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短編集  作者: 科上悠羽


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『映写室の最後の熱』

 商店街の端にある「月見館」は、映画館というにはもうだいぶ古かった。

 赤い絨毯はところどころ擦り切れ、ロビーのガラスケースに入ったポスターも、色が少しずつ抜けている。客席は百五十席。立派とは言えないが、潰れずに残っているだけで町の人間には少し自慢できる場所だった。

 ただ、その月見館も来月で一度閉まる。

 建物の老朽化と、設備更新のための長い休館。

 再開予定は一応あるが、それが今の形のままかどうかは誰にも分からない。


 久世航は、その月見館で映写をしている。

 三十四歳。高校を出てからアルバイトで入り、そのままずるずるとここまで来た。

 映画オタクだったわけではない。

 最初は、ただ機械が面白かったのだ。

 フィルムの巻き、レンズの焦点、音のズレ、ランプの熱、シャッターの回転。目に見えない一秒一秒を、機械の都合でぴたりと繋いでいく作業が好きだった。

 いつの間にか、映画そのものより映写室のほうが自分の居場所になっていた。


 だから三年前、デジタル映写機が入ったときも、航は素直に喜べなかった。

 便利なのは分かる。トラブルは少ないし、運用も軽い。上映前の段取りは半分以下になった。

 けれど、何かが減ったとも思った。

 フィルムの匂い。

 つなぎ目を確かめる指先。

 上映中に少しだけ耳を澄ませて、回転音の癖で機嫌を読むあの感じ。

 そういうものは、デジタルにはない。


「またそこにいる」


 夜の最終回が終わったあと、映写室の扉から顔を出したのは支配人の神部だった。五十代後半、現場叩き上げだが数字の話になると急に冷静になる人だ。

 航は古い35ミリ映写機の前にしゃがんだまま、顔も上げずに答える。


「掃除です」

「それ、もう今月上映ないだろ」

「知ってます」

「じゃあ掃除じゃない」

 神部は苦笑した。

「見に来てるんだろ」

 図星だった。

 今月の編成はデジタル上映ばかりで、この古い機械が動くのは、休館前の特別企画「月見館のフィルム週間」だけだ。

 それまで映写機はほぼ眠っている。

 にもかかわらず航は、閉館後になると時々こうして上へ上がってきて、必要のない調整ノブを撫でたり、レンズの縁の埃を払ったりしていた。


「来週の最終日、こっち回すの?」

 神部が聞く。

「回します」

「デジタルのほうが安定するぞ」

「分かってます」

「客だって違い分からないかもしれん」

 その言い方に、航は少しだけ眉を寄せた。

「分からないかもしれないなら、余計にやる意味あります」

「どういう理屈だ」

「分からなくても、そこにあるものをちゃんと通して終わらせたいからです」

 神部はしばらく黙ってから、肩をすくめた。

「そういうとこ、面倒くさいよな」

「知ってます」

「でも、嫌いじゃない」

 それだけ言って、神部は先に階段を下りていった。

 残された映写室には、使っていない機械の鈍い匂いだけが残る。

 昔はここが世界の中心みたいに感じた夜もあったのに、今は少し広すぎる。


 月見館には、最近もう一人、映写室へよく顔を出す人間がいる。

 花巻澪。二十九歳。

 休館前の企画広報を手伝うため、別の劇場から短期で来ているスタッフだ。

 もともとは配給会社の宣伝をしていたらしいが、今はシネコン系の運営会社にいるという。

 仕事が速い。

 ポスターの見せ方も、SNSの書き方も、客の目を引く仕掛けも分かっている。

 航からすると、明らかに「これから」の人間だった。

 だから少し苦手だった。

 苦手なくせに、話はしやすい。そこがまた面倒だった。


「やっぱりこっち使うつもりなんですね」


 ある晩、澪が映写室のドアにもたれて言った。

 航はフィルム送りのローラーを外して油を差していた。


「使う」

「トラブル出たら地獄ですよ」

「知ってる」

「雨の日は湿気でズレるし」

「知ってる」

「音、ちょっとだけ遅れやすいし」

「知ってる」

 澪は笑った。

「全部知っててやるんだ」

「全部知ってるからやる」

「恋だなあ」

「違います」

「だいぶ怪しいですよ」

 航は返事の代わりに、布でレンズを磨いた。

 恋、という言い方は嫌だった。

 好きとか嫌いとか、そういうものよりもう少し面倒で、もっと生活に近いものだったからだ。

 ずっと面倒を見てきた機械。

 何度も直して、何度も機嫌を取り、音のズレで客席から苦情が来た夜には一人で朝まで調整した。

 怒りもある。

 うんざりしたこともある。

 それでも手放す段になると、胸のどこかが妙に鈍く痛む。

 その感じは、たしかに人に近いのかもしれない。


「月見館、休館したあと」

 澪が言う。

「戻ってきます?」

「何に」

「ここに」

 航はようやく手を止めた。

 その問いは、思っていたより近いところへ来た。


「分からない」

「へえ」

「へえ、って何ですか」

「いや、もっと即答で“戻る”って言うかと思ってた」

 澪は窓のない映写室を見回した。

「この場所の人って感じするから」

 その言葉に、航は少しだけ苦く笑った。

 この場所の人。

 昔はそれを誇らしく思った。

 でも今は、少しだけ怖い。

 場所に馴染みすぎると、自分がそこから先へ行けるのか分からなくなるからだ。


「澪さんは」

 航が聞いた。

「次、もう決まってるんでしょ」

「決まってる」

「迷わないんですか」

「迷いますよ」

 澪はあっさり言った。

「でも、迷ってても日程は来るから」

 その言い方が、少し羨ましかった。

 航は予定が決まっていないのではない。

 月見館が閉まる日だけが決まっていて、その先だけが白いままなのだ。

 白いものは、人を妙に臆病にする。


 休館前の最終週間は、思っていた以上に客が入った。

 昔の名作特集、リクエスト上映、最後のフィルム回。

 ロビーには昔からの常連が顔を見せ、「ここで初デートした」「親父に連れられて初めて見た映画がこれだった」なんて話をしていく。

 そんなもの、聞けば聞くほど映画館は簡単にはただの建物へ戻らない。

 誰かの時間が染み込んでいる場所は、それだけで厄介だ。


 最終日の上映作品は、三十五年前の古いロードムービーだった。

 若い人間はほとんど知らない。

 でも月見館では妙に人気がある。

 画面の中で人がずっと移動し続ける、その疲れた光の感じが、この古い映画館にはよく似合った。


 開場前、航はフィルム缶を開けた。

 巻きは古いが、状態は悪くない。

 つなぎを確かめ、リールへ掛ける。

 手順は何年経っても身体が先に覚えている。

 その落ち着きに少し救われる反面、これしかやってこなかったような気もして、胸の内側は相変わらず落ち着かなかった。


「緊張してます?」


 澪が映写室の隅で聞いた。

 今日は彼女も手伝いで残っている。

 ロビー対応を終えたあと、最後の回だけは映写室へ来ると言っていた。


「しますよ」

 航が答えると、澪は少し意外そうに目を丸くした。

「そう見えない」

「見せたくないだけ」

「格好つけ」

「うるさい」

「でも、そういうとこ好きですよ」

 軽く言ったように聞こえた。

 でも、あまりに自然だったので、逆に航は返事を失った。

 澪はそれ以上拾わず、窓のない壁へ肩を預ける。

 その距離感が、少しだけありがたかった。


 上映が始まる。

 映写機が低く回り始め、フィルムが一定の速度で走る。

 光がレンズを抜けて、下のスクリーンへ届く。

 航は音のズレと画角を確かめ、少しだけ息を吐いた。

 大丈夫だ。

 今のところ、大丈夫。

 けれど、その安心はいつもどこか脆い。

 フィルムの上映は、最後まで何があるか分からないからだ。


 一時間を過ぎたあたりで、ほんの一瞬だけ画面が揺れた。

 フィルムの継ぎが甘かったのか、送りのテンションが少しずれたらしい。

 航は反射的に補正レバーへ手を伸ばした。

 その横で、澪が何も言わずに懐中電灯を手渡す。

 言葉がないのに必要なものだけ来る。その感じが、少しだけ胸に残る。


 上映は持ち直した。

 客席からクレームも出ない。

 映画の終盤、スクリーンの中の人物たちは、それぞれ別の場所へ散っていく。

 誰もが何かを置き去りにして、それでも先へ行くしかない顔をしていた。

 航はその光を見ながら、ひどく困った。

 映画の話なのか、自分の話なのか、境目が曖昧になったからだ。


 エンドロールが流れる。

 客席から拍手が起きた。

 月見館で、拍手は珍しくない。

 でも今日の拍手は、映画そのものだけではなく、この場所へのものも少し混ざっている音だった。

 その音を聞いた瞬間、航は胸の中のどこかが急に静かになるのを感じた。

 終わるのだ。

 ちゃんと終わる。

 だからこそ、ここで自分も何か決めなければならない気がした。


 客出しが終わり、ロビーの灯りが半分落ちる。

 映写機の熱も少しずつ下がっていく。

 航は手袋を外して、機械の脇へそっと置いた。


「で」

 澪が言う。

「その顔は、何か決まった顔ですか」

「顔で決めないでください」

「でも今、だいぶ分かりやすい」

 航は少し考えてから言った。

「戻ってくるかどうかは分からない」

「うん」

「でも、一回出る」

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 誰かに相談して、考え抜いて出した答えではない。

 ただ今この瞬間、古い映写機の熱がまだ少し残っている部屋で、それを言わないと先へ進めない気がした。


「どこに」

 澪が聞く。

「まだ分かんない」

「そこは白紙なんだ」

「うん」

「でも出るんだ」

「出る」

 澪は少しだけ笑った。

「それなら十分です」

「十分?」

「うん。出るって決めるとこまでが、一番だるいから」

 その言い方が妙に実感に満ちていて、航もつられて笑った。


「澪さんは」

 航が聞く。

「今度の現場、行く前に月見館また来ます?」

「呼ばれたら」

「誰に」

「呼びたい人に」

 その返しは、少しだけずるい。

 でも今夜の航には、それくらいの曖昧さがちょうどよかった。

 はっきりした約束をするには、まだいろいろ決まっていない。

 けれど、何も残らないわけではないと分かる程度の言葉は、ちゃんと欲しかった。


 映写室を出る前、航は最後にもう一度だけ古い機械へ触れた。

 冷めかけた金属は、もうさっきまでの熱をほとんど持っていない。

 それでも、完全に冷えたわけではない。

 その中途半端な温度が、今の自分に少し似ていた。


「それじゃあ」

 澪がドアのところで振り返る。

「うん」

「バイバイ、ですか」

 航は少しだけ考えた。

 この場所に。

 この機械に。

 ここへいた自分に。

 全部へ一度に言うには、言葉は少し足りない気がした。


「いや」

 航は首を振る。

「まだ、その先があるなら、それは違う」

 澪は一瞬だけ目を細めてから、小さく頷いた。

「そっか」

 その返事が、静かな映写室によく馴染んだ。


 ロビーへ下りる。

 最後の灯りを落とす。

 ガラス戸の外には、夜の港の風が少しだけ残っている。

 月見館は明日から長い休館に入る。

 掲示板の文字も、ポスターも、そのうち剥がされるだろう。

 でも、それで全部が切れるわけではない。

 手放すことと、消えることは、同じではないのだと今夜は少しだけ信じられた。


 航は店先に立ち、鍵をゆっくり回した。

 その音が、夜の商店街へ小さく響く。

 次にここへ戻る日があるかは分からない。

 分からないままでも、一度外へ出ることはできる。

 そしてたぶん、本当に大事なものは、離れたからといって簡単には手から抜けていかない。


 海のほうから、少し遅れてまた低い汽笛が聞こえた。

 それを合図みたいに、航はようやく建物へ背を向けた。

 乾ききらない夜気を吸い込みながら、まだ名前のない次の場所へ向かって歩き出す。

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