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短編集  作者: 科上悠羽


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3/11

『息継ぎの約束』

 改札を抜けた瞬間、駅前の交差点でクラクションが鳴った。短く二回。慌てて走る自転車の背中を、車が叱っただけの音なのに、尚人なおとの胸はそれを「呼び出し」みたいに受け取ってしまう。

 今日は、音が全部、刺さる。


 スマホに届いた紗良さらのメッセージは一行だった。


『練習のあと、みんなと少し寄るね。遅くなる!』


 “みんな”が誰で、“少し”がどれくらいで、どこに寄るのか。いっそ空白だらけのほうが楽なのに、文は元気で、疑問だけが残る。尚人は歩きながら、親指で返信欄を開き、閉じた。

 聞けばいい。そう頭では分かっている。分かっているのに、聞き方が出てこない。出てこない代わりに、いやな想像だけが出てくる。


 尚人は音が苦手だ。いや、正確には「音の裏の意味」を勝手に増やしてしまう癖がある。

 職場のチャットの「了解です。」に句点がついていると、怒られている気がする。短い返信は、距離のサインに見える。逆に長文は、重たく感じてしまう。

 だから、尚人はいつも、メッセージを送る前に一度、深く息を吸う。息を吸えば、言葉が少し丸くなる。そういう、ささやかな自衛を覚えた。


 なのに今日は、息を吸う前に胸が熱くなる。熱いまま返信欄に打ち込んでしまう。


『誰と?』


 送信ボタンのすぐ手前で、尚人は止まった。これでは質問じゃない。取調べだ。

 消す。打ち直す。


『練習後って、何時くらいになりそう? 心配だから』


 これなら……と思った瞬間、別の自分が囁く。心配? 本当は、見えないのが嫌なだけだろ。見えないのが嫌なら、そう言えよ。そう言うと、紗良が困るだろ。困らせたくないなら、黙れよ。

 尚人はまた消した。


 自宅の玄関に着き、靴を脱いでも、気持ちは脱げなかった。キッチンの時計がカチカチ鳴る。いつもは気にならない音が、今日はやけに正確で、責めてくる。

 冷蔵庫から麦茶を出して飲む。喉が鳴る。生きている音だけは、味方だ。


 尚人と紗良は、市民吹奏楽団で知り合った。尚人はホルン担当。入団した理由は「大人になってから、ちゃんと息を使う趣味が欲しい」だった。

 紗良はパーカッション。手が空いたら何でも叩ける人で、譜面台の角でも、拍手でも、机でも、リズムにしてしまう。誰かが緊張すると、紗良はわざと変なリズムを叩いて笑わせる。そういう“場の温度”の人だ。


 付き合って一年。喧嘩は少ない。少ないのは、尚人が先に飲み込むからだ。飲み込むのは得意だ。飲み込んでいるうちに、自分の中で何が苦しいのか分からなくなるのも、得意になってしまった。


 テーブルにスマホを伏せる。伏せても、通知は心の中で光る。

 尚人は楽器ケースを開け、ホルンを取り出した。正直、吹く気分じゃない。でも手は覚えている。組み立て、マウスピースを唇に当てる。吸って、吐く。息は嘘をつかない。息が震えるなら、心が震えている。


 ロングトーンを一音。部屋の空気が少しだけ広がった。

 二音目、三音目。音が安定してくると、妙なことに気づく。尚人の胸の熱は、怒りじゃなくて焦りだ。置いていかれる焦り。置いていかれるのが怖いから、確かめたくなる。確かめるために、強い言葉を選びたくなる。

 強い言葉は、簡単だ。簡単だから、危ない。


 その時、玄関の鍵が回った。

 尚人は音を止めた。紗良が帰ってきた。足音が軽い。ドアを開けた瞬間、外の夜の匂いが流れ込む。少し冷えて、少し甘い匂い。


「ただいまー! ……あ、吹いてた?」

 紗良は手を振りながら、尚人の顔を見て、目を細めた。

「ごめん、思ったより遅くなった。お腹すいた?」

「……うん。すいた」

「じゃ、何か作ろ。あ、でも先に言っとく。今日、スマホ見れてなくて」

「見れてないのは分かった」


 言い方が硬くなった。自分で分かる。尚人は喉の奥で一度息を吸った。吸ってから言う。


「……寄ったって、どこに?」

「駅前の喫茶店。団の人たちと。来月のミニ発表会の、段取り。内緒にしようと思ったけど、尚人の顔が“問い詰める顔”だから言う」

「問い詰める顔……」

「うん。眉間がさ。『尋問、開始』って書いてある」


 紗良は笑いながら、尚人の眉間を指でちょんと押した。尚人は反射的に後ずさりして、変な声が出た。

「書いてない」

「書いてある。ほら、ここに」

「……それ、いつも見てるの?」

「見てるよ。尚人って、口より先に顔が送信するから」


 痛い。けど、痛いのに助かる。紗良は責めているんじゃない。実況してくれている。尚人が自分で気づけないところを、明るく指摘してくれる。


「発表会、内緒って言った?」

「うん。びっくりさせたかった。団員さん、みんな協力してくれて。尚人、最近忙しかったじゃん。息抜き、作りたかった」

「……俺のため?」

「半分はそう。半分は、私が聴きたいから。尚人がホルン吹いてる時の顔、ちょっと好き」

「ちょっと、って何」

「全部って言うと重いから、ちょっとにしとく」


 紗良はエプロンを取り出して、キッチンに立った。冷蔵庫を開け、卵を出し、フライパンを温める。その手つきの軽さが、尚人の胸の熱を少しずつ冷ましていく。


 尚人は椅子に座ったまま、言葉を探した。探した末に、出てきたのは正直な一文だった。


「……さっき、変なメッセージ送ろうとしてた」

「へえ。どんな?」

「聞くな」

「聞きたい」

「……『誰と?』って」

「短っ。圧っ」

「ごめん」

「謝らなくていい。そうなる日、あるよ。だって尚人、心配性だもん」

「心配っていうか……見えないのが苦手」

「うん。分かる。じゃあさ、約束しよ」


 紗良は卵を溶きながら言った。声が軽いのに、芯がある。

「私が遅くなる時は、“場所”と“だいたいの時間”を先に送る。あと、尚人は送信前に、息を一回。ホルンの息継ぎみたいに」

「息継ぎ……」

「そう。息継ぎすると、音がつながるでしょ。言葉も同じ」

「それでも不安が消えなかったら?」

「その時は、電話して。短文で刺すより、声のほうが丸い」


 尚人は頷いた。頷きながら、胸の奥で小さく、熱が別の形に変わるのを感じた。燃え上がる熱じゃない。コンロの弱火みたいな、持続する温度。守るための温度。


 料理ができた。卵と野菜の簡単な炒め物。味噌汁。いつもの味。けれど今日は、湯気の向こうに“戻ってきた”感じがあった。

 二人で食べていると、紗良が急に箸を止めた。


「ねえ、尚人。明日、時間ある?」

「あるけど……何か?」

「発表会の曲、もう一回だけ、家で合わせたい。私、打楽器ないから、テーブル叩く。近所迷惑は……まあ、ほどほどで」

「それ、絶対楽しいやつ」

「でしょ。あと、尚人が変な妄想してる暇、なくなる」


 尚人は笑った。笑うと、胸の奥がほどける。ほどけると、言葉が出る。


「さっきの“みんな”って、団の人たちだけ?」

「だけ。……誰か想像してた?」

「……してないって言ったら嘘になる」

「正直でえらい。じゃあ、私も正直言う。尚人が不安になるの、少し嬉しい」

「え」

「だって、私のこと好きって証拠じゃん。でも、嬉しいだけで終わらせたらダメ。だから、ちゃんと手順にする。ね」

「……ね」


 食器を片付ける間、尚人はスマホを手に取った。メモアプリを開く。さっき送れなかった言葉が、画面の中に残っている気がしたけれど、何も残っていなかった。残っていないほうが、今はいい。

 代わりに、尚人は一行だけ打った。


『息を一回。言葉は音。』


 送信しないメモ。自分への譜面。


 それから数日後。市民センターの小ホールで、ミニ発表会当日が来た。

 舞台袖から流れる声、譜面をめくる音、椅子の脚が床を擦る音。尚人は客席の真ん中で、手のひらを膝に置き、無駄に姿勢よく座っていた。客席は確かにガラガラだ。最前列に団員の家族が数組。後ろに近所の人がぽつぽつ。静けさが、逆に緊張を増やす。


 開演前、尚人のスマホが震えた。

『今、裏。あとで客席見える?』

 その一行の情報量が、数日前とは違う。場所がある。状況がある。だから尚人の胸は熱くならない。熱くなっても、扱える。


『見えるよ。落ち着いて息して』

 尚人はそう返してから、自分で笑った。いつの間にか、返す言葉が“刺さる”側から“支える”側に移っている。


 照明が落ち、司会の挨拶が始まった。曲が始まる。尚人の担当は演奏ではなく拍手だ。紗良が任せた仕事。

 最初の一曲目で、紗良は小さな太鼓を叩き、時々シンバルで空気に光を入れた。体全体でリズムを作る姿は、やっぱり“場の温度”だった。尚人は何度も「いいな」と思い、そのたびに拍手が早くなりそうになって、慌てて我慢した。


 休憩時間、尚人はロビーの自販機で紙コップのココアを買った。甘さが喉に広がると、緊張も少し溶ける。

 ロビーの端で、紗良が団の男性と話しているのが見えた。指揮者だ。背が高くて、笑うと目尻が深くなる人。紗良が身振りで説明して、指揮者が頷いている。

 尚人の胸が、ほんの一瞬だけ熱くなった。


(またか)

 尚人は自分の中の熱を見つけて、笑ってしまった。その熱は消えない。消さなくていい。出し方が問題だ。


 尚人は紙コップを両手で包み、息を一回吸って、ゆっくり吐いた。息を吐く間に、熱は“焦げ”にならずに“温度”に落ち着く。

 そして、歩いた。逃げるんじゃなく、近づくために。


「紗良」

 呼ぶと、紗良が振り向き、すぐに手を振った。指揮者も尚人に気づいて会釈した。

「尚人、来てたんだ」

「来てる。拍手係だから」

「最高の係じゃん」


 紗良がそう言って笑った瞬間、尚人の中の余計な想像はみんな引っ込んだ。引っ込むタイミングが分かっただけで、世界はずいぶん楽になる。


 後半の最後の曲が終わり、客席から拍手が起こった。尚人は立ち上がって、手が痛くなるまで拍手した。紗良が客席を見て、ほんの一瞬、尚人のほうに視線を送る。合図みたいに、短く二回、頷いた。

 尚人も短く二回、頷き返した。


 終演後、ロビーで片付けが始まった。紗良は尚人のところへ走ってきて、息が上がったまま言った。

「どうだった?」

「よかった。あと、拍手のタイミング難しい」

「でしょ。だから任せた」

「無茶ぶりだ」

「無茶ぶりは愛情」


 紗良はポケットから小さなメモを取り出した。雑に折られた紙だ。

「はい、今日の反省。私も書いた」

 尚人が見ると、そこには短い箇条書きがあった。


・遅くなる時は場所と時間

・送る前に息一回

・不安は声で

・拍手は少し遅め(尚人用)


 尚人は吹き出した。

「最後、俺専用じゃん」

「必要でしょ。拍手早いんだもん」

「……でも、助かる」

「うん。手順は助けるためにある」


 帰り道、二人は駅前の交差点を渡った。夜風が冷たく、頬が少し痛い。紗良が尚人の腕に自分の腕を絡め、歩幅を合わせる。

 その時、紗良のスマホが震えた。紗良は画面を見て、にやっと笑う。

「団のグループ。『お疲れさま!』だって」

「返信する?」

「うん。……あ、ついでに尚人にも送っとく」


 紗良は尚人の顔を見て、わざと真面目な声で言った。

「“今から帰る”。はい、送信」

「……今、隣にいるのに?」

「情報共有は丁寧に」

「丁寧すぎる」


 尚人のスマホが震えた。

『今から帰る(隣)』

 尚人は笑いながら、返信欄を開いた。送信前に、息を一回。吸って、吐いてから打つ。


『おかえり(隣)』


 送信。たったそれだけで、胸の中の熱は、ちゃんと明るいほうへ向かった。

 恋は、熱くなるだけじゃ続かない。熱を扱う手順が要る。消さないための、ささやかな約束が要る。

 その約束を、二人で練習していく。音みたいに、息みたいに。


 部屋に着くと、尚人は楽器ケースをそっと床に置いた。紗良はコートを脱ぎながら、胸の前で指を立てる。

「合図、もう一回」

 トントン。短く二回。

 尚人は同じように二回、胸を叩いて返した。言葉じゃない合図が増えると、言葉は少し優しくなれる。

 キッチンで湯を沸かし、湯気の中で二人は顔を見合わせて笑った。明日もきっと、不安はゼロじゃない。でも、息継ぎの仕方なら、もう覚えた。


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