『息継ぎの約束』
改札を抜けた瞬間、駅前の交差点でクラクションが鳴った。短く二回。慌てて走る自転車の背中を、車が叱っただけの音なのに、尚人の胸はそれを「呼び出し」みたいに受け取ってしまう。
今日は、音が全部、刺さる。
スマホに届いた紗良のメッセージは一行だった。
『練習のあと、みんなと少し寄るね。遅くなる!』
“みんな”が誰で、“少し”がどれくらいで、どこに寄るのか。いっそ空白だらけのほうが楽なのに、文は元気で、疑問だけが残る。尚人は歩きながら、親指で返信欄を開き、閉じた。
聞けばいい。そう頭では分かっている。分かっているのに、聞き方が出てこない。出てこない代わりに、いやな想像だけが出てくる。
尚人は音が苦手だ。いや、正確には「音の裏の意味」を勝手に増やしてしまう癖がある。
職場のチャットの「了解です。」に句点がついていると、怒られている気がする。短い返信は、距離のサインに見える。逆に長文は、重たく感じてしまう。
だから、尚人はいつも、メッセージを送る前に一度、深く息を吸う。息を吸えば、言葉が少し丸くなる。そういう、ささやかな自衛を覚えた。
なのに今日は、息を吸う前に胸が熱くなる。熱いまま返信欄に打ち込んでしまう。
『誰と?』
送信ボタンのすぐ手前で、尚人は止まった。これでは質問じゃない。取調べだ。
消す。打ち直す。
『練習後って、何時くらいになりそう? 心配だから』
これなら……と思った瞬間、別の自分が囁く。心配? 本当は、見えないのが嫌なだけだろ。見えないのが嫌なら、そう言えよ。そう言うと、紗良が困るだろ。困らせたくないなら、黙れよ。
尚人はまた消した。
自宅の玄関に着き、靴を脱いでも、気持ちは脱げなかった。キッチンの時計がカチカチ鳴る。いつもは気にならない音が、今日はやけに正確で、責めてくる。
冷蔵庫から麦茶を出して飲む。喉が鳴る。生きている音だけは、味方だ。
尚人と紗良は、市民吹奏楽団で知り合った。尚人はホルン担当。入団した理由は「大人になってから、ちゃんと息を使う趣味が欲しい」だった。
紗良はパーカッション。手が空いたら何でも叩ける人で、譜面台の角でも、拍手でも、机でも、リズムにしてしまう。誰かが緊張すると、紗良はわざと変なリズムを叩いて笑わせる。そういう“場の温度”の人だ。
付き合って一年。喧嘩は少ない。少ないのは、尚人が先に飲み込むからだ。飲み込むのは得意だ。飲み込んでいるうちに、自分の中で何が苦しいのか分からなくなるのも、得意になってしまった。
テーブルにスマホを伏せる。伏せても、通知は心の中で光る。
尚人は楽器ケースを開け、ホルンを取り出した。正直、吹く気分じゃない。でも手は覚えている。組み立て、マウスピースを唇に当てる。吸って、吐く。息は嘘をつかない。息が震えるなら、心が震えている。
ロングトーンを一音。部屋の空気が少しだけ広がった。
二音目、三音目。音が安定してくると、妙なことに気づく。尚人の胸の熱は、怒りじゃなくて焦りだ。置いていかれる焦り。置いていかれるのが怖いから、確かめたくなる。確かめるために、強い言葉を選びたくなる。
強い言葉は、簡単だ。簡単だから、危ない。
その時、玄関の鍵が回った。
尚人は音を止めた。紗良が帰ってきた。足音が軽い。ドアを開けた瞬間、外の夜の匂いが流れ込む。少し冷えて、少し甘い匂い。
「ただいまー! ……あ、吹いてた?」
紗良は手を振りながら、尚人の顔を見て、目を細めた。
「ごめん、思ったより遅くなった。お腹すいた?」
「……うん。すいた」
「じゃ、何か作ろ。あ、でも先に言っとく。今日、スマホ見れてなくて」
「見れてないのは分かった」
言い方が硬くなった。自分で分かる。尚人は喉の奥で一度息を吸った。吸ってから言う。
「……寄ったって、どこに?」
「駅前の喫茶店。団の人たちと。来月のミニ発表会の、段取り。内緒にしようと思ったけど、尚人の顔が“問い詰める顔”だから言う」
「問い詰める顔……」
「うん。眉間がさ。『尋問、開始』って書いてある」
紗良は笑いながら、尚人の眉間を指でちょんと押した。尚人は反射的に後ずさりして、変な声が出た。
「書いてない」
「書いてある。ほら、ここに」
「……それ、いつも見てるの?」
「見てるよ。尚人って、口より先に顔が送信するから」
痛い。けど、痛いのに助かる。紗良は責めているんじゃない。実況してくれている。尚人が自分で気づけないところを、明るく指摘してくれる。
「発表会、内緒って言った?」
「うん。びっくりさせたかった。団員さん、みんな協力してくれて。尚人、最近忙しかったじゃん。息抜き、作りたかった」
「……俺のため?」
「半分はそう。半分は、私が聴きたいから。尚人がホルン吹いてる時の顔、ちょっと好き」
「ちょっと、って何」
「全部って言うと重いから、ちょっとにしとく」
紗良はエプロンを取り出して、キッチンに立った。冷蔵庫を開け、卵を出し、フライパンを温める。その手つきの軽さが、尚人の胸の熱を少しずつ冷ましていく。
尚人は椅子に座ったまま、言葉を探した。探した末に、出てきたのは正直な一文だった。
「……さっき、変なメッセージ送ろうとしてた」
「へえ。どんな?」
「聞くな」
「聞きたい」
「……『誰と?』って」
「短っ。圧っ」
「ごめん」
「謝らなくていい。そうなる日、あるよ。だって尚人、心配性だもん」
「心配っていうか……見えないのが苦手」
「うん。分かる。じゃあさ、約束しよ」
紗良は卵を溶きながら言った。声が軽いのに、芯がある。
「私が遅くなる時は、“場所”と“だいたいの時間”を先に送る。あと、尚人は送信前に、息を一回。ホルンの息継ぎみたいに」
「息継ぎ……」
「そう。息継ぎすると、音がつながるでしょ。言葉も同じ」
「それでも不安が消えなかったら?」
「その時は、電話して。短文で刺すより、声のほうが丸い」
尚人は頷いた。頷きながら、胸の奥で小さく、熱が別の形に変わるのを感じた。燃え上がる熱じゃない。コンロの弱火みたいな、持続する温度。守るための温度。
料理ができた。卵と野菜の簡単な炒め物。味噌汁。いつもの味。けれど今日は、湯気の向こうに“戻ってきた”感じがあった。
二人で食べていると、紗良が急に箸を止めた。
「ねえ、尚人。明日、時間ある?」
「あるけど……何か?」
「発表会の曲、もう一回だけ、家で合わせたい。私、打楽器ないから、テーブル叩く。近所迷惑は……まあ、ほどほどで」
「それ、絶対楽しいやつ」
「でしょ。あと、尚人が変な妄想してる暇、なくなる」
尚人は笑った。笑うと、胸の奥がほどける。ほどけると、言葉が出る。
「さっきの“みんな”って、団の人たちだけ?」
「だけ。……誰か想像してた?」
「……してないって言ったら嘘になる」
「正直でえらい。じゃあ、私も正直言う。尚人が不安になるの、少し嬉しい」
「え」
「だって、私のこと好きって証拠じゃん。でも、嬉しいだけで終わらせたらダメ。だから、ちゃんと手順にする。ね」
「……ね」
食器を片付ける間、尚人はスマホを手に取った。メモアプリを開く。さっき送れなかった言葉が、画面の中に残っている気がしたけれど、何も残っていなかった。残っていないほうが、今はいい。
代わりに、尚人は一行だけ打った。
『息を一回。言葉は音。』
送信しないメモ。自分への譜面。
それから数日後。市民センターの小ホールで、ミニ発表会当日が来た。
舞台袖から流れる声、譜面をめくる音、椅子の脚が床を擦る音。尚人は客席の真ん中で、手のひらを膝に置き、無駄に姿勢よく座っていた。客席は確かにガラガラだ。最前列に団員の家族が数組。後ろに近所の人がぽつぽつ。静けさが、逆に緊張を増やす。
開演前、尚人のスマホが震えた。
『今、裏。あとで客席見える?』
その一行の情報量が、数日前とは違う。場所がある。状況がある。だから尚人の胸は熱くならない。熱くなっても、扱える。
『見えるよ。落ち着いて息して』
尚人はそう返してから、自分で笑った。いつの間にか、返す言葉が“刺さる”側から“支える”側に移っている。
照明が落ち、司会の挨拶が始まった。曲が始まる。尚人の担当は演奏ではなく拍手だ。紗良が任せた仕事。
最初の一曲目で、紗良は小さな太鼓を叩き、時々シンバルで空気に光を入れた。体全体でリズムを作る姿は、やっぱり“場の温度”だった。尚人は何度も「いいな」と思い、そのたびに拍手が早くなりそうになって、慌てて我慢した。
休憩時間、尚人はロビーの自販機で紙コップのココアを買った。甘さが喉に広がると、緊張も少し溶ける。
ロビーの端で、紗良が団の男性と話しているのが見えた。指揮者だ。背が高くて、笑うと目尻が深くなる人。紗良が身振りで説明して、指揮者が頷いている。
尚人の胸が、ほんの一瞬だけ熱くなった。
(またか)
尚人は自分の中の熱を見つけて、笑ってしまった。その熱は消えない。消さなくていい。出し方が問題だ。
尚人は紙コップを両手で包み、息を一回吸って、ゆっくり吐いた。息を吐く間に、熱は“焦げ”にならずに“温度”に落ち着く。
そして、歩いた。逃げるんじゃなく、近づくために。
「紗良」
呼ぶと、紗良が振り向き、すぐに手を振った。指揮者も尚人に気づいて会釈した。
「尚人、来てたんだ」
「来てる。拍手係だから」
「最高の係じゃん」
紗良がそう言って笑った瞬間、尚人の中の余計な想像はみんな引っ込んだ。引っ込むタイミングが分かっただけで、世界はずいぶん楽になる。
後半の最後の曲が終わり、客席から拍手が起こった。尚人は立ち上がって、手が痛くなるまで拍手した。紗良が客席を見て、ほんの一瞬、尚人のほうに視線を送る。合図みたいに、短く二回、頷いた。
尚人も短く二回、頷き返した。
終演後、ロビーで片付けが始まった。紗良は尚人のところへ走ってきて、息が上がったまま言った。
「どうだった?」
「よかった。あと、拍手のタイミング難しい」
「でしょ。だから任せた」
「無茶ぶりだ」
「無茶ぶりは愛情」
紗良はポケットから小さなメモを取り出した。雑に折られた紙だ。
「はい、今日の反省。私も書いた」
尚人が見ると、そこには短い箇条書きがあった。
・遅くなる時は場所と時間
・送る前に息一回
・不安は声で
・拍手は少し遅め(尚人用)
尚人は吹き出した。
「最後、俺専用じゃん」
「必要でしょ。拍手早いんだもん」
「……でも、助かる」
「うん。手順は助けるためにある」
帰り道、二人は駅前の交差点を渡った。夜風が冷たく、頬が少し痛い。紗良が尚人の腕に自分の腕を絡め、歩幅を合わせる。
その時、紗良のスマホが震えた。紗良は画面を見て、にやっと笑う。
「団のグループ。『お疲れさま!』だって」
「返信する?」
「うん。……あ、ついでに尚人にも送っとく」
紗良は尚人の顔を見て、わざと真面目な声で言った。
「“今から帰る”。はい、送信」
「……今、隣にいるのに?」
「情報共有は丁寧に」
「丁寧すぎる」
尚人のスマホが震えた。
『今から帰る(隣)』
尚人は笑いながら、返信欄を開いた。送信前に、息を一回。吸って、吐いてから打つ。
『おかえり(隣)』
送信。たったそれだけで、胸の中の熱は、ちゃんと明るいほうへ向かった。
恋は、熱くなるだけじゃ続かない。熱を扱う手順が要る。消さないための、ささやかな約束が要る。
その約束を、二人で練習していく。音みたいに、息みたいに。
部屋に着くと、尚人は楽器ケースをそっと床に置いた。紗良はコートを脱ぎながら、胸の前で指を立てる。
「合図、もう一回」
トントン。短く二回。
尚人は同じように二回、胸を叩いて返した。言葉じゃない合図が増えると、言葉は少し優しくなれる。
キッチンで湯を沸かし、湯気の中で二人は顔を見合わせて笑った。明日もきっと、不安はゼロじゃない。でも、息継ぎの仕方なら、もう覚えた。




