべながら熱弁を振るい始めた。
「ハルナ様! 昨夜執り行われました祝宴は、我が国の歴史に残る大成功にございました!」
「国王陛下はお肉を一口お召し上がりになった瞬間、あまりの美味さと感動のあまり自ら立ち上がられ、我ら調理場一同には破格の恩賞と爵位の授与すら検討される事態となったのです……!」
バルドは言葉を詰まらせながら、調理服の袖で勢いよく溢れる涙を拭った。
「すべて……すべては神であるハルナ様のお導きにございます! 我らに至高の光を授けてくださり、感謝の言葉もございません!」
『いや、私はただ肉に砂糖をもみ込んで弱火で焼けばいいって教えただけなんだけど。』
「そのたった一言の神託こそが! 我が国の、いや世界の食の歴史を千年も未来へ進めてしまわれたのです!」
『大げさだなぁ……。』
私にとっては、日本のスーパーで売っている一般的な砂糖の基本的な使い道を口にしただけに過ぎない。
しかし、食文化が絶望的なまでに遅れていたこの異世界においては、その当たり前の常識こそが世界の天変地異に等しい大革命だったらしいのだ。
バルドは再び深々と頭を下げると、横に置かれていた頑丈な巨大木箱を、両手で恭しく前へと押し出した。
「本日の献上品にございます!」
「王宮の宝物庫や薬師ギルド、さらには冒険者ギルドの最奥を巡り、『用途不明』『役立たず』『価値のないガラクタ』と判断された品々を国中からかき集めてまいりました!」
「どうか……どうかハルナ様のお手元でお納めください!」
その瞬間、私のスマホ画面だけに半透明のシステムウィンドウがポップアップした。
【聖解毒ポーション】
★★★★★
・あらゆる猛毒、不治の病、呪い、体調不良を瞬時に完璧に浄化する。
・一口飲むだけで全身のあらゆる状態異常が完全回復する伝説の神薬。
【風精霊の魔石】
★★★★★
・配置された部屋の周囲において「自動清掃」「空気清浄」「脱臭」「花粉除去」「湿度自動調整」を永久的に実行し続ける。
・魔力の消費や定期的なメンテナンス、維持費などは一切不要。
私はその文字を目にした瞬間、ベッドの上で完全に固まってしまった。
(……待って、これって……。)
(お掃除ロボットのルンバ機能……。)
(最高級の空気清浄機機能……。)
(強力な除湿機と消臭剤機能……。)
(……全部がこの石ころ一個で完結しちゃうじゃん……!!)
瞬時に頭の中で面倒な家事の計算が弾き出され、これさえあれば掃除機をかける手間も、床のホコリを取り除く手間も、換気扇を回す手間すらないという完璧な未来が確定した。
私の目が、今までの人生で一番強い輝きを放ち始める。
(欲しい……。)
(めちゃくちゃ欲しい……!!)
(今までの20年間の人生の中で、間違いなく一番欲しいアイテムだわ……!!)
私は勢いよくベッドの上へ飛び起きると、ジャージの袖を捲り上げながら叫んだ。
『採用!! 満場一致で採用!!』
「おおっ! 喜んでいただけましたか!」
『それ、絶対にあとで画面に向かって投げてね! 途中で落として割ったりしたら絶対に許さないから!』
「もちろんにございます! 神への献上品としてお納めできるとは、料理人としてこの上ない光栄の極み……!」
『よし! じゃあ今日は約束通り、料理の基本である「出汁」の取り方を教えてあげるね。』
「「「で、出汁……!?」」」
厨房にいる全員が、息を呑んでゴクリと生唾を飲み込んだ。
彼らの知識には「だし」という概念も単語も一切存在していなかったからだ。
「ハルナ様……」
バルドが恐る恐る、まるで神聖な儀式の問いかけをするかのように慎重に口を開く。
「その『だし』とは……一体どのような高レベルの神術なのでしょうか。秘伝の召喚術ですか? それとも古代錬金術の極意にございますか?」
『神術とか大層なものじゃないよ。』
「では……。」
『ただ単に、スープを何倍も美味しくするための下準備のこと。』
「…………。」
「下準備……ですか……?」
料理人たちは困惑した様子でお互いの顔を見合わせ始めた。
料理を直接美味しくする魔法のような調理技術ではなく、その「前段階の手間」を教えるという発想自体、彼らのこれまでの料理人生には存在しなかったからだ。
『まずさ、そっちの世界に乾燥した海藻ってある?』
「ございます! 沿岸部の漁師から届いた乾燥海藻が倉庫に!」
『干したキノコは?』
「ございます! 山賊の隠れ家から押収した干し茸がございます!」
『あとは大きな鍋と、たっぷりのお水。』
「すべて完璧に揃っております!」
『じゃあ、火をつける前の水にそれ全部入れて。』
「はいっ!」
誰一人として疑うことなく、神の指示に従って素早く食材を鍋へ投入していく。
『……あ、まだ火を強めちゃダメだよ。絶対に沸騰させないでね。』
「な、なぜでしょう!? 料理とは強火で滾らせてグラグラと煮込むものなのでは……!?」
『煮立たせちゃうと食材から嫌な苦味とエグみが出ちゃうから、弱火でじっくり温めるの。』
「苦味が……!? は、はいっ! すぐに火を絞れ! 薪を何本か引き抜くのだ!!」
バルドが慌てて厨房内に怒号混じりの指示を飛ばす。
薪の数を調整し、鍋の表面にふつふつと小さな気泡が静かに浮かび始める。
『うん、ちょうど今。海藻を取り出して。』
「はいっ! 海藻を鍋から救出いたしました!」
『そこに、薄く削った干し肉(あるいは小さく切った肉片)を入れて。……少しだけ煮出したら、布で綺麗に濾してね。』
「はっ!」
バルドは真剣な面持ちで息を呑みながら、黄金色に透き通った綺麗な液体を慎重に布で濾し、一口分の器へと丁寧に注ぎ分けた。
『よし。そのスープの匂い、ちょっと嗅いでみなよ。』
バルドが恐る恐る器に顔を近づけ、深呼吸するように息を吸い込んだ。
次の瞬間——。
「…………っ!?」
バルドの全身が、目に見えて凍りついたように大きく強張った。
ただの保存食である干し茸と海藻を水で温めただけのはずだった。
それなのに——器から立ち上っていたのは、どこまでも深く、鼻腔を心地よく刺激する芳醇で濃厚な「旨味」の香りそのものだったのだ。
今まで彼らが作っていた、ただ肉と野菜を強火で煮詰めただけの泥臭いスープとは、根底から次元が違っていた。
静まり返る厨房で、誰かがゴクリと生唾を飲み込む音だけが響く。
バルドは震える手で木匙を取り、熱々のスープを一口、ゆっくりと口へ含んだ。
「…………。」
バルドは何も言わない。
いや、言えなかったのだ。あまりの味の衝撃に、舌と脳が麻痺して言語機能を完全に失っていた。
その代わり——。
ぽろり、と頬を伝って熱い涙が一滴、石畳の床へこぼれ落ちた。
「……スープだけで。」
かすれ切った声が、震えながら漏れ出す。
「塩も、特別な香辛料も一切入れておらんただのスープだけで……美味い……っ!!」
一瞬の静寂。
そして——
「「「うおおおおおおおっ!!」」」
王宮調理場全体が、割れんばかりの歓声で激しく揺れた。
「神だ! やはりあのお方は本物の料理の神だーっ!」
「これが『出汁』……! 素材の命を極限まで引き出す奇跡の技だ!」
「スープの概念そのものが、今日この瞬間に覆ったぞ!」
「ただの保存食の干し茸から、なぜこんな至高の旨味が溢れ出るのだ……!?」
互いに抱き合って大泣きする者、あまりの美味さにその場へ崩れ落ちて床を拳で叩く者、興奮と感動の過呼吸で本当に失神してしまう若い料理人まで現れる始末であった。
一方、画面のこちら側では。
『じゃあ、あとは塩で少しだけ味を整えてから使ってね。』
「ははっ! どこまでもお言葉に従います!!」
『それと、約束の木箱を早く投げてね。』
「もちろんでございます! どうぞお納めくださいっ!!」
ドゴォン!!
威勢よく投げられた重厚な木箱がスマホの画面を「ぬるっ」と通り抜け、私の部屋のフローリングへ転がり落ちてきた。
私はベッドから飛び降りると、真っ先に木箱のフタを開け、中から『風精霊の魔石』を取り出して部屋の隅へと転がした。
すると——ふわり。
部屋の中に、まるで深い森の中で森林浴をしているかのような心地よい微風が巡り始めた。
床に散らばっていたポテトチップスの食べかすや目に見えないホコリ、落ちていた髪の毛までもが、風の力に吸い寄せられるようにして跡形もなく消滅していく。
「…………。」
私はしばらくその光景を呆然と見つめ、
「……これ、現代技術を凌駕する最高の神アイテムじゃん。」
と、心からの感動を噛み締めていた。これで一生掃除機をかけずに済むと思うと嬉し涙が出そうだ。
画面の向こうでは、歓喜の狂乱がひと段落した料理人たちが、再び期待に満ちた熱い眼差しで天井を見上げていた。
「ハルナ様!」
「明日は!」
「明日はどのような恐ろしい神技を我らに授けてくださるのですか!?」
私はチラリとスマホの画面上の時計を見る。時刻は13時過ぎ。ちょうどお腹が空いてくる時間帯だ。
『んー……明日は「マヨネーズ」の作り方でも教えようかな。』
「マ、マヨネーズ……!?」
「聞いたこともない……神々の世界に伝わる不老不死の秘薬の名でしょうか……!?」
『いや、どこにでも売ってるただの調味料だけど。』
「ち、調味料なのですか!? それほど凄まじい名を冠するものが!?」
『うん。卵の黄身と油とお酢をひたすら混ぜるだけだよ。……あ、私そろそろお腹が空いたからデリバリー頼むね。』
「でり……ばりー?」
バルド料理長たちが、ぽかんとした間抜けな顔で首を傾げる。
『自分の部屋の玄関まで、食べたい料理を勝手に持ってきてくれる素晴らしいサービスのこと。』
「…………。」
静まり返る王宮厨房。
そして——
「神々の世界では……人間が一切手を動かさずとも、料理が勝手に手元へ運ばれてくるのか……!?」
「なんという技術……なんという文明の極み……!」
「さすがは神々がお住まいになる聖なる国……我らの常識など微塵も通じぬ……!」
異世界のプロ料理人たちが明当はずれな方向へ壮大な感動と誤解を繰り広げる中、私はそんな彼らの勘違いには一切気づくこともなく、スマートフォンの出前アプリを開いていた。
「今日はスパイシーなインドカレーの気分だなー。」
そう呑気に呟きながら、私は『異世界ザッピング』の画面を軽やかにスワイプして閉じたのだった。
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