『硝子越しの素顔』
スマホのインカメラは、朝の顔に容赦がない。眉毛はまだ起きていないし、前髪は寝返りの方向を主張している。アプリの画面端に、きらきらした星が浮かぶ。「美肌」「小顔」「瞳拡張」みたいなボタンが、神棚みたいに並んでいた。
瑞希は指を伸ばしかけて、やめた。今日の自分を、今日の自分のまま出勤させたい。そう思う日は、だいたい仕事が面倒くさい日だ。面倒くさいのに、ちゃんとやりたい。矛盾は朝から元気。
会社のチャットには、すでに赤い通知がいくつも溜まっていた。
『今週の投稿、バズりそうなやつ頼む』
『映え、意識で』
『若者っぽく。あと、かわいく。あと、上品に』
全部欲張る注文は、料理なら炎上する。でもSNSなら、なぜか通る。瑞希は「了解です」とだけ返して、句点を付けなかった。句点を付けると不機嫌に見えると言われたことがある。そんな世界で働いている。
瑞希の会社は、町工場の端っこから始まった小さな雑貨メーカーだ。丈夫で、使いやすくて、派手さはない。ガラスの保存瓶や、木のスプーンや、台所で長く生きる道具を作っている。社長はそれを誇りに思っているはずなのに、最近は「派手さ」に取り憑かれている。
理由は簡単だ。数字が全部、画面の中で決まるからだ。
出社すると、デスクの隣から「おはよ」と声がした。
振り向くと、動画担当の律がカメラバッグを抱えていた。律は社内で唯一、機材を持ち歩くのが似合う人間だ。黒い服で、いつも眠そうで、でも撮る瞬間だけ目が鋭くなる。
「今日は工場撮り?」
「うん。社長がさ、“キラキラした職人感”を出したいんだって」
「職人感にキラキラ足すな」
「それ言ったら、また“否定から入るな”って言われる」
二人は同時にため息をついて、同時に笑った。笑うしかない種類の注文が世の中にはある。
朝会で、社長はホワイトボードに大きく書いた。
『本物感 × 映え = 売上』
「これだよ、これ。うちは本物で勝負してるんだからさ。ちゃんと伝えよう。画面越しに」
瑞希はペンを握ったまま固まった。本物感、と言いながら、計算式にするのは妙に薄っぺらい。それでも社長の言いたいことは分かる。道具は本物だ。使えば分かる。でも、使う前に買ってもらわないといけない。買ってもらう前は、見た目が全てになる。
だから、瑞希は毎週「盛り」と「誠実」の間を綱渡りしていた。
昼休み、瑞希はスマホを片手に屋上へ上がった。空は薄い雲で、光が均一に広がっている。撮影にはちょうどいい、と律が言いそうな空だ。
通知が一つ、個人アカウントに届いていた。
『最近、投稿の雰囲気変わった?』
送り主は、大学時代の先輩、真琴だった。真琴は映像制作の世界に進んだ人で、瑞希がSNS担当になったのを知ってから時々、短いメッセージをくれる。
瑞希は少し迷ってから返信した。
『変わってないつもり。でも、盛り方が分からなくなってきた』
すぐ既読がつき、返事が返ってきた。
『盛らなくていい。盛るなら、まず自分を守って』
守って、の一言が、屋上の風より先に瑞希の胸を冷やした。守る。守れるのか。自分を。
午後の撮影は工場だった。ガラス瓶が並ぶ棚は、光を受けて静かに透ける。職人の手は無駄がなくて、動きが綺麗だ。映えを狙わなくても、現場にはちゃんと画がある。
でも社長が求めているのは、現場の美しさじゃない。社長が欲しいのは「一瞬で刺さる派手さ」だ。カメラを向けられた職人さんたちは、照れた顔で手を止めてしまう。止めた瞬間が一番“本物”なのに、社長はそれを嫌がる。
「もっと笑って! 職人の笑顔ってやつ!」
笑顔ってやつ、という言い方が、瑞希の胃のあたりに小さな砂を落とした。笑顔は「やつ」じゃない。人だ。
撮影の合間、律が瑞希の耳元で小さく言った。
「今日さ、一本、別カメも回していい?」
「別カメ?」
「うん。社長に見せる用じゃなくて、瑞希に見せる用」
「……なにそれ」
「“本物”って何か、確認したくなった」
律はいつもの眠そうな顔のまま、少しだけ笑った。瑞希は「勝手にしな」と言ってしまって、照れ隠しに工場の床を見た。
夜、社長の机の前で編集した動画案を見せると、社長は最初の三秒で眉を寄せた。
「地味。もっと、こう……光らせて。エフェクトとか」
「道具が光ってますよ。ガラスですし」
「違う。気持ちが光るやつ」
気持ちにエフェクトをかけろと言われている。瑞希は笑いそうになって、笑えなかった。笑うと負ける気がした。何に負けるか分からないけど、とにかく負けたくない夜だ。
「分かりました。もう一案、作ります」
「頼む。明日の朝までに」
社長は軽く言って、軽く帰っていった。軽い人ほど、重い荷物を置いていく。
オフィスに残ったのは、瑞希と律と、蛍光灯の白い音だけだった。
「エフェクトってさ」律が椅子を回しながら言う。「薄い嘘を重ねる作業だよね」
「嘘って言うな。仕事だ」
「仕事の顔した嘘」
「……やめて。今、それ言われると割れる」
瑞希は自分の頬を手で押さえた。熱い。自分の熱に、追いつけない。
律は黙って、カメラバッグからSDカードを一枚取り出した。
「さっきの別カメ。見て」
瑞希がパソコンに差し込むと、画面に工場の映像が並んだ。職人さんが手を止めて、照れて笑って、すぐ作業に戻る。その一瞬の間に、手元のガラスがふっと揺れて、光が散った。
そして、次のカット。瑞希が社長に「もっと笑って」と言われた職人さんに、小声で「すみません、無理しないでください」と謝っている場面だった。瑞希の顔は、インカメラよりずっと普通で、ずっと真剣だった。
「これ……いつ撮ったの」
「勝手に回ってた。ごめん」
「……いや」
瑞希は口を開けて、閉じた。画面の中の自分は、映えなくても、ちゃんと立っていた。立って、ちゃんと誰かに向けて言葉を選んでいた。
瑞希は急に、泣きたくなった。泣くほどのことじゃないのに、泣きたくなるのは、ずっと我慢していた証拠だ。
「社長に見せる?」律が訊いた。
「見せたら怒られる」
「怒られたら?」
「……辞めたくなる」
「辞めたい?」
瑞希は答えられなかった。辞めたいんじゃない。守りたいものがある。道具のことも、人のことも、自分のことも。
守るって、こういう時に使う言葉だ。
瑞希は深呼吸して、別の編集ソフトを開いた。社長用のキラキラ案を作る手は動く。でも、目線は別カメのフォルダへ何度も戻った。
そのうち、瑞希の中で小さな決断が固まっていった。二案作る。ひとつは社長が求める派手なやつ。もうひとつは、派手じゃないけど、胸に残るやつ。
“会社の公式”に出せないなら、“個人のアカウント”に出せばいい。仕事としてじゃなく、ひとりの人として。
個人投稿のキャプションを打ち始めた時、瑞希は何度も消した。
『現場は最高です!』
軽い。消す。
『見てください、これが本物です』
うるさい。消す。
『盛ってません、正直です』
言い訳みたい。消す。
瑞希は画面を見つめて、結局、短い一文だけ残した。
『手が動く音が好きです』
その一文なら、嘘じゃない。誰かの評価じゃなく、自分の感覚の話だから。
「律」
「ん」
「明日、私のアカで一本上げたい。手伝って」
「いいよ。……どんなの」
「工場の、笑ってないほう」
「最高」
午前二時。瑞希は社長用の動画を提出し、自分用の動画を予約投稿に設定した。画面の一番下に、投稿ボタンがある。押せば世界に出る。押さなければ、また先延ばしできる。
瑞希の指は震えた。指が震えるのは、怖いからだ。でも怖いのは、まだ期待しているからだ。何に期待しているのかは、分からないままでもいい。
翌朝、社長からは早速、スタンプだけの返事が来た。キラキラした拍手のやつ。OKなのか皮肉なのか分からないけれど、少なくとも爆発はしていない。
そして十時。瑞希の個人アカウントの投稿が、静かに上がった。
コメントはすぐに増えた。
『こういう現場、好き』
『派手じゃないけど、見入った』
『手が綺麗。道具も、作ってる人も』
瑞希は画面をスクロールしながら、胸の奥がじわっと熱くなった。刺す言葉じゃない。支える言葉が、ちゃんとある。世界は悪口だけでできていなかった。
通知の中に、見知らぬ人からの長いメッセージが混じっていた。
『うち、祖母が梅シロップを毎年作るんです。去年、保存瓶を割っちゃって、祖母がしょんぼりしてて。だから同じサイズを探してました。今日の動画見て、ここで買おうって決めました。手の音、いいですね』
瑞希は思わず、画面に「いいね」を押してしまった。仕事なら即レスは慎重に、と自分で決めているのに、指が勝った。勝ってよかったと思った。
瑞希はその文を職人さんの休憩所へ持っていって見せた。
職人さんは老眼鏡をかけ、ゆっくり読んでから、鼻の頭を指でこすった。
「梅シロップか。ええな」
「ええですね」
「割れたら作りゃいい。けど、探してくれるのも、ええな」
職人さんはそう言って、照れたように笑った。社長が欲しがっていた“笑顔ってやつ”は、こういう笑い方だ。お願いして出るものじゃない。届いたものが、勝手にこぼれる。
そこへ、真琴からメッセージが届いた。
『今のやつ、めちゃくちゃ良い。君の目がちゃんと映ってた』
瑞希は返信欄に「ありがとう」と打って、送った。短いのに、今回は軽くない。軽くない言葉は、軽く送っていい。そういうことも、初めて知った。
昼、社長が瑞希の席に来た。
「お、なんか個人の投稿、回ってきたぞ。……あれ、うちの工場?」
瑞希の心臓が一瞬、跳ねた。社長に見つかるのは想定していた。でも、実際に来ると膝が笑う。
「はい。昨日の」
「……変なエフェクト、入ってないな」
「入れてません」
社長は黙って画面を見た。長い。社長が沈黙するのは珍しい。瑞希はその沈黙が怖くて、でも逃げなかった。
やがて社長がぽつりと言った。
「……これ、なんか、悔しいな。派手じゃないのに、強い」
「強いのは、現場なので」
「現場か」
社長は笑った。照れ笑いだった。昨日の「笑顔ってやつ」とは違う、本人の笑い方だった。
「じゃあさ。公式にも、こういうの、混ぜよう。全部キラキラだと、疲れるわ」
社長がそんなことを言う日が来るとは思わなかった。瑞希は驚きすぎて、変な返事をした。
「疲れるんですか」
「疲れるよ。俺も。いい歳だし」
自分で言って社長は肩をすくめ、去っていった。去り際が少しだけ軽くなっていた。昨日の荷物を、ほんの少し持ち帰ってくれたのかもしれない。
夕方、律が缶コーヒーを机に置いた。
「お祝い」
「何の」
「自分を守れた記念」
瑞希は缶の温度を掌で確かめた。熱い。いい熱だ。
「守れたかな」
「守ったよ。職人さんも、瑞希も」
「……律、そういうの急に言うのやめて」
「急じゃない。ずっと思ってた」
瑞希は笑って、缶を開けた。プルタブの音が、やけに気持ちよく鳴った。
帰り道、瑞希は駅のガラス窓に映る自分を見た。いつもの顔だ。映えない朝の延長みたいな顔。でも、その顔は今日、ひとつ決めた。
理想に追いつけないなら、追いつくまで走る。走る途中の自分を、嘘で塗り固めない。
派手に光らなくても、手を動かして、言葉を選んで、ちゃんとここにいる。
瑞希はスマホをポケットにしまって、空を見上げた。雲の隙間から、ほんの少しだけ陽が差していた。光は、盛らなくても届くことがある。届いたら、そのまま受け取っていい。
そんな簡単なことを、瑞希はようやく自分に許せた。
駅前の雑貨店のショーウィンドウに、うちの保存瓶が並んでいた。中にはカラフルな豆と、乾いたハーブと、名前の分からない小さな星形の砂糖。ガラス越しに覗くと、自分の顔が少しだけ歪んで映った。盛れていない。なのに、悪くない。
瑞希はその瓶を一つ買って帰った。家の台所で蓋を開け、空っぽのまま机に置く。空っぽだから、これから何でも入れられる。明日の自分も、今日より少しは入れ替えられる。そう思って、瑞希はやっと肩の力を抜いた。




